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淀城と淀古城

2012年07月13日 18:54


淀城跡は、宇治川、桂川の合流付近の川中島、現在の京都市伏見区の京阪電車淀駅のすぐ横に位置する。今まで勘違いしていた。現在残っている城跡はてっきり淀君が住んでいた淀城跡だと思っていた。しかし今ある淀城趾はかの有名な淀君の住んでいた城(淀古城と言われる)とは異なり、しかも淀古城は取り壊され現存しないんだそうである。

淀古城
安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた淀城は京阪淀駅より北へ約500メートルの位置にあった。このお城は「淀君」の為に築いた史上名高い「淀城」で、混同をさけるため「淀古城」とも呼ばれる。京阪電車淀駅から15分くらいの所にある納所(のうそ)という交差点近くの「妙教寺」が淀古城跡(写真1−3)だとされる。秀吉の天下となってから、天正17年(1589年)3月に秀吉の弟・豊臣秀長が淀古城を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所とした。これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。この城で鶴松が産まれるが天正19年(1591年)に死去してしまった。鶴松が死亡した後は甥の秀次が秀吉の養子となるが、淀殿が秀頼を産むと秀吉と軋轢が生じ切腹、家老でこの城の最後の城主であった木村重茲も連座、城も廃城となってしまった。幕末幕府軍と官軍との激しい戦いがあった場所でもあり、境内に戊辰戦争の東軍(幕府軍)の戦死者を祀った碑がある(写真4)。

淀城
江戸時代に、木幡山にあった徳川氏の伏見城の廃城により、その代わりとして2代将軍秀忠が松平定綱に命じて新たに築かせたのが現在の淀城である。以降は、山城国唯一の大名家の居城として明治に至った。寛永10年(1633年)松平定綱が大垣城に移った後、諸大名が次々と城主になったが、亭保8年(1723年)、春日局の子孫である稲葉正成が佐倉城から入城し、その後、明治維新まで稲葉氏10万2千石の居城となった。

幕末、幕府軍は鳥羽・伏見の戦いに敗北して淀城に籠もろうとするが、城主稲葉正邦が幕府の老中として江戸に滞在していたにもかかわらず、幕府軍が不利と見た淀藩の城兵は拒絶する。淀城は大坂城などとともに、西国に睨みを利かすために築城されたが、皮肉にも官軍の勝利に一役買うことになった。この時の兵火で淀城の城下町と城内の一部が焼亡してしまった。
淀藩の消滅に伴い、淀城は廃城となる。淀城東部にあった巨椋池の干拓によって地形が大きくかわり、本丸の一部を除いてすべて破壊された。さらに、本丸北西部を京阪電気鉄道が通過するに及び、淀城は見る影も無く取り壊され、本丸周辺の石垣及び堀のみが残っている。城跡から京阪電車がよく見れる(写真5−10)。
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