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なぜ日米開戦を回避できなかったのか(2)?

2013年10月01日 19:02

日本が開戦へ至ったターニングポイント

 日本がアメリカに対し開戦した大きな理由の一つは何と言っても、ドイツ軍機動部隊の破竹の勢いの進撃でヒットラーの勝ち戦に乗り遅れまいと言う心理的要因が働いたことが大きい。その中で、ターニングポイントとなるのが3国同盟の締結と、ドイツの勝ち戦でアメリカはイギリスの援助で精一杯で、太平洋にまで手が回らないだろうと読み、南方へ侵出したことであろう。

a. 三国同盟

当初のドイツ軍の破竹の勢いで、次々とヨーロッパ各国、ベルギーやフランスが打ち破られてしまうと,日本では一度立ち消えになった日独伊三国同盟の締結が再燃して来た。つまりドイツの勝ちに乗じてそのバスに乗り遅れるなの大合唱となった。特にフランスやオランダの敗北により空白となったアジアの資源地帯への侵出,陸軍によって言われ続けて来た南侵政策が現実のものとなって来た。しかし海軍の良識派はあくまでドイツと同盟関係に入る事は、イギリスを援助しているアメリカと敵対関係に入る事であり、日米戦争はなんとしても回避しなければならないと、ドイツと組む事には反対であった。

 しかし当時の大多数の首脳陣はドイツの優勢な戦況に影響され、更に松岡洋介外相の案(ソ連と中立条約を結んで北方の危機を除く)に飛びついた。前年陸軍は独走してソ連の国境を越え、戦端を開いたものの、こっぴどく叩かれ敗北した、いわゆるノモンハン事件を起こして、ソ連との関係が完全に冷えきっていた。松岡洋介はドイツが独ソ不可侵条約を結びソ連との関係も良好であったことから、仲介の労をとっても良いとの提案に乗る案を出した。ドイツに仲介してもらい、日ソ中立条約が結ばれ、日独伊ソの4国協商が可能となりアメリカを敵に回してもやって行けるとの妙な自信が出て来た。後にヒットラーがあっさりと不可侵条約を敗ってソ連国内に攻め込んで、そのもくろみはもろくも外れるのであるが。という状況下、山本五十六の強い反対にも関わらず、ドイツの勝利を確信し、ヒットラーのバスに乗り遅れまいと、昭和15年9月19日(1940年)に御前会議が開かれ、事実上天皇もこれを認め、昭和15年(1940年)9月27日三国同盟締結が公表された。皮肉なことに丁度その頃、ドイツ空軍はBattle of Britainのロンドン空襲で英国空軍に大敗北を (9月15日)を起し,完全にドイツ軍の潮目が変わり始めていた。

