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天誅組蜂起

2012年06月06日 17:35

早すぎた蜂起

明治の世がまさに明けようとしていた1863年(文久3年)8月17日(旧暦)、天誅組は五條代官所を襲撃、代官鈴木源内を殺害し倒幕運動の烽火を上げた(天誅組の変)。
天誅組の本陣は桜井寺(五條市須恵、本陣交差点の近く)に置かれ、一時「五條仮政府」を名乗った天誅組は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団であった。しかし大和国で挙兵するも、幕府軍の追討を受けて壊滅した。

まさに明治維新目前の蜂起であったが、時に利あらず、結局は暴徒の蜂起として抹殺されてしまう。何事を成すにも早すぎても遅すぎてもダメで、事を行なうには時というものがある。研究に於いても、いくら良いアイデアであったとしても、それを実験的に裏づける必要があり、実験的に証明するための技術がその時に無ければ,机上の空論となる。技術の開発と相まってタイミングよくアイデアを思いついた人が勝者となる。歴史に於いても時代の流れにうまく乗ったものが生き残り、勝者となる。

天誅組の変の時系列

1863年8月13日
孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士は大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて京を出発した。これに従軍した半田門吉の『大和日記』によると結成時の同志は38人で、そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であった。このほか淡路島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金として供出した。
8月17日
幕府天領の大和国五条代官所を襲撃。代官鈴木源内の首を刎ね、代官所に火を放って挙兵した。桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨(写真1-3)を宣言し、「御政府」あるいは「総裁所」を称した。五条御政府と呼ばれた。
しかしながら歴史の流れは皮肉にも、一日にして激変。川の流れはそのまままっすぐに海に注がれることはなく、湾曲した流れとなる。翌日、長州藩が京都から追い出された文久の変(八月十八日の政変)がおこった。

8月18日
この政変で会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が京都での支配権を握り、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放した。
午前1時頃、中川宮と松平容保、ついで近衛忠熙(前関白)・二条斉敬(右大臣)・近衛忠房父子らが参内し、早朝4時頃に会津・薩摩・淀藩兵により御所九門の警備配置を完了した。そこで在京の諸藩主にも参内を命ずるとともに、三条ら尊攘急進派公家に禁足と他人面会の禁止を命じ、国事参政、国事寄人の二職が廃止とされた。8時過ぎから兵を率いた諸藩主が参内し、諸藩兵がさらに九門を固めた。
かかる状況下での朝議によって、大和行幸の延期や、尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等を決議した。長州藩は堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなった。

8月19日
長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、妙法院から長州へと下った(七卿落ち)。京の攘夷派は失脚してしまい、大和行幸は中止となり、天誅組の蜂起も無意味になってしまった。
一日にして情勢が変わり、挙兵の大義名分を失った天誅組は「暴徒」とされ追討を受ける身となった。天誅組は天の辻の要害に本陣を移し、御政府の名で武器兵糧を徴発し、吉村寅太郎(写真4)は五条の医師乾十郎とともに十津川郷に入り、反乱に加入を説得。その結果、野崎主計ら十津川郷士960人を募兵して兵力は膨れ上がったが、烏合の衆に過ぎずその武装は貧弱なものだった(写真5経過説明)。
天誅組は高取城を攻撃するが、少数の高取藩兵の銃砲撃を受けて混乱して敗走。この時点で三河刈谷藩から参加していた伊藤三弥のように早々に脱走するものもあった。

幕府は諸藩に命じて大軍を動員して天誅組討伐を開始する。天誅組は激しく抵抗するが、主将の中山忠光の指揮能力が乏しいこともあり敗退を繰り返し、しだいに追い詰められる。朝廷から天誅組を逆賊とする令旨が京都在住の十津川郷士前田雅楽に下され、急遽現地に赴いた前田は十津川郷士を説得。ここに主力の十津川勢が9月15日に離反。郷士代表の野崎は責を負い自害する。写真6は吉村寅次郎筆の皇居

9月19日
忠光は天誅組の解散を命じる。残党は伊勢方面へ脱出を図るが、鷲家口(奈良県東吉野村)で幕府軍に捕捉され壊滅した。吉村寅太郎は傷が悪化して歩行困難となり、一行から遅れ、駕籠に乗せられて運ばれていたが、27日に津藩兵に発見され射殺された。享年27。
中山忠光ら七名は長州藩に脱出した。長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派(恭順派)が台頭すると、潜居中の同年11月9日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。
しかしながら、忠光が長州藩に逃れたわずかの期間に生まれた 仲子が明治維新後正親町三条家(嵯峨家)の嵯峨公勝夫人となり、血縁は今に繋がった。その子嵯峨実勝の娘である浩(ひろ)はひ孫にあたるが、清朝のラストエンペラーとなった愛新覚羅溥儀の弟溥傑の嫁さんであるという。ご存知のように溥傑、浩さん夫婦は日本の敗戦により数奇な運命を過ごす事になる。浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社(中山忠光を祭った神社)の境内に建立された摂社愛新覚羅社に、長女の慧生(同級生と天城心中した)の遺骨とともに納骨された。

天誅組蜂起から3年後の1867年、徳川慶喜は大政奉還を建白し、徳川幕府は終わりを告げる。そして次の年の1868年には鳥羽伏見の戦いが起こり、官軍の勝利が決定的になり、歴史は明治維新に向って滔々と流れ出す。
写真1-3は天誅組本陣跡、写真4-5は吉村寅太郎の写真と天誅組の変の経過説明、写真6は吉村寅太郎筆、写真7は五條市を流れる吉野川、穏やかな流れに鯉のぼりが翻る。写真8、9は昔を思わせる町並み。

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