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なぜ勝海舟は評価が低い?

2013年01月08日 18:49

「半藤一利著幕末史」

正月の休み中に読んだ本で興味深かったのは「半藤一利著幕末史」で幕末を官軍側からではなく幕府側から眺めた本である。
よく歴史は勝者によって作られるというけれど、幕末の出来事も薩長の都合のいい様に改竄された部分が往々にしてある。なにしろ作者の半藤は東京生まれで、父方の出身が戊辰戦争で最後まで徹底に抵抗して城下全体が焼け野原となった朝敵藩である越後長岡藩ということで、薩長嫌いが子供の頃から身にしみていた訳だから、明治維新という言葉さえむかつき、「徳川家の瓦解」だと言えと思っているくらいです。だから西郷隆盛は偉人というよりも毛沢東と同じ破壊者で坂本龍馬にいたっては独創的なものは何も無く、みんな他人のアイデアのパクリであるなどといった文字が並ぶのです。

その幕末の中で活躍の割に評価が低い人物に勝海舟がいることにも納得できません。そういう私も勝海舟の幕末から明治への移行における役割は非常に重要だったと考えている一人ですが、あまり共感してくれる人はいません。勝海舟は潔く幕府と運命をともにしなかったためか幕府の裏切り者の様に言われ、運命をともにし、最後まで徹底抗戦を叫び(日本人はこのように忠義を最後まで尽くすという事が大好き)お役御免となり後に処刑された小栗上野介や最後まで抗戦し、函館の五稜郭まで行った榎本武揚に比して人気がなく評価が低い。一方、日本人はNHKの大河ドラマで始まった会津藩の松平容保の幕府への忠義ぶりや徹底抗戦には涙を流す程の感激ぶりなのです。

勝海舟(幼名驎太郎)は旗本小普請組(41石)の父「勝小吉」と母「信」の間に生まれ、10歳過ぎから島田虎之介の道場に通い、剣は直心影流の免許皆伝の腕前。しかしこれからの世は剣術の時代ではないと悟り、オランダ語を学び精通。清でアヘン戦争が起こった時には18歳になっていた。アヘン戦争のショックから大きく海外に目を向ける事になり、世界情勢を知るため佐久間象山の下で学ぶようになる。

そんな時(1853)にペリー艦隊が来航し開国を要求される。老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。勝驎太郎(31歳)や河合継之助(27歳)も意見書を出したが、勝の意見書はピカ一で幕府異国応接掛の岩瀬忠震と海防掛の大久保忠寛に認められ、これが出世の糸口になった。勝はそれまで単なる御家人で江戸城内に上がったことはなかったが,その後、様式学校、のちの長崎海軍伝習所設立のための専門委員に抜擢される。その時の建白書には「海からくる奴を防ぐには軍艦を買う事(造る事が出来ないので)そしてそれを動かす海軍の人たちを育てる事」が簡要だと言っている。そして(1855年)海軍士官養成の長崎海軍伝習所の実質的所長に任命され、オランダ船のスームピング号を貰い受け観光丸と名付けて約200名の生徒を集め実習を開始する。このときの老中阿部正弘は「これは幕府に取って一大事な仕事である。一人一人の名誉などを考えたりしないで、国のため日本のために役立つように頑張って欲しい」と訓示し、藩を離れて日本のためにという考えがこれから世に広まりだす。これが、薩長を含めて様々な藩から生徒が集まり、新たな人脈が出来て、明治の世の海軍の礎になって行く訳です。

日米修好通商条約が結ばれ、アメリカへ特使を派遣する(1860年)事になり咸臨丸が行く事になって勝驎太郎が艦長に抜擢される。福沢諭吉も同じ船でアメリカに渡る訳ですが、後に書いた本に「勝艦長は船酔いして全く役に立たなかった」とある。これがまた勝の人気をなくす原因になっていて役に立たないくせに威張り散らしたと後世で言われる訳です、しかし本著者の半藤はそんな事はあり得ない、すでに長崎で何度も船に乗り、難破しかけた事もあるくらいだし、船酔いなんかあり得ないと反論しています。

