スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

神戸 歴史探訪(2)

2008年04月16日 18:30

神戸事件
幕末から明治維新にかけて、大政奉還(1867年11月9日)直後の、明治政府が最初に直面した外交問題。もしこの処理が間違っていたら日本も欧米の植民地になっていたかもしれない。

今を遡ること140年前、神戸元町の大丸横にひっそりと佇む三ノ宮神社前で事件は起こった。
ことの顛末は、大政奉還の翌年、1868年1月10日兵庫県明石に宿泊していた備前(岡山)藩の家老日置氏の軍勢
約450名及び大砲方を率いた一軍が、神戸の三宮神社に差しかかった
とき、仏軍水兵2名が隊列を横切り、また英国水兵が第3砲隊に向けて拳銃をかまえ、威嚇の姿勢を示したことに始まる。そのことに腹をたてた第3砲隊長の滝善三郎正信は部下に命令。一名の隊士が水兵の脇腹を槍でつき軽傷をおわせた。この争いに呼応して諸外国隊は軍艦より陸戦隊を上陸せしめ、居留地附近の市街地を不法占拠した。このような己の傍若無人の振る舞いにも関わらず、逆に日本側の非のみをあげ、謝罪と責任者の死罪を要求した。
無理難題を突きつけられた明治維新政府は困り果てたが結局、責任者一人に罪をかぶせるという形で処理した。隊長の滝善三郎正信は一人責任を取り、兵庫南仲町にある永福寺で潔く切腹して果てた。辞世の句『きのふみし夢は今更
引かへて、神戸がうらに名をやあげなむ』を詠んだ後、恭しく一同に礼をし,静かに口を開き『過ぐる時、発砲號令せる
は、不肖正信である。公法によって御処置となり、此処に罪を謝せんがため切腹する。
宜しく篤と御検証相なりたい。』と荘重に宣言した後、割腹して果てた。享年49歳。明治維新政府は初めての外交問題として、列強とことを構えることなく、処理し、植民地になることもなく現代日本になる。日本外交資料上重要な事件の一つである。
写真は三ノ宮神社の1.事件を記した石碑 2. 備前藩の有していた大砲。
切腹した永福寺(能福寺)に建つ 3. 滝善三郎正信の顕彰碑。

神戸神社1s
神戸神社3s
神戸事件1s
スポンサーサイト


コメント

  1. くりくり | URL | -

    滝もつらかった。伊藤もつらかった。

    確か、新政府代表としてこの事件の交渉に立ち向かったのが、伊藤博文でした。列強は、事件の関係者の処刑を望み、当事者の備前藩は江戸時代以来の国内慣習にしたがったまでと、ゆずらない。列強の要求と、国内の慣習との狭間で、伊藤の葛藤はいかばかりかと思う。ひとつことを誤れば、日本も清国のごとく、欧米列強の植民地と化す状況の中で、はたして自分ならどうするか?
    当時の国際法であった、「万国公法」に活路を見出し、これをもって備前藩を説得し、「天皇の権威を損なわないよう天下の公法に従う。」と、承諾させた交渉力。日本国のある意味存亡をかけた、伊藤のもの凄い気迫もあってのことだろう。結局は、組織を守るため、滝一人に責任を押し付けた格好で幕を引いた形。組織の論理というやつですね。けれど、少なくとも伊藤は平静でそれを行ったのではないと信じたい。滝の切腹を見届けにきていた各国外交官に、滝が潔く割腹して果てたあと、「見届けましたね」と言ったという、、、。
    伊藤のやり場のない怒りと哀しみが、その言葉に集約されているように思う。

    滝の潔い態度もまた、欧米列強をして、この国はただものではないというような印象を植え付けはしなかったか?そう信じたい。

    かくして、この1件で、確か伊藤博文は、兵庫県の初代知事に任命され、神戸の街と港の整備に尽力したとのこと。特に外国人旧居留地あたりには、市街清掃班を編成して街の美化にあたらせたらしい。今の元町大丸から海岸通り一帯、今でもお洒落なその界隈をそぞろ歩きながら、当時の伊藤の思いやいかに、、、、などと思いめぐらしてみたい。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://explore525.blog45.fc2.com/tb.php/27-8052d0b4
この記事へのトラックバック


最近の記事


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。