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技術革新競争の勝者が生き残る

2012年02月27日 17:47

 第2次世界大戦のレーダーの開発競争に学ぶ


一つの発明が大きく時代を変えると、常々言ってきたが、激しい開発競争は戦時下では平時よりも一段と加速され、勝敗の決定的要因に成る事もある。第2次世界大戦にあって、レーダーの開発は戦局を作用する発明の一つと言っていいだろう。

 熾烈なレーダー技術開発競争

 電磁波を利用して航空機や船舶を探知するレーダー技術はいくつかの国で秘密裏に研究開発が行われていた。世界で一番早かったのは英国での開発で、終始英国が開発競争のトップに立ち続け、これが後に言われるBattle of Britain での英国本土へのドイツ空軍戦闘機、爆撃機来襲への迎撃で優位たて、ドイツ軍に英国侵攻を諦めさせた大きな理由である。レーダーには大きく分けて、地上用の敵機の襲来を察知するための警戒レーダーと敵機への射撃を誘導する迎撃レーダーと機上用レーダーがある。

地上用警戒レーダー
英国のレーダー技術はドイツ空軍の空襲を察知するために1934年から行われるようになり、1935年には本格研究が始まり、秋には早期警戒基地が完成した。レーダー基地が1939年までに英国東沿岸全域に作られ、レーダー網を完成させ、Battle of Britainで防空作戦に大きく寄与することとなった。戦争勃発時には20の監視所の鎖、チェーンホーム(CH)ステーションが完成した。CHは背の高い送信用と受信用の塔型アンテナを持ち、高度・機数の推測も可能で、凡そ160kmの探知距離をもっていた。またチェーンホーム・ロー(CHL)は、高度1.5km以下で飛来する機影を専門に探知するためのものであった。この技術は1940年に米国に伝えられ、日本との太平洋を挟んでの戦争で、米国の勝利にも大きく貢献した。

 一方、ドイツはレーダー技術で遅れをとったが、開戦時に地上用警戒レーダー「フライア」が実用化されていた。ゲマ社製のフライアは回転式で小型であることはCHよりも進んでいたが、探知距離は最大120kmと短かった。
一方、地上用迎撃レーダー「ヴュルツブルク」は1940年に入って量産に入った。1940年5月、エッセンに直径3mの皿型リフレクターを有するヴュルツブルクが、初めて据え付けられ、その威力を知ったドイツ軍は、よりシステマチックなレーダー迎撃システムの構築に着手した。完成したシステムを「ヒンメルベット」といった。42年春からはより高性能のヒンメルベットが開発された。迎撃レーダーヴュルツブルクは、リフレクターを直径3mから7.6mに伸ばした「ヴュルツブルク・リーゼ」に変わり、探知距離も70kmに伸びた。
フライアも世代交代し、アンテナを横に伸ばしたFuMo51「マムート」に代わった。これは最大索敵距離300kmであった。さらに、新警戒レーダーFuMG402「ヴァッセルマン」が配備された。最大探索距離190km。これは第二次世界大戦最良の警戒レーダーと言われたが、すでに時遅しであった。

 機上レーダー

 機上用レーダーでもイギリスは進んでいた。AI(空中邀撃)兵器と呼ばれ、機上用迎撃レーダーAI?型が1939年7月からブレニムに搭載された。イギリスの、より小型化された機上用迎撃レーダーAIIVは、探知距離240mから6.4kmに改良されていた。
 一方ドイツでは、機上用レーダーとしては不完全な電波高度計「リヒテンシュタインB」が実用化しようとしていた。本格的機上レーダーは1941年7月に完成したFuG202「リヒテンシュタインBC」が最初であった。しかし、これでも旧式化していた英国の機上用迎撃レーダーAIIVより劣っていた。
この頃になると英独両軍で、サーチライトは不必要なものになりつつあった。

