スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

高杉晋作終焉の地

2012年09月28日 19:02


高杉晋作フアンの一人として、念願の高杉晋作終焉の地にやっと行って来た。
高杉晋作の幕末での獅子奮迅の働き無くして明治維新実現は遅れていたか、なかったであろう。晋作の悲劇は事終えて、半年後の大政奉還を見ずして29歳の若さで亡くなったことである。

尊王攘夷で凝り固まっていた、長州、薩摩藩にもれず、高杉晋作も尊王攘夷運動を行なっていたが、1963年、5月に関門海峡を通る外国船砲撃を攘夷と称して長州藩は砲撃するも外国船の報復に会い惨敗した(下関戦争)。そこで藩は晋作に下関の防衛を任せ改革にのりだした。 晋作は正規の藩兵とは異なり、身分によらない志願兵による画期的な軍隊組織、奇兵隊を設立した。8月には再度、英国、米国、フランス、オランダの4カ国連合艦隊が下関を報復砲撃し、砲台を完全に破壊し、占拠した。この欧米の武力の強大さを自覚した長州藩はこれを契機に次第に開国倒幕へと旗を向ける事になる。

丁度時を同じくして、京都では公武合体派の薩摩藩と会津藩が結託して8月18日の政変を起こし、長州藩は京都から追放される。尊王攘夷派の三条実美を初めとする7卿も京から長州へと逃れた。世に言う7卿落ちである。更に翌年1964年、7月には長州藩は会津藩主、京都守護職松平容保らの排除を目指し武装蜂起するも敗北し(禁門の変、蛤御門の変)、朝敵となってしまう。

そして幕府による第一次長州征伐が起こされることとなるが、当時、長州藩では俗論派が台頭していた。危険を感じた晋作は10月には福岡へ逃れ、平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、再び下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵しクーデターを決行。後に奇兵隊ら諸隊も加わり、1865年3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握った。

晋作は再度の長州征討(第2次長州征伐)に備えて、防衛態勢の強化を進めた。一方で、1月21日、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元を仲介として、桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩長盟約が京都薩摩藩邸で結ばれた。

幕府による1866年6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として「丙寅丸」に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを敗り、林半七率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還した。小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させ、その援護のもと奇兵隊・報国隊を上陸させ、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走させた。
更に、幕府軍総督・小笠原長行が将軍・徳川家茂の死去の報を受け小倉城に放火し戦線を離脱したため幕府敗北は決定的となった。
この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、1867年11月の大政奉還への大きな転換点となった。

四境戦争後、晋作自身は、肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、1867年5月17日、 江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去り、明治維新という果実が実るのを見る事ができなかった。

辞世に際し晋作は「おもしろきこともなき世をおもしろく」と詠んであとの句を続ける事が出来なかったが、看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と続けた。それを聞いて、晋作は「面白いのう」とつぶやいて事切れたとされる。享年29歳。

高杉晋作の側室おうのは晋作が東奔西走する際もよき伴侶となりある時は幕府の追跡の白刃をもともにくぐったこともあったが晋作没後は、出家して梅處尼と名乗り東行庵初代庵主となった。  明治42年8月67歳に、他界するまで晋作の菩提を弔った。墓所は下関の吉田の東行庵にある。
入り口には大きな東行庵と書かれた石碑がある(写真1)。東行庵の説明と東行庵(写真2−3)。東行記念館の説明(写真4)。晋作辞世の句(写真5)晋作の墓(写真6−8)。晋作の顕彰碑には「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し 衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」という伊藤博文の名文に始まる業績が書かれている(写真9)。植えられた東行楓(写真10)。

幕末にあっては、有能、優秀な者程早く改革の犠牲者となった。まず吉田松陰のような思想家が活躍し、多くの若者を洗脳する。次にその思想に感化された優秀な者は先見性に富み、改革の先頭に立って活動するため、無理を重ねることとなり敵の標的になり易く、ことごとく命を落としてしまう。
次に程々に優秀な者が優秀な先人に導かれ、少し遅れて活動に入るので、犠牲が少なくて済み、一番美味しい果実が食べれた。それよりも遅く活動に入った者はすでに美味しい果実は食べ尽くされていたが、それでもおこぼれの果実は拾えた。
高杉晋作は松下村塾の塾生として久坂玄瑞と並ぶ秀才であったが、かつ慎重な面も持ち合わせていて、犠牲になることはなかったが、皮肉にも結核という当時の不治の病に侵されてしまう。運命とは皮肉なもの。
takasugi1.jpg
takasugi2.jpg
takasugi3.jpg
takasugi4.jpg
takasugi5.jpg
takasugi 6
takasugi 7
takasugi8.jpg
takasugi9.jpg
takasugi10.jpg
スポンサーサイト


最近の記事


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。