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秀吉と毛利の攻防となった城(続)

2014年03月28日 18:36

NHKの大河ドラマで放映されてしまうと、新鮮さがなくなるのであわてて前のブログの捕捉、第2弾を書いた。
前のブログでは毛利攻略の前哨戦とも言える播州、播磨の城の攻略について書いた。目立ったのは信長の非情さであった。特に、比叡山焼き討ちや石山本願寺の徹底的破壊という宗教への弾圧は多くの庶民に受け入れられるものではなかった。そのため敵にしなくても良い武家、大名を敵に回す事になった。また部下への過酷な要求と失敗した場合の重い処分も多くの謀反者を産む原因ともなった。
播磨の諸大名達はできれば毛利につきたかった。しかし、情勢は信長に有利。迷いに迷った結果でも、毛利につくものが多かった。潮目が変わったのは、毛利との国境の備前を領地とし、大勢力を誇る食わせ者の名高い宇喜田直家が毛利を捨てて、織田に寝返り、秀吉と一緒に備中高松城を攻めた頃からである。

 上月城
 まず秀吉が攻めたのが上月城である。西播磨に位置する上月城は備前、美作、出雲への要衝の地(兵庫県佐用町)にある城で、赤松政範が城主を務めていた。前哨戦として秀吉は毛利方の最前線にある播州方面の軍事拠点、上月城を攻め落とし、毛利と長年死闘を繰り返した尼子勝久、山中鹿之介に守らせた。しかし直ぐに3万の毛利軍によって奪い返され、尼子一族はここに滅亡した。秀吉は救援に向かい高倉山に兵を進めたが、信長が三木城攻めを優先するよう命令を下したため、みすみす尼子一族を見捨てる事となった。
尼子一族は山陰地方の名門大名で、元は近江の京極氏の一族で、出雲守護代に任じられ、現在の安来市にある月山富田城に入った。経久の代になると山陽、山陰の11州を治め、勢力を拡大したが、毛利との抗争で消耗し、次第に力をうしない、滅亡する。上月城は尼子にとって最後の砦であったが、信長に見放され勝久自刃。山中鹿之介は捉えられて、護送中に暗殺される。享年34歳。信長の一存で見放され、滅亡した。

  山中鹿之介は少年の頃から並外れた武将としての才能を持ち、戦いに負けても何度も再起し尼子再興を目指し、毛利を苦しめた。「願わくば我に7難8苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと言われ、悲運の武将として人気が高い。後に勝海舟は「本当の逆境にあって慌てず落ち着いて事を処理したものはほとんど皆無だ。もしいるとすれば山中鹿之介と大石良雄くらいであろう」と言っている。
その後、上月城は廃城。現在は、土塁・石垣・空堀などの遺構が残る他、本丸に赤松氏の供養塔、麓には尼子氏の供養塔が残されている(写真)。全く人も訪れない荒れ果てた山となっている。
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三木城
播磨の国美嚢群三木にあった城。明石の北19Km,姫路の東31Kmの地にある。美嚢川の南岸の台地にあり、台地に立つと川と鉄道が見える(写真)。台地は小さな公園になっており、別所長治の辞世の句碑がある。秀吉は1978年から2年に渡り、別所長治立てこもる三木城を攻め、最後には兵糧攻めで落城させた。木津川河口での毛利に大敗、石山寺本願寺攻略の失敗などで過酷な処分を恐れた荒木村重が信長を寝返り、有岡城に立て篭ったため、開戦から3ヶ月後、黒田官兵衛は説得しに伊丹に赴くが、反対に捉えられて土蔵に1年間幽閉され、織田軍が有岡城を落とした後やっと解放された。
 信長は官兵衛が有岡城から帰ってこない事から、裏切ったと思い込み、秀吉に人質として預けてあった官兵衛の一人息子の松寿(後の黒田長政)を殺すように命じたが、官兵衛が裏切る事なんてあり得ないと確信していた竹中半兵衛は独断で菩提山城に隠す。無事官兵衛が救われた後、信長も人質を殺した事を後悔するが、竹中半兵衛が隠して生かしていた事を知ると、さすがの信長も半兵衛に感謝した。その竹中半兵衛は官兵衛救出の半年前に三木城を包囲する陣中で病死した。結核だったと言われる。墓は三木にある(写真)。半兵衛の温情と信念の深さにひかえ、信長の短気さ、非情さ、人への信頼感のなさばかりが目立つ。
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備中高松城
秀吉は播磨攻略ではまず小寺氏、赤松氏を調略した。しかし石山寺本願寺、毛利との戦いで状況が不利になると、荒木村重が反乱を起こしと困難がたえなかった。三木合戦においても別所氏を滅ぼしたものの、竹中半兵衛が病没し、上月城の戦いでは尼子勝久や山中鹿之介を失ってしまった。
 播磨を平定した後は、備中へと兵を進めた。備前にいる宇喜田直家は当初は毛利方として行動していたが、秀吉、信長勢の方が優勢であると見るや、毛利を身限り、秀吉の山門に下った。その子の宇喜田秀家が後を次ぎ、いよいよ備中に攻め入る用意ができた。宇喜田秀家が治める備前岡山より先は毛利の勢力範囲であったため、備前、備中の国境での攻防となった。秀吉は1582年3月に宇喜田勢1万を加えた総勢3万の軍勢で備中の中核となる備中高松城を攻めた。備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かった。城を守るのは清水長左衛門尉宗治で、3,000~5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではなかった。
そこで有名な水攻めの作がとられ、長い堤防が作られた。時は丁度梅雨時、降り続いた雨が足守川を増水させみるみる水かさが増して行き、高松城は水の中に孤立した。そこに明智光秀の謀反により、信長が打たれたとの報を持つ明智の毛利への使者を捉えた。毛利にその情報が漏れないようにしつつ、慌ただしく和議を結び、城主の清水宗治の切腹を見届けると大急ぎで兵を引きあげた(中国大返し)。官兵衛がそそのかしたとの噂があるが、これで秀吉は一気に天下取に向って動き出す。

高松城は元々湿地帯に立てられ,それが騎馬や大軍に攻められにくい、城としての特徴であった。水攻めはそれを逆手に取っての作であり、まさにうってつけの作戦であった。という訳で、城跡は睡蓮の咲く、池となっている。中央に宗治の辞世の句碑があり、堤跡も残っている。(写真)。
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