 地上表示レーダー(地上のレーダー表示 画面上に航空機の識別、高度並びに緊急事態の発生等を表示するレーダー)H2Sは1943年1月30日から使用されたが、早くも1943年2月2日のケルン夜間爆撃の折り墜落した英パスファインダー機「スターリング」の機内からH2Sが発見された。これはベルリンのテレフンケン社に送られた。H2Sは波長10cm以下のマイクロ波を用い、PPI(平面位置表示器)に映し出す方式で、ドイツ技術者を驚かせた。直ぐに、H2Sの機上用逆探「ナクソス」と、地上用逆探「コーフー」が開発されることになった。だが、3月1日のベルリン空襲でテレフンケン社工場の被災でH2Sも破壊されてしまった。ところが、このとき改良型H2Sを積んだハリファックスが墜落し、最新のH2Sがドイツ軍の手に渡ってしまった。それを参考にドイツの機上用レーダーリヒテンシュタインBCも改良され、索敵角度も70°に広がった。ヒンメルベット運用にもなれ、43年7月にはリヒテンシュタインBCの普及率は80%に達した。

ウインドウ

 レーダーが発達し、それを使った戦闘が有効だとなると、レーダー技術を無効にする技術が登場する。
ドイツ軍は、1943年7月24日、791機の大編隊によるハンブルク爆撃で突然、ウィンドウを使用された。「ウインドウ」とはレーダーをかく乱するために撒かれたアルミ箔のことでイギリスによってドイツの捜索レーダー「フライア」、射撃管制用測距レーダー「ウルツブルグ」や航空機用機上レーダー「リヒテンシュタイン」を妨害するために開発された。夜間爆撃では電波妨害装置と共に使用されてドイツ軍の高射砲や迎撃機の回避に大きな成果を上げた。
この頃になると、ドイツは完全に制空権を連合国に握られ、それを取り戻すためゲーリング元帥は、飛行機の生産重点機種を戦闘機にするよう航空次官のエルハルト・ミルヒに指示、更にミルヒも「ウィンドウ」の影響を受けないレーダーの開発を、電波兵器メーカーに要望した。(ミルヒは大戦後、軍を離れてからルフトハンザの社長まで上り詰めた人物)その結果、開発されたのが、「ヴュルツラウス」で、ドップラー効果を応用して高速で移動する飛行機と、いったん散布されれば動きがごく緩慢になる「ウィンドウ」とを区別し、前者だけをスコープに映す仕組みで、もう1つは「ニュルンベルク」と云い、機体および「ウィンドウ」に当たって戻る両反射波の差を音で表現する装置だった。

 機上用には90MHz(3.3m)の長周波数を用い、電子妨害の影響を受けにくいFuG 220 リヒテンシュタイン SN-2を配備し始めた。しかし非常に巨大化した4本のアンテナ支柱が機首を占領し、さらに各アンテナ支柱に4つのダイポールアンテナを備えていたために、ヒルシュゲヴァイ(牡鹿の角)と呼ばれた。これは周波数3段切り替え式でウィンドウを無効にできた。索敵範囲も左右120°、上下100°と広く、最大探知距離は4kmであった。

 更に、イギリス空軍爆撃機に装備されたH2S地形表示レーダーの電波に感応するテンフケン社FuG 350 ナクソスZと、ドイツ夜間戦闘機の接近を知る「モニカ」後方警戒装置の電波を捕らえるジーメンス社FuG 227 フレンスブルクが、それぞれ実用段階に達した。両方とも敵の発した電波を捕らえる電波探知装置(ホーマー)で、相手の電波を逆手にとって敵を見つける装置だった。

 ツァーメ・ザウ

 44年夏には、新警戒レーダーFuMG404「アークトシュロス」が登場し、ツァーメ・ザウを支援した。「ツァーメ・ザウ」はレーダーで捕捉した敵機の群に対し偵察機が接近。敵機の大編隊に張り付き、その動向を常に連絡。 その情報を元に敵機を迎撃する戦法である。暗い夜間戦闘と違いレーダー網から抜けた敵機や、「ウィンドゥ」によってレーダーが攪乱された場合にも正確に接敵でき各所に配置された迎撃機が次々に襲いかかれるメリットがあった。こうした「ツァーメ・ザウ」戦法は以後、夜間航空団(NJG)の主戦法になり、敗戦に至るまで継続して用いられた。


