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佐和山城と彦根城

2012年06月19日 17:39

交通の要所を守る城

現在の彦根市は琵琶湖畔の井伊直弼縁の城下町として栄えている。この地は中山道と北陸道が交わる交通の要所として、古来より最重要拠点の一つであった。そこで秀吉は最も信頼していた石田三成に佐和山城を収めさせ、東に睨みを効かしていた。しかし徳川の天下になると、佐和山城は破壊尽くされ、そこから数百メートル離れた湖畔に家康は最も信頼できる井伊直政に彦根城を築かせ西に睨みを効かせた。

佐和山城

佐和山城の歴史は、鎌倉時代、近江守護職・佐々木荘地頭であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ石田三成の居城として有名で、「治部少に過ぎたものが二つある。 嶋左近に佐和山の城」と云われている。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。堀秀政の留守中は弟の多賀秀種が城代を務めた。天正13年(1585年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。さらに、天正18年には五奉行の一人である石田三成が入城した。三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、人をして「治部少(じぶのしょう。三成のこと)に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために伏見城に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。
三成は関ヶ原の戦いに万が一敗北した場合を考え、佐和山城での再戦を意図していたとされる。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。三成は領地にて善政を敷き、領民からも大変慕われていたため、直政はその威光を払拭するべく、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、慶長7年(1602年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長11年(1606年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に破壊されたため、城址にはほとんど何も残っていない。佐和山城跡の立て看板があるだけ(写真1-2)。

彦根城

関ヶ原合戦に功のあった井伊直政は、慶長6年(1601)徳川家康から近江国石田三成の旧領十八万石を与えられた。
 上州(群馬県)の高崎三万石から佐和山城に入った直政であったが、城は落城した惨状のままで、とても使えたものではなかった。しかも、修築しようにも中世の山城で交通が不便なうえ、戦闘形態が鉄砲主体の時期には不適当な城だったので、新たに近世城郭の建設を、西の湖畔の磯山に築城しようとした。しかし、直政は、関ヶ原の合戦時島津勢を追撃した時の鉄砲傷が原因で慶長7年に病没し、かわって嫡男の直継(のちの直勝)が家督を継ぎ、父・直政の意志を継いで築城にあたった。

彦根は湖と山の間、5キロメートルほどの狭い平地に立地する交通の要衝で、中山道と北陸道(北国街道)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年)・姉川の戦い(1570年)・賤ヶ岳の戦い(1583年)・関ヶ原の戦い(1600年)など、古来、多くの合戦がこの地域で行われた。 戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。 また、豊臣秀吉と徳川家康はそれぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置している。
築城に際し、家康は、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の七ヶ国十二大名に協力を命じるなど、一大名の築城ではなく幕府の総力をあげた国家的事業となった。築城開始が慶長8年(1603)(9年説も)で、天守は二年足らずで完成したが、さらに元和2年(1616)から表御前の造営をはじめとする城郭改造や外郭の拡張整備等の第二期の工事を行なって、三代目直孝の元和八年(1622)ようやく完成という二十年の歳月をかけた大工事だった。
これだけの大がかりな築城の裏には、家康にとって、この地方における信長・秀吉時代の残影を徹底的に取除こうという意図もあったといわれる。
 この時、天守は近くの京極高次の大津の城から移されたと伝えられ、西の丸三重櫓は浅井長政の小谷城から、天秤櫓は豊臣秀吉の長浜城から、太鼓門は石田三成の佐和山城からといったように、各所の城から運び込んで移築されたといわれる。
城地の亀山(彦根山)は琵琶湖にのぞむ(写真3)独立した小丘で高さ136m、山上に本丸を置き、その西北一段低く西の丸を設け、本丸の東南には空堀をへて太鼓丸、鐘の丸の郭を造成した。
 山麓に主郭、三の丸を造り、堀には湖の水を引き入れた(写真4)。主郭には御殿があり、ここが藩主の住まいと政庁だった。
 現在の天守(写真5-6)は三重三階で小規模であるが、初層の四方にそれぞれ二つずつ切妻破風を、上層には唐破風をかけ、最上層の窓を火頭窓にするなど、変化に富んだ姿をみせている。

 彦根城は天守だけでなく多くの櫓(写真7-8)を残しており、城郭としてのまとまった美しさを今日に伝える数少ない遺構の一つである。
井伊氏ははじめ十五万石の石高であったが、大坂の陣の戦功で五万石加増、さらに寛永10年(1633)に十万石の加増、別に預け高と称する五万石があったので三十五万石の大大名となった。
 万延元年(1860)3月3日に十三代藩主で大老職にあった井伊直弼(生誕の地を示した写真9)が水戸藩士などに襲撃斬殺されたため幕府としても仕方なく十万石の減封処分とした。ために幕末には二十五万石の石高であった。
 井伊氏によって築かれた彦根城は、そののちの明治維新を迎え、廃藩置県まで一度の領主替えもなく井伊氏十四代が在城し続けた。
 
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