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敗軍の将、石田三成の末裔

2015年09月11日 14:31

石田三成の子供達の運命

  関ヶ原の戦いで家康に敗れた石田三成が京六条河原で処刑されたことは誰もが知っていることだが、では三成の子供や子孫がどのような処置を受けたかはあまり知られていない。三成は正室の皎月院の間に三男三女をもうけている。てっきり一族郎等みんな処刑されたのかと思ったら、意外にも家康は温情的で死を免れていた。

 秀吉の死後石田三成は豊臣家の大番頭として、徳川家康と天下を争い、9月15日に始まった関ヶ原の戦いで敗れ、伊吹山に逃れたが、捕縛され、9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日に京都に護送され、奥平信昌(京都所司代)の監視下に置かれた。10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41 (Wikipedia)。

三成の子供達

長男の重家:
石田重家 (1583-1686)は、石田三成の嫡男として生まれた。
慶長5年(1600年)、大谷吉継から上杉討伐に出陣する徳川家康の下へ参陣するように勧められるが、関ヶ原の戦いが勃発したため、豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれた。
しかし、関ヶ原における西軍大敗の知らせが届くと、9月19日夜、重臣の津山甚内や乳母らによって密かに脱出を促され、京都妙心寺の塔頭寿聖院に入って、住職の伯蒲慧稜によって剃髪して仏門に入れられた。伯蒲は法号として宗享の名を彼に与える。
伯蒲は、京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願し、家康は本多正信と協議して、重家がまだ十代前半と若かったことからこれを許した。しかし妻帯することはなく重家一代にてこの系は絶える。
次男家成:
次男石田家成は助命され、津軽に逃れて家系を保つ。この家系が遺伝子をつなぐことになる。
三男佐吉:
三男の石田佐吉も父三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、法名を清幽と名乗った。よって子はない。
長女:は石田家臣の山田隼人正に嫁ぐ。子孫は津軽藩士となり、側用人などを務めた。
次女:は蒲生家臣の岡重政(岡半兵衛)に嫁ぎ、のち若狭に住み、若狭小浜で没したと伝わる。
三女辰姫: 高台院の養女となり弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室となる。

かくして三成の子供はことごとく助命され命を長らえた。戦国の世には稀なことであろう。

  結局次男の重成が石田家を継いだ。石田重成は豊臣秀頼に小姓として仕えていたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで父をはじめとする西軍が東軍に大敗し居城佐和山城も落城したことを知ると、津軽信建の助けで乳母の父・津山甚内らとともに陸奥国津軽に逃れた。
その後は杉山源吾を名乗り、津軽氏の保護のもと深味村に隠棲する。
重成の長男の吉成は弘前藩主津軽信枚の娘を妻として家老職につき、子孫の杉山家は弘前藩重臣として代々存続した。シャクシャインの乱(北海道で起こった和人とアイヌ人の抗争)のときには、津軽の総大将として鎮圧に向かったが、結局戦火を交える前に乱は収束したという。その厚労で徳川幕府から労をねぎらわれたという。吉成の子孫は津軽の重臣として幕末まで続いた。

  幕末時の当主は成知(なりとも)。天保12年、弘前藩の重臣杉山成範の嫡男として生まれる。津軽藩は当初、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と敵対していた。元治元年、江戸詰めの用人であったとき、禁門の変が発生し、家老代理として上京した。慶応4年4月には家老となる。声高に佐幕を主張し、碇ヶ関を丸太で閉鎖し官軍の入国を拒むなどし、解任された。のち再び家老として箱館戦争の軍事総監となり、食禄150俵と刀料金200両を賜っている。明治2年に権大参事に任命された。明治10年、西南戦争では旧藩士召募を行い、東京で隊長となった。しかし実戦に参加することなく、後年は中津軽郡長や北津軽郡長を務めた。明治28年、死去した。

 というわけで石田三成の家系は江戸時代を生き抜き現在にまで続いている。意外と家康は温情的であったのか、それとも完全に全国を掌握できているという自信なのかはわからないが簡単に助命を認めている。これが信長だったら男の子だけでなく一族郎等皆殺しにあっていたであろう。
今まで家康といえば腹黒い謀略の将みたいに思っていたが、人情を持ち合わせていることを知って少し親しみが持てた。
なにごとにも先入観を持って接してはだめだということの典型。
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