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秀吉による播磨攻略

2014年03月18日 17:51

上月城、三木城、有岡城の攻防
黒田官兵衛ゆかりの地、播州、播磨を巡って織田と毛利の攻防が今まさにTVで放映されている。TVでの官兵衛の主家にあたる播磨の守護代御着城主小寺政職の煮え切らない態度は当時の播磨における織田と毛利の勢力関係を映し出している。まさに情勢ではどちらに転んでも不思議ではないと思われていた。

 織田信長は1977年毛利輝元を討つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させた。織田、毛利はお互い播州、播磨を治める有力武家の凋略を試みるが、情勢の変化により時には織田、時には毛利へと態度が定まらない。
 官兵衛の主家にあたる小寺政職も一旦は織田方についたが、足利義昭が、諸将に織田軍に叛き毛利氏に加勢するよう働きかけ、更に別所長治を中心に播磨の武将が織田方に反旗を翻すようになると、毛利へと寝返った。
  その背景には、浄土真宗本願寺の顕如が大阪城の所にあった石山本願寺に立てこもり、信長と戦闘態勢をとっていたことがあげられる。地上の戦いだけではなく、海上での戦闘でも織田の水軍と毛利の水軍が衝突。荒木村重は織田方の尼崎衆の軍船を率い戦ったが(第一次木津川口の戦い)、毛利の水軍に大敗北を喫してしまった。そのため毛利の方が優勢ではないかとの読みがあった。

 上月城
 信長から播磨平定を命じられた秀吉はまず上月城を攻める事から始めた。西播磨に位置する上月城は備前、美作、出雲への要衝の地にある城で、赤松政範が城主を務めていた。秀吉は赤松政範に対し、信長への恭順を礼を尽くして勧めたが、結局毛利との同盟関係を優先させるに至り、秀吉の上月城攻めが始まる。 毛利方の赤松氏が籠る上月城は秀吉軍によって落とされ、代わって尼子勝久・山中鹿之助らが羽柴軍の最前線を担い上月城に入った。しかしすぐに毛利軍は1578年山陰山陽の両道より三万の軍勢を以って、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、信長の指示により三木城攻略を優先し、尼子主従は見捨てられた。上月城は孤立し遂に勝久は毛利氏に降伏、開城自刃し尼子氏は滅亡した。ここに出雲尼子氏は完全に滅亡した。

三木城
上月城救援に向おうとした秀吉であったが、播磨の有力守護大名の別所長治を中心に播磨の武将が反旗を翻し、三木城に立てこもったため、その掃討に向った。三木城は神戸の北西20km, 明石の北19kmの地、京都と有馬を結ぶ湯山街道の要所にあり美嚢川の南岸の台地にあった。
1578年から2年弱に渡って、羽柴秀吉と別所長治との間で、激しい攻城戦が繰り広げられた。秀吉は、播磨の武将をまとめる別所氏との直接対決で、兵力が消耗することを避け、三木城を領内の播磨内陸部との連絡を絶ち孤立化させるため、三木城の北側に付城群を築き、別所氏に味方する播磨各地の城攻めを行い、得意の兵糧攻め(三木の干殺し)を行った。
  しかしその間、1578年に上杉謙信が死去、更に顕如率いる大阪にある石山本願寺の攻防戦で毛利水軍、村上水軍が第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に大敗北を喫し、次第に戦況は毛利側に不利となっていった。そんな折、謀将宇喜田直家は今度は毛利と手を切り、信長に臣従するようになり、備前(岡山)まで信長の息がかかるようになった。
 三木城攻めは消耗戦の様子を呈し、城内では食糧が尽きて餓死者が多く出る始末であった。そこで三木城主長治は領民の命を救うため、1580年 1月、一族とともに自刃し開城した。

