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乱世を生き残った大名:黒田藩と脇阪藩

2014年07月03日 17:47

 
 対照的な生き方

 戦国時代の大名は熾烈な生き残りをかけて、策を巡らせ、将来を見透し、リスクと安全を測りにかけ、命をかけて行動したと考えられる。
  当然勝者につく事が生き残りの大きな要素になるが、豊臣秀吉の子飼の大名(大大名として残った加賀の前田家は元は信長の弟子)の中で明治の世までお家を存続させたのはごくわずか。黒田家と脇坂家くらいか?

 放映中の「軍師黒田官兵衛」にでて来る長政はまだ血気にはやる若殿という感じであるが、将来はかなりの策略家となる。黒田長政は秀吉が亡くなると政略的に徳川家に近づき、結婚していた蜂須賀正勝の娘、糸姫と離縁し家康の養女、栄姫を正室に迎えた。関ヶ原の戦いでは西軍の小早川秀秋や吉川広家を調略して寝返りをさせ、東軍の武将として家康に従って出陣し、大活躍をした。その功績で福岡藩52万石の大大名となる。官兵衛、長政親子とも策略に長けた軍師という事か。

 一方、黒田家のような華々しい活躍、貢献はしなかったものの、乱世を生き残り、明治の世まで家を存続させた大名もいる。それが脇坂家(龍野の殿様)である。脇坂家の領地は現在龍野市となっており、神戸から西に50km、姫路に隣接する。醤油やソーメン製造の盛んな城下町である。龍野城は、鶏籠山の山城と後年、山麓につくられた平山城とがあり、山城は約500年前赤松村秀によって築かれた。その息子の赤松政秀は官兵衛の姫路城を攻撃しようとするが、10倍の兵を擁しながら、黒田官兵衛の巧みな戦略で、青山の合戦,土器山の戦いで大敗北をきたしてしまう。その後、城は播磨、丹波攻略を目指した秀吉により開城され、蜂須賀正勝が城主になった。

  その後廃城になっていたが江戸時代に信州飯田から脇坂安政(3代)が移ったときに山麓に築城された。
  初代、脇坂甚内(安治)はもともとは300石取の秀吉の家来であった。信長が暗殺されると、次の天下人を目指して秀吉と柴田勝家の間で覇権争奪の戦い「賤ヶ岳の戦い」が北近江の山中で起こった。秀吉はここが潮時だとみると親衛隊たる小姓の取り巻きにも総突入を指令した。小姓達は我先に一番槍を目指して敵陣に攻め入った。その時、福島正則、加藤清正が一番首、一番やり、の大活躍をして功名をあげた。その際、秀吉は天下を取ろうとする自分の家来に武勇に優れた著名な人物がいないというのは、秀吉の名を挙げる妨げになっていると考え、その時活躍した福島、加藤などの他に、数合わせに、脇坂甚内らを加え7人とし「賤ヶ岳の7本槍」と称した。そして福島正則に5000石、他の6人に3000石を与えた。甚内は棚からぼたもちの幸運に恵まれた。

 秀吉は信長後の実質の支配者になったものの表面上は信長の次男,信雄や信長の嫡孫の三法師をたてることにより、政権の簒奪者ではない姿勢を取って来た。そんな折、信雄が家康と連盟して反旗を翻したが、秀吉はその戦いを制し関白に上り詰めた。それと同時に秀吉手飼いの郎党も大名に取り立てられ、甚内も摂津能勢郡において1万石の大名になった。その後、秀吉の権勢拡大に伴い、一年の間にトントン拍子に出世して洲本城主となり、3万石を領した。
脇坂家の特徴は雌雄の𧲸(てん)の革を2本の槍の鞘にして、その2本を行列の先頭にたてて京や大阪の街をうねり歩いた。これが有名になって真黄色の貂が町中を行くと町人は皆飛び出して来てあれが脇坂様よと珍獣の毛皮を見上げたという。

 脇坂甚内は関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成方につく、しかし西軍が勝つとの確信が持てなかったため、戦闘がはじまっても動かずに松尾山の麓の小さな丘で小川祐忠、赤座吉家、朽木元綱などの小さな大名達と肩を寄せ合うようにじっとしていた。午前中いっぱいは西軍が有利に戦闘を進めていたが、午後になって逆転した。そのきっかけは寝返りを密約していた松尾山の頂上に布陣していた西軍の小早川秀秋が、突入を躊躇していたのを、黒田長政の喝で全軍山を降り西軍を攻撃することで起った。それに呼応するこのように松尾山の麓に布陣していた脇坂甚内は真っ先に寝返り西軍に突入した。その裏切りによって甚内は家康から褒められ2万石加増された。同じこの仲間でも小川祐忠や赤座吉家は戦後、家康により領地を没収され、放逐された。戦前に甚内だけは密使を立てて関東へ送り、もし両軍が激突する事があればかならず徳川方に内応致しますと申し入れてあった。この周到さが小川や赤座にはなかった。

更に江戸の初期、豊臣系の大名の取り潰しがあり、福島正則や加藤清正家も取り潰しにあった。結局7本槍の仲間の大名では脇坂家だけが生き残った。脇坂藩は何度かの所領変えがあったものの、3代安政は5万3000石の龍野藩藩主となり、それ以後は徳川の世でも生き残り、江戸末期まで龍野藩の大名であった。

 なぜ生き残れたのか? 庶民は運がいいのは貂の革のおかげだと噂したというが。関ヶ原での裏切りの内通に加え、 2代安元が幕府の中枢にいた老中「堀田正盛」から養嗣子として安政を迎え、譜代としての待遇を受けるようになったことが大きいと考えられる。あまり目立たず、活躍もしない代わりに、肝心な時に手だけはうっていた。黒田家と同様に徳川に血縁という一番深い絆ですり寄った。
  福島や加藤のような武断派は後々騒ぎを起こすかもしれないと皆粛正された。武辺者とか切れ者とか言う噂ではなく、貂の革を槍の先につけて歩くお気楽振りだが、大切なポイントだけは押さえていた。これが戦略だとしたらたいした役者である。
  やり方は違うが黒田家も脇坂家も秀吉子飼の大名であったにもかかわらず、徳川時代を生き残った稀な例である。この生き残り術、処世術は現在にも通用するかも知れない。とことん目立つ大活躍し会社や大学の発展に貢献するか、目立った働きはしないが、敵を作らず、上司からかわいがられ、しかも自分の立場をはっきりさせておく。これが会社や学校でうまくやって行く処世術だとすれば昔も今もヒトの心は変わらないと言う事か。
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