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兵庫散策(高砂神社、御着城址、加古川城址)

2016年04月12日 10:50

高砂って?

1.高砂神社
結婚式で歌われる「高砂」は誰でも一度は聞いたことがあるめでたい歌だとは知っているが、どのような背景があって歌われるのかあまり知られていない。
神戸から30−40分くらい西に車で行くと姫路の手前に高砂市がある。そこの高砂神社を訪ねた。
能「高砂」発祥の地で、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐめでたい能である。古くは『相生』『相生松』と呼ばれた。
 「高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり」と歌われる。

 能によれば九州阿蘇宮の神官が播磨の国、高砂の浦にやってきた。春爛漫の春風に浜辺の松が美しい。遠く鐘の音も聞こえる。そこに老夫婦が来て、木陰を掃き清める。老人は古今和歌集を引用して、高砂の松と住吉の松とは相生の松、離れていても夫婦であるとの伝説を説き、松の永遠、夫婦相老(相生にかけている)の仲睦まじさを述べる。そして老夫婦は自分達は高砂・住吉の松の精である事を打ち明け、小舟に乗り追風をはらんで消えて行く。
神官もまた満潮に乗って舟を出し(ここで『高砂や…』となる)、松の精を追って住吉に辿り着く。
 高砂神社このは相生の松がある。1つの根から雌雄2本の幹をもつ松が境内に生えた。この松は、尉と姥の2神が宿る霊松とされ、相生の松と称された。
初代相生の松は天禄年間に、2代目は兵火によって天正年間に枯死したと伝えられている。現在は5代目の松が枝を張る。
 その長寿の松は多くの和歌に詠まれ、百人一首にも「誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに」高砂は松や尾上にかかる枕詞。とか
「高砂の 尾の上〔え〕の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ」
などがある。

2. 黒田官兵衛
 高砂神社の近くの姫路に黒田官兵衛ゆかりの御着城跡がある。赤松氏の一族で西播磨最大の領主だった小寺政隆が築き、本城とした。
官兵衛は、小寺政職にその才能を認められ、家督を継ぐまで御着城で政職の近習として仕えた。あれほどブームだった官兵衛も今やすっかり真田人気にとって変わっている。城跡と言っても何も残ってなく、今や公民館に使われている。
黒田家の墓所は福岡に存在し、兵庫には残ってなく、御着城跡公園内には、黒田官兵衛の顕彰碑が建立されている。
 加古川城は今は跡形もなく、称名寺というお寺が立っている。しかも工事中であった。信長の命を受け毛利征伐のため秀吉は播磨に入り、加古川城で播磨国内の城主を集め毛利征伐の軍議(加古川評定、1577年)を開いた。しかし三木城主別所長治の代理で出席した叔父の吉親は名門意識が強く、百姓から這い上がってきた秀吉を見下すところがあり、秀吉の不興をかい、その腹いせに別所長治を信長より離反させ、三木城の干ぼし作戦(食料を断つ)が始まる。12代加古川城主の糟谷(内善正)武則は、黒田官兵衛の推挙により豊臣秀吉に仕え三木合戦二参加した。加古川城には、織田信雄、信孝兄弟に、信長の弟の織田信包、それから細川藤孝、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀、佐久間信盛といった信長の重臣たちが一堂に会し戦略を練ったとされる。

写真 高砂神社 1−4、相生の松 5−6、御着城跡 7-10、加古川城跡 11-12
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