また大政奉還論は坂本龍馬が唱えたという事になっていますが、実際は大久保忠寛と勝驎太郎の二人がすでに提案していたものを坂本龍馬と山内容堂が正式に持ち出したものであるらしいです。なんと言っても勝驎太郎の最大の功績は江戸城無血会場で、平和裏に政権交代を行なわせたことです。

勝驎太郎と西郷隆盛が知り合ったのは長州征伐の軍総参謀長に西郷が決まって、その時神戸で繰練所つくりをやっている勝驎太郎という幕府の上の方に聡明なる人物がいるので話を聞こうという事になって会ったのが始めです。勝驎太郎は西郷に対して「1. 幕府は土台が腐り切っている。幕府を相手にしない方がいい。2. 緊急の兵庫開港日がすでに決まっている。外国人は幕府の役人を軽蔑し切っている。雄藩の賢公4、5人の共和政治で物事を決めるが宜しい。3. 雄藩連合の合議制による連合政権こそ現状打破の最上の策」と話します。こんな事をずけずけ言うのですから、幕府よりの藩からは嫌われて当たり前。
西郷は最初は頭から叩いてへこましてやるつもりだったのが論破するなんてとんでもないと頭を下げた。「佐久間象山なんて問題にならない、はるかにできた人間である。佐久間も学問と見識はりっぱであるが、実際の政治的危機に直面した時には勝先生しかいない」。それくらい勝にぞっこんほれた訳です。その頃、神戸繰練所の塾頭だったのが坂本龍馬です。そして勝の紹介で龍馬も西郷に会う事になります。

1868年鳥羽伏見の戦いで錦の御旗が翻ったとたん慶喜は朝廷に楯突く事はできないと、大阪城を抜け出し開洋丸にのって江戸に無断で帰ります。そして松平容保達に「恭順する謹慎して戦争はしない」と心の内を打ち明けます。
江戸に帰ると慶喜は勝を呼びつけますが、勝はなぜ大阪城に籠り戦わなかったのか?圧倒的に多数の1万の軍隊に無傷の海軍がいて戦えば勝てたはずだと問いつめますが、慶喜は何も答えず反対に「頼れるのはその方ひとりである。ただ一人であるぞ」と泣きつかれ勝は決心します。そしてこれから自分がやろうとしていることは徳川のためでもない、薩摩や長州のためでもない、わが日本国のための大事業だと気を新たにします。著者はこうも言っています。「幕末には随分いろんな人が出てきますが、自分の藩がどうのといった意識や利害損得を超越して日本国ということを大局的に見据えてきちんとことにあったったのは勝一人だと」

そして西軍は江戸を目指して進撃し、駿府に到着し、江戸城総攻撃の日程を決定します。勝は山岡鉄舟を使者にして参謀西郷に書簡を送り、「あなた方がどのような処置をしてもなにも申し上げない。ただ処置が正しいものであれば日本国にとって良い事であるが、間違ったことをすれば日本国の大失敗である。そして乱臣賊子である汚名は一生きえないであろう。戦争の無い静かな解決を望む」と述べます。

西郷は駿府を起ち江戸に向います。勝は和戦両方の構えをし、ナポレオンのモスクワ遠征のことをすでに知っていたらしく、いざとなったら江戸を火の海にするとまで脅しています。薩摩藩邸で最後の交渉をし、西郷はあっさりと「戦争は好んでいたすべきものではありませんから、明日の総攻撃は中止します」との確約を取り付けます。
しかし交渉で一番難しいのは慶喜の身柄安全の確認をいかにするかいうことで、第2次世界大戦の終戦にあたって天皇の身柄をどうするか、その点を陸軍大臣阿南大将が、我々が武器を捨てた後、天皇が絞首刑になったらどうするのかと最後まで頑張ったのと同じことです。

慶喜の身柄も交渉で無事確保でき、江戸城無血開城を導いた立役者はまさに勝なのに、どちらかというと攻める気満々の薩摩の西郷の方が評価が高いのも納得できません。とにかく勝てば官軍なのです。敗軍の将兵を語らずというのか勝は明治に入って反論はせず、どちらかと言えば幕府の侍達の生活の面倒を見る事に心を砕いたようです。
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