 日本でのレーダー開発

日本は、理論的研究では遅れをとってはいなかった。イギリスが捜索レーダーに用いた指向性アンテナは昭和10年に八木秀次博士が開発した八木式空中線だった。日本では全く反響が無く学会からも無視された。しかし欧米では大々的な評判を呼び、各国で軍事面での技術開発が急速に進んだ。英国ではバトル・オブ・ブリテンの時点では無指向性アンテナを使用する短波帯の「CHレーダー」により、複数地点より観測して目標位置を特定していたが、直ぐに八木アンテナを使用したVHFレーダーを実用化した。八木アンテナは戦後主に家庭のテレビアンテナなどとして広く使用された。


海軍の電波兵器

艦載のレーダーは、要求される生産数の少なさと、大型化しても問題ないことから、比較的はやく実用化した。
対水上艦艇用レーダーは、対空用と違ってビームの発射角度が浅く、海面や波、島の乱反射の問題がある。
これには波長の長いメートル波ではだめで、マイクロ波レーダーが必要になる。海軍はマイクロ波の研究がはやかったので、艦載の射撃用電探試作品2号2型はミッドウェイ海戦で戦艦日向に付けられていた。 この22号は、波長10cm。実用性は低かった。3号2型射撃用レーダーは22号と同じ波長10cmを使用し、尖端出力2kw(合衆国のマーク8型射撃用レーダーはその8倍の出力)、30kmの探知距離を誇った。だが、このレーダーは5トンと、22号の3倍も重かった。このためもあって、1942年8月にはドイツの新型「ウルツブルグ・レーダー」の入手を計画して伊号第三〇潜水艦で輸入を試みたが、シンガポールで機雷に接触して沈没した。
日本海軍がレーダー開発でもたもたしている内、アメリカ海軍は、サボ島沖海戦やビラ・スタンモーア夜戦で、レーダーを活用して日本海軍を相手に勝利をおさめた。補給路を脅かす潜水艦に対してもレーダーは有効に働き、連合軍の海上輸送路の防衛に大きな役割を果たした。

機上用レーダー兵器

 飛行機に積むレーダーは小型化が求められる。飛行機用捜索レーダーの実用化も海軍の方がはやく、昭和17年5月には97式飛行艇に積んで実験が行われた。8月には改良型が仕上がり、略称H-6と言われた。H-6の重量は110kg、波長2mで最大探知距離は対船団で100km、対飛行機で70km、浮上潜水艦は20~30kmであった。
飛行艇や艦攻にまで用いられ、昭和18年の生産台数は300台だった。陸軍は、重爆撃機用電波警戒機タキ1号の試作品を昭和18年3月に完成した。タキ1号は対艦船用のものは重量150kgで、波長1.5m、最大探知距離は大型艦で100km、浮上潜水艦は20kmだった。
 機載邀撃レーダーは、海軍は昭和18年夏から機上射撃用電探として開発に着手、陸軍も同年4月から機上電波測定機の名で研究をはじめた。しかし偏狭なセクショナリズムに邪魔されて、両軍の邀撃レーダーはFD-2(18試空6号無線電信機)、タキ2号として実用化され、一部の夜戦に搭載された。

地上の電波兵器

海軍は昭和16年秋から「射撃用電波探信儀」として、陸軍は17年初めから「電波標定機」として研究をはじめていた。だが、合衆国やイギリスの電探のほうが遥かに高性能だったので、合衆国の邀撃レーダーSCR-268をコピーして「電波標定機III型(タチ3号)」が陸軍の手で昭和18年11月に完成された。海軍の4号1型射撃用電探の配備は18年8月からで、陸軍のタチ3号、4号ともメートル波を使っていた。それぞれ対編隊の最大探知距離は40km、測距精度±100mであった。

戦局の悪化で本土防空戦が始まり、高性能な対空レーダーも必要とされたが、当時の日本軍のレーダーは「電波警戒機甲型」という名称のドップラー・レーダーで探知性能は極めて低かった。本土防空用に早期警戒システムを整備したり、レーダー搭載の夜間戦闘機も開発したが、情報を管理するシステムに問題があり、戦闘機の数自体も不足していたため、終戦まで有効に機能することはなかった。ドイツのヴュルツブルクのコピーを製作中に終戦を迎えた。

 何故日本ではレーダーの開発が出来なかったか?

