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西郷隆盛に踊らされた赤報隊

2016年06月17日 16:26

長州、薩摩の尖兵として使い捨てにされた赤報隊

湖東三山とは西明寺、百済寺と金剛輪寺を指し、琵琶湖の東の鈴鹿山脈の麓にひっそりと佇んでいる。金剛輪寺は奈良時代の中頃聖武天皇の勅願で行基によって開山された天台宗のお寺。平安時代には比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場として栄えた。しかし信長の比叡山焼き討ちに際し、被害を受けるが、本堂と3重の塔は消失を免れた。近世に入ってお寺は荒廃したが、今は紅葉の寺として秋の紅葉シーズンには大勢の観光客で賑わっている。

  この金剛輪寺が幕末の歴史上の一瞬に現れ、消えていった。
 そのことが原田伊織著「明治維新という過ちー日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」に載っている。この本は明治維新を全否定した本で、長州や薩摩はテロ集団と変わらないという論調で、今まで長州や薩摩が幕府を倒して新しい近代日本を作ったという明治維新史観とは全く異なる。長州や薩摩に徹底的に痛めつけられた会津地方でこの本はバカ売れ、大ベストセラーになっているのだそうだ。この本に関しては別の機会に紹介したい。

 赤報隊は幕末に王政復古を得て長州藩、薩摩藩によって結成された東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。島津藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視が中心になって金剛輪寺で結成された。隊長は相楽総三で公家の綾小俊実、滋野井公寿らを盟主とし擁立し、近在の勤王の志士を募り、旗揚げした。赤報隊には別働隊(第2隊、第3隊)も存在した。相楽総三は薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、西郷隆盛や大久保利通と連絡を取りつつ、下野、相模、江戸市内にて押し込み強盗などをし、旧幕府軍を挑発し江戸薩摩藩焼き討ち事件を起こさせて、上方に先立って江戸で戦闘を起こした。これが鳥羽伏見の戦いのきっかけにもなったと言われる。
 実際、相楽は旧幕府が新政府に反乱を起こすよう仕向ける挑発的行動を西郷隆盛より任され、関東、江戸で撹乱作戦を行った。強盗や傷害事件を関東、江戸で起こさせ、江戸を騒擾させ、まんまと西郷の策にのり、怒った幕府側は鳥羽伏見の戦いを起こして、歴史が大きく薩摩、長州の方に傾くきっかけとなった。
戊辰戦争で江戸へ攻め上っていく、東進に際し相楽は先鋒となって攻めた。この時、相模は旧幕府の所領は天皇の領地になるので年貢は半額になると先々で布告し、民衆の支持を集めたが、赤報隊の他の隊が規律を守らず押し込み強盗を行ったため、評判が悪く、京に呼び戻された。しかし他の隊は帰ったが、相楽は帰らず独断で、軍令に背いて進軍した。
相楽隊の軍令違反を新政府は苦々しく思っていたがが、新政府が最も恐れていたのは年貢を半減するという布告であった。新政府は年貢を半減するという布告を初期に出したが、情勢が官軍に圧倒的に有利とわかると、庶民の人気を集める必要もないということで、さっさと引っ込めてしまった。本当に信じられると厄介なことになる。最初は良かれと扇動してやっていたことが、逆に新政府の汚点になりつつあった。
そこで新政府は偽官軍の汚名を着せ、赤報隊を徹底的に取り締まることとした。
その結果、相楽は同志とともに天朝に背く逆賊として囚われ、なんの取り調べもなしに処刑され、首を街道にさらされた。罪状は官軍を装って強盗無頼を働いたというものであった。
  こうして赤報隊は都合のいいように使われ、用なしになると抹殺されてしまった。赤報隊は結成からわずか2ヶ月という短い歴史で幕を閉じた。
しかし太政官から官軍先鋒のお墨付きをもらっていたこともあり、昭和に入って赤報隊の名誉が回復された。
  組織の下っ端はいつも都合のいいように煽てられて、使われ、都合が悪くなると失敗の責任を押し付けられ断罪される。いつの世もこの法則は変わらない。赤報隊もその典型的な例であった。

そんな歴史のドラマの一コマとなった金剛輪寺の写真。
写真1:本堂;2:金剛輪寺由緒;五重の塔1;新緑に埋もれる5重の塔
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