 有岡城(伊丹城)
 そうこうしているうちに今度は信長にかわいがられていた荒木村重が突然離反し有岡城に立てこもった。信長は明智光秀、松井有閑、万見仙千代らを派遣して説得に当たらせる。秀吉も説得に赴いたが、村重が翻意することはなかった。とうとう秀吉の軍師、黒田官兵衛にまで説得に行かせるが、翻意を得る事かなわず、逆に土蔵に幽閉されてしまう。なかなか帰ってこない官兵衛を疑って、信長は人質にしている息子の松寿丸を殺すように命じる。しかし秀吉は竹中半兵衛と計って、信長に内緒で匿うという、事がばれれば首が飛びかねない策に出た。その後、竹中半兵衛は秀吉が攻めている三木城の陣地へ戻って亡くなった。
 荒木村重は有岡城に籠城し、城はなかなか落ちず、持久戦になるが、食料が乏しくなり、頼みの毛利の援軍もなかなかこない。そこでやむなく村重はこっそり城を抜け出し、従者を連れて尼崎城へと脱出した。城主を失った有岡城にはやがて落城。そして骨と皮に成り果て、足腰立たなくなった黒田官兵衛が土蔵に閉じ込められているのが発見された。
信長は尼崎城や花隈城を明け渡して降伏するなら城内の者は助けようと言ったが、尼崎城にいた村重はこれに応じず、激怒した信長は城内の人々の皆殺しを命じた。

荒木村重と小寺政職の行く末
その後の村重は花隈城が落ちてから毛利側に匿われ、尾道に隠れ住んでいたと言われる。1582年、本能寺に信長が倒れてから、村重は秀吉に招かれ、茶人道薫として仕えることになる。そして利休をはじめ多くの茶人達との交友が復活したが彼は堺で没する。ときに五十二歳。
一方、小寺政職も荒木村重が摂津有岡城で信長に謀反すると、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。しかしこれ又1580年、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて御着城は落城、政職は毛利氏のもとへ落ち延びた。小寺政職は中国地方を流浪しながら、織田信長に謝罪したが、織田信長は裏切り者の小寺政職を許さなかった。

その後、小寺政職は毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)に住み、1582年に亡くなった。
小寺家の滅亡を哀れんだ黒田官兵衛は、羽柴秀吉に「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。息子の小寺氏職を引き取って養育したいので、小寺氏職の罪は恩赦してください」と頼んだ。

黒田官兵衛の希望を聞いた羽柴秀吉は、昔の恩を忘れない志に感心し、黒田官兵衛の願いを聞き入れた。

  こうして交通の要所である摂津の有岡城、播磨の三木城、上月城を手にした秀吉は、姫路城に陣取って毛利攻略の拠点とする。秀吉は次に毛利の最前線、清水宗治が城主の備中高松城を攻める。高松城の周囲は沼地で難攻不落を誇っていた。秀吉はここでは、軍師の黒田孝高の進言を入れ、世に言う「高松城水攻め」を行った。城は水没の危機に陥いり、食糧も尽きてまさに飢餓地獄状態になり、高松城は陥落した。
要所の有岡城、三木城、上月城が落ちて、更には毛利の最前線の最重要拠点の備中高松を落とすにあたり、織田が断然有利な情勢になり、これから本格的に毛利侵攻を始めようとした矢先、信長が本能寺で殺されてしまう。これからが秀吉の本領発揮、中国大返しをおこない、明智光秀を天王山(山崎の合戦)で打ち負かし、全国統一へとひた走る。

 こうしてみるといつの世でも、人の器の大きさが見えてくる。黒田官兵衛は織田につくと決めたら終始一貫、有岡城の土蔵に閉じ込められて後もその心を変える事はなかった。一方、荒木村重は小心者で信長を恐れて、失敗の度にどんなおとがめがあるかとびくびくし、そのストレスに耐えられなくなって謀反に走った。それも途中で自分だけ逃げ出し、一族郎党虐殺されたのに、自分は生延びた。小寺政職は将来展望無く、その時の情勢により立場を変え毛利が優勢だとみると毛利に寝返り、それが裏目に出た。宇喜田直家は分かり易い。常に優勢で勝ち戦をする方につく。秀吉はありのままの素を出し、信長に甘えるすべを持ち、厳しい信長にかわいがられた。これらの人物像は現在でも当てはまる。あなたはどのタイプ?



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