 八木博士が指向性の高いアンテナを開発していたにもかかわらず、実用的なレーダーの開発が出来なかった理由として。
 一つ目は日本の軍部を含めた政府全体の開発体制の不備、セクショナリズムである。
第2次世界大戦時、日本のレーダー開発は3つの組織が携わっていた。海軍、陸軍、そして政府(技術院)である。 終戦までにレーダー開発に軍部は一定の成果を収めたが、技術院を始めとする政府系開発機関は、全く成果を生むことなく敗戦を迎えた。
 二つ目は、より難しいマイクロ波レーダーの開発を進めた事である。当時から、波長の短い電波を用いたPPIスコープ(マイクロ波レーダー)が波長の長い電波を用いたオシロスコープ(デカメートル波レーダー)より勝っている事実は、日本海軍の軍人達も百も承知であり、これの開発を望んだのである。問題は、それを早期実現できる可能性を楽観視していた点にある。
 当たり前の話であるが、レーダー開発では電波の波長が短ければ短いほど、クリアすべき技術的な課題が多くなる。ドイツ軍や日本陸軍は、極めて短い波長のマイクロ波レーダー開発に手を出さず、(ドイツ軍は波長50センチ以下のレーダーを新型真空管マグネトロンを、撃墜したイギリス空軍爆撃機から鹵獲してから開発開始)アメリカでさえマイクロ波レーダーの自力開発が出来ず、イギリスからの技術供与(新型真空管マグネトロンの供与)によって何とか開発できた。
 三つ目は、海軍中央は八木アンテナやレーダーの効果よりも、自ら電波を出して敵に発見される危険性の方を重視したため、開発には消極的であった。また第二次世界大戦の最初期では、まだレーダーはそれほどの性能を持たなかったため、戦局は日本が優位に進められた。しかし、時代が進みレーダーの性能が加速度的に進化した結果、レーダーを用いた戦術の威力が増し、日本軍は多くの戦いでアメリカ軍に苦汁を飲まされる事となった。
四つ目がレアメタルの不足である。 第2次世界大戦時の日本が生産した真空管は、非常に信頼性が低かったことは知られているが、これの原因が銅の不足にある。真空管のリード線は銅を用いるが、銅の代用品として、鉄線を用いていた。本体の銅に鉄線をハンダ付けするが、その際に酸を使用するため、腐食して切れてしまう。
 さらに日本海軍の使用する真空管は、ガラス真空管を主用した陸軍と異なり、全て金属真空管だったため、ニッケルやコバルトの不足が直撃し、容易ならざる事態に追い込まれた。

 いずれにしても最大の敗因は開発初期のレーダーが実用にならなかったため、その将来的な重要性を見極め、新しい芽を育てようとする眼力のある優秀な技術者が日本にいなかったことであろう。

 近年の会社の興亡を見ていると、ものすごい勢いで技術革新が行なわれ、その波にうまく乗れたものは隆盛を極め、その波を掴み損ねると転落していくという傾向が顕著である。その例として、今までに何度もあげて来たのが、勝ち組としてはアップルやサムソンや富士フイルム。一方の負け組はSonyやコダックや多くの日本の家電メーカー。多くの場合、負け組は大発見の萌芽を見落とした、又はなめて対応しなかった。勝ち組はその芽が将来大きな樹になると予想して手をうって来た。
 ある会社が新製品をだせば短期間の間に、それを凌ぐ製品が競合相手から出され、それを受けてまたそれに勝る製品の開発とめまぐるしい競争である。どのように優秀な製品(飛行機、兵器)を開発したとしても、それに取って代わるものが必ず開発されるのが世の常である。新しい芽を積極的に育てるとともに、どんな勝者であっても常に、変化し続けなければ勝者の地位を守るのは難しい。
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