b. 東南アジア侵出

  日本が南侵政策を取り、蘭印攻略に手をつけたら、アメリカやイギリスが黙っていないだろうとの考えから強く、ドイツと組んで、東南アジアへ進出する事に山本五十六は反対し、南侵がいかに無謀なことかを示すため、図上演習を昭和15年11月26日から28日にかけて目黒の海軍大学校で行なった。
その結果は巡洋艦以下小艦艇はかなりの被害を受け、飛行機は3分の2を失うとでた。山本は実戦になればもっとひどい、飛行機と潜水艦が相当不足しているとのべ、これでは戦争にならないと結論した。また海軍中央も独自に研究を重ねた結果、いかに希望的観測を持ってしても15年秋から冬にかけて、蘭印に武力進出する事はできないと結論せざるを得なかった。そして装備を増強しアメリカの7割5分に近づける政策がなされた(日本海軍は艦隊がアメリカの75%もあれば日本海軍の質の良さで、その劣勢を充分補え、かつ勝負できるという自信を持っていた)。しかし、何れにしてもアメリカによる通商条約の破棄、様々な経済制裁、がなされ、つぎに石油の全面禁輸がくる事は目に見えていた。このままだとのたれ死にになりかねない。全面的にアメリカと戦争になった場合、日本の抗戦国力は1年半ながくて2年しか保たず,開戦後1年しての海軍力はアメリカの半分程度になると予想され、長期戦はできない事が考えられた。
そのような状況下、南方の資源を確保して長期戦に備えるしか無いという考えが主流となってきた。
 丁度その頃、ドイツ軍の英国爆撃が最高潮に達し、三国同盟が結ばれ (1940年,昭和15年9月27日)意気軒昂、アメリカの圧力を跳ね返す、戦略が練られた(15年の夏から秋にかけて)。しかし運命とは皮肉な事に、その頃をピークにドイツの勢いが失われ、イギリスがドイツ軍の攻撃をしのぐ見通しが得られ、逆に太平洋で反抗をするためアメリカとイギリスの共同戦線計画が練られはじめた。
  昭和15年10月15日の人事で海軍上層部が一新され、反対派は全て、艦隊勤務など、中央から遠ざけられはじめ、戦争体制が徐々に整い始めた。11月15日、及川海相は出師準備の上奏(全軍発動の指令)を行なった。12月中旬海軍国防委員会が発足し第一委員会が積極的に泰仏印を取る政策を押し進めていった。そして昭和16年(1941年)4月17日には対南方施策要項を策定した。しかも精鋭を保ってすればアメリカの7割5分の軍備で対等に戦闘を行なえるとの長年の考えで、鋭意、建造に励み第一航空艦隊と第3艦隊の新設をもって、待望の対米比率7割5分が完成していた(4月10日)。一方で昭和16年4月(1941年)から始まった対米交渉に関しては対米戦争宿命論者の石川信吾大佐らは、アメリカは戦争準備が出来るまでとヨーロッパ戦線の山が見えるまで時間稼ぎをし、交渉を遅らせるだろうと思っていた。その間、日本側も着々と戦争準備を整えていた。

  昭和16年7月28日、陸軍の第一陣が南部仏印のナトランに上陸した。恐れた通り、アメリカは8月1日石油の全面禁輸を通告した。そして1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃まで紆余曲折があったが、石油ショックのためか一時海軍首脳には戦争忌避のムードもあったが、陸軍が対米戦争を強硬に唱え、戦争回避には至らなかった。
 ドイツ軍のモスクワ攻防戦が完全に頓挫したのをアメリカが確認したのが昭和16年11月7日である。
イギリスへの侵攻を諦め、制空権をイギリスに取られたまま、ソ連へと転進し、それもうまくいかずどうやらドイツ軍の旗色の悪さがはっきりと見え始めたのが昭和16年の秋。ヒットラーのバスが勢いを失い、崖に突っ込み始めた。丁度真珠湾攻撃の一ヶ月前のことで、引き返すには少し遅すぎた。

 こうしてみると間の悪い節目に運命を決める出来事を行なっている。ドイツ軍の英国空爆最高潮の情報をもっての3国同盟締結。また破竹の勢いで、今にもソ連が崩壊するとの情報での日米開戦決定。しかしいずれも誤った情報に基づいて判断している。ドイツ軍不利の情報をもう少し早く手に入れていたら状況は変わっていただろうか?
 Battle of Britainでの敗北の後、ヒットラーはダンケルクからドイツ軍を撤退させ、ソ連侵略へ向けたことなどの情報は正しく日本に伝わっていなかったのか?こんな大掛かりな軍の移動などの情報は明らかになっていたと思うが、余りにもヒットラーに心酔していた余り、懸念など入る余地はなかった?ソ連を攻めるやたちまちソ連軍を蹂躙したので安心し切っていたのかもしれない。そのドイツのソ連での情勢が危うくなった時にはすでに時期が遅すぎた。アメリカへ開戦する一ヶ月前のこと。ドイツが負けると分かっていたら参戦しなかったであろう。ドイツの勢いがどうも削がれ始めたと感じた時に、考え直してみたら事態は変わっていたであろうか?
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