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長期戦の戒め

2013年04月30日 18:15


兵は拙速を聞くも未だ巧みの久しきをみざるなり
            孫子 作戦編
戦争においては、たとえ戦果が不十分な勝利であっても、速やかに終結に導くことによって戦争目的を達成したということは聞くが、これに反し、完全勝利を求めて戦争を長期化させ、結果がよかった例を、いまだ見たことがない。

孫子の兵法では作戦を立案するにあたって、完璧な勝利にこだわることによる、戦の長期化を戒めている。その理由は長期戦で良い結果が得られたことがないからという単純な経験則だ。

この作戦を忠実に守りいい結果につながった例。
日露戦争当時の両国の軍事力の差は歴然とし、まともに戦って勝てる相手ではなかった。そこで兵力の差を認識していた日本軍は、満州の全兵力を結集し、ロシア軍の主力との一大決戦に活路を見いだす作戦を立てた。最初から背水の陣である。
しかし、ロシアがバルチック艦隊を極東に送る方針を立てたため,このバルチック艦隊にあたる兵力を用意する必要が生じた。軍の再編成にとりかかり、満州軍総司令部を発足させた。大山巌が総司令官となり補佐役の総参謀長に児玉源太郎が配された。大山と児玉が受けた任命は複雑な面を持っていた。戦いが長期化すればする程、絶対的な兵力の差が日本にとって重荷になる。緒戦でロシアを叩き、頃合いを見計らって講和に持ち込むことが要求された。

日本軍は9月に遼陽を占領したのを始め,翌年の1月に乃木希典を司令官とする軍が苦しみながらも旅順を占領する。ロシア軍は奉天に兵を集め一大会戦に持ち込むが、日本軍の前に敗退した。さらに日本軍はロシア軍を追い込み消滅させようとの機運が高かったが、冷静な児玉はロシア軍は3ヶ月もあれば3倍の兵を持って戦いに挑める能力をもつが、日本軍の消耗は激しくこれ以上の戦闘は不可能であろうと判断していた。そこで児玉は戦場を離れ東京に取って帰り、講和を政府の首脳に解いて回り、8月に満州権益を確保する講和条約を結ぶ事に成功する。ただ講和にあたって、戦利品が少なく、ロシアへの譲歩が目立ったため国民からの突き上げをくらい、暴動騒ぎになった。児玉にしてみれば、どんなに不人気でも不利な条件でも大衆を敵に回しても講和を結ばなければならない、全く日本には余裕が無いという事が分かっていた。状況が読めない、目がくらんだ欲の皮の突っ張った大衆に迎合していたら、国家百年の計を誤るところであった。
日露戦争における一番の功労者であるはずの児玉源太郎はあまり人気がない。一方203高地攻略に多くの部下を死なせて、やっと旅順を落とした乃木希典はスタンドプレイがうまく、天皇のお気に入りでもあり、人気絶大で、乃木神社として死後も神として祀られた。

逆は第二次世界大戦のアメリカとの戦いであった。山本五十六は緒戦で真珠湾を叩き、出来るだけ早く講和を結ぶことを考えていたが、時の首脳陣、軍令部は逆に長期戦を好み、南方の石油利権を確保した後、徐徐に攻める作戦をとった。そのため、国力の無い日本は、石油、鐡をはじめ戦争遂行に必要な物資の不足に苦しみ、自滅してしまった。

研究は長期戦である。一つのことを明らかにしたら,更に次の問題点を明らかにするという、目的に至まで果てしない。誰でもかっこ良く最終目的を明らかにしたいと考える。しかしそのためには越えなければならない山が多くあり、時間がかかり過ぎる。研究も拙速を尊び、特に競争が激しい分野などでは、長期戦を行なう事が出来ない。その場合、実際の対応では最終目的に至までの長い道筋にある出城を落としたら、その攻防戦での論文を作成し、次の出城に至る。またそこで論文を作成し、一つ一つ敵の城を落としながら、最終目的の大きな城に至り、全体像を明らかにする、というようなやり方をしないと、道のりの遠い、大きな仕事を成し遂げるのは難しい。若い優秀な人ほど、大きなテーマを掲げ、目的を明らかにする計画の中で、あれもこれも明らかにしたいと、色んなデータの取得をしようとするあまり、時間がかかり過ぎ、テーマの旬も過ぎ、同じような論文も出され、その苦労の割には得るものがないということになる事が多い。研究も時には拙速を尊ぶである。
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