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和歌に詠まれた逢坂の関

2015年10月23日 12:31

逢坂の関

 逢坂山とは京から大津(滋賀)に向かう途中にある標高325mの小高い峠である。山の高さはそれほどではないが、勾配がきついため昔から難所として有名で、さらに都と東国、北国を結ぶ北陸道、東海道、東山道(後に中山道などに再編)が交わる交通の要所でもあり、京都防衛のため逢坂の関がおかれていた。不破関や鈴鹿の関とともに天下の3関と称されている。
 この逢坂山は名前からして大阪の近くにあると勘違いされやすい。しかし平安時代から度々「人に逢うと人通さぬ峻険なる山の二面性」から和歌にもよく読まれている。

 百人一首に記載されている蝉丸の「これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関」とか清少納言の「夜を込めて 鶏のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」や、紀貫之は「逢坂の 関の清水に かげ見えて 今やひくらん 望月の駒」などと名だたる歌人が逢坂山を読んでいる。

 清少納言は「枕草子」の作者としてあまりにも有名だが、一条天皇の時代、正暦4年(993年)に私的な女房として中宮定子に仕えた。博学で才気煥発な彼女は、主君定子の恩寵を被ったばかりでなく、殿上人と才気ある受け答えをして宮廷社会に溶け込んでいた。そんな折に関係があった男性の一人が藤原行成で、彼は一条天皇の蔵人頭として抜擢され、天皇と執政の藤原道長の両方から信任され、書がうまく三蹟の一人して数えられている。

 清少納言の百人一首の歌は彼への歌で中国の孟嘗君の故事に基づいている。秦の昭王に命を狙われた孟嘗君は、秦国から脱すべく、夜間に函谷関に至った。しかし関は、鶏の声が朝を告げるまで開かない取り決めになっていた。そこで孟嘗君は、食客の一人に鶏の鳴き真似をさせ、函谷関を突破したという。「史記」に載っている話。

「夜をこめて鶏のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」

 「嘘の鶏の鳴き声などでは、私の恋の関は開きませんよ。しっかりした関守がいますからね」と、強く突っぱねた歌。

 それに対して行成の返歌は
「逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」

 「逢坂の関は誰でも越えやすい関で、いつも開け放って待っているのだと聞きますが」とひどい返歌に清少納言は怒ったとか。

 一方、蝉丸は醍醐天皇の第4皇子との説があるが定かではない。蝉丸は生まれつき盲目で琵琶の名手として有名で琵琶の名器、無名を愛用し、逢坂の関に庵を結んだ。彼にいつわる話は色々と取り上げられている。

 平家物語の「海道下」には一の谷の戦いに敗れ生捕りになった平重衡(たいらの しげひら)が、京都から鎌倉へ護送される場面が描かれている。
「四宮河原になりぬれば、ここは延喜第4皇子蝉丸の関の嵐に心をすます、琵琶を弾き給いしに、博雅の三位と言いし人、風の吹く日も吹かぬ日も、雨のふる夜も降らぬ夜も、三年があいだ、歩みを運び、たち聞きて、彼の三曲をつたえけん わら屋のとこのいにしえも、おもいやられてあわれ也。逢坂山踏み越えて、瀬田の唐橋駒もとどろにふみならし、——」。と書いてある。管弦の名人であった源博雅が、逢坂の蝉丸のもとに三年間通いつづけて遂に琵琶の秘曲「流泉」「啄木」を伝授されたという伝説が重衡の鎌倉への護送という悲運の場面をもり立てる様に引用され、益々哀れさを掻き立てられる。

今や、逢坂山は京都と大津を結ぶ国道1号線として昔の面影はありませんが、それでも狭い谷間の道を京阪電車が車がひしめき並行して走っています。その京阪電車の小さな無人駅「大谷駅」のすぐそばに蝉丸神社や逢坂の関跡がある。

蝉丸神社の写真

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