スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

家康と三成の関ヶ原前哨戦

2016年09月02日 15:59

関ヶ原の戦いに至る攻防

 NHKの真田丸では秀吉が老醜を曝し、「秀頼を秀頼を宜しく」と、なりふり構わず頼み込み、亡くなると、満を持して家康が動き始めた。
真田一家は石田方につくか徳川方につくかの大きな選択に迫られ、父昌幸の命により、真田一族全てが徳川につくことを一旦決めた(ここまでが先週の真田丸での放映)が、関ヶ原直前に考えを変えた。真田一族の関ヶ原及びその後の展開はまたにして、今回は関ヶ原の戦いに至る石田三成と徳川家康の間に戦わせられた前哨戦に絞った。

1 家康の陽動作戦
  秀吉の死後は有力な大名により構成された5大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家と上杉景勝)と実際に政務を取り仕切る5奉行(石田三成、増田長盛、浅野長政、前田玄以と長束正家)で合議を行い事を決めるという約束がなされていたが、秀吉の死後早速家康が約束を破り手前勝手な行動を取り始めた。三成は家康の行動を非難し、豊臣家の内部では三成を中心とする官僚派とそれに反対する武断派とに対立した。しかし大きな問題に発展しなかったのは大老の前田利家が仲裁役として振舞っていたからと言われる。
 しかし1959年3月に前田利家が死んでしまうと、それまで積もった両陣営の不満が一挙に吹き出してしまう。武闘派による三成暗殺事件が起こり、三成が失脚して、家康が大阪城に入り政務を行うようになると、5奉行の反発はさらに加速する。
 家康はさらに家康の暗殺を仕組んだとして前田利長と5奉行の一人浅田長政を弾劾し、前田家を軍事力をチラつかせて屈服させ、浅田長政を失脚させ、目の上のこぶを一つずつ取り去っていく。家康は決して事を急がず、三成派の主要な人物を一人一人潰していって、自分に有意な状況になるよう持っていくというしたたかさを見せる。
 
2 関東の上杉を攻め、三成を誘い出す。
 1600年にはいると、家康は各大名に年賀の挨拶に大阪に来るようにと命じるが、上杉景勝だけがこれを拒否しする。すると上杉家が無断で軍備を増強しているとの噂を流がし、家康はこれに対して、釈明を求めるが、上杉の重臣、直江兼続からは反対に家康の横暴なる振る舞いを咎めた弾劾状が送られてくる(いわゆる直江状)。家康はそれに乗じて謀反の疑い明白であるとして上杉征伐のための軍を編成、大阪を離れる(1600年6月)。家康の戦略のうまいとこはこの戦いはあくまで上杉が豊臣家に対して反逆したための成敗だとし、秀頼より金20000両と兵糧20000石を下賜してもらい、秀頼の名で討伐に向かうように見せかけたことである。

3 三成は徳川の隙間をついたとぬか喜び
 一方、三成は7月12日に佐和山城で大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊らを集め秘密会議を行い、毛利輝元を西軍総大将として家康を打倒する計画を立てる。同日、愛知川に関所を儲け、諸大名の東軍への参加を食い止め、さらに 大阪城 にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えた。そのため長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝らは足止めをくらい、西軍への参加を余儀なくされた。その動きは増田長盛・長束正家・前田玄以よりなる三奉行には知らされてなく、三奉行は徳川家康と毛利輝元に急使を送り、至急大坂に戻り石田・大谷の動きを鎮定するよう要請している。挙兵を企てた一味の増田長盛までがこの要請人に入っていることはどちらにも良い顔をしたがる人間が三成側に多かったことも大問題。
 7月17日に安国寺の建議を採用した毛利輝元は大坂城に入城して、家康が割拠していた西の丸を、家康妻妾を落ち延びさせることと引き換えに留守居役佐野綱正から無血接収し、西軍の総大将に就任した。
ここに至って三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発した。主に中国・四国・九州の諸大名が追従しおよそ10万の兵力を集めた。
 会津征伐のため江戸城にいた家康は、増田長盛より家康打倒の謀議が行われているとの書状を受け取った。この当時、増田長盛は三成の挙兵宣言に名を連ねているにもかかわらず、家康に通報しその態度をはっきりさせてなかった。予定通り、7月21日下野小山へ到着。 そこで三成が伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者により知らされた。家康は自分が大阪を離れればその隙に三成が挙兵するであろうことは予想していた。まさに家康の思う壺。

4 家康はお調子、武編者福島正則をおだて上げ利用
 7月25日に家康は会津征伐へ参加した大名を招集し、軍議を開いた。いわゆる「小山評定」である。家康にとっての最大の問題は豊臣恩顧の大名達がどのような態度を取るかであった。家康は黒田長政を介して福島正則に秀頼には害が及ばないことや、三成は秀頼のためにならないことを説明し、東軍へつく態度を鮮明にするように説得した。ここでもまず多くの大名を説得するにあたり、一番の豊臣恩顧の大名の福島正則に的を絞り、正則を介して諸大名を説得させるという戦略をとった。
 この時点では3奉行による「内府ちがひの条々」の挙兵宣言はまだ小山に届いておらず、毛利輝元が大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかった。さきに届いた淀殿や3奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていた。問題は当初3奉行や淀殿は三成挙兵を家康に取り締まってくれと頼んでいることである。家康はこれで三成を打つ大義名分を得たことになる。

 家康は人質に妻子が取られていることから、進退は各自の自由であると伝えさせたが、軍議の冒頭、福島正則が妻子が人質に取られていようが、断固家康に味方することを表明、黒田、徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全員が家康に与するとの証文を得た。まさに家康の作戦勝ち。

5 真田昌幸はそれでも西軍に与する
 ただ真田昌幸と美濃岩村城主の田丸直昌の2名はそれを良しとせず小山を去り西軍に味方した。真田一族も家康の上杉征伐に従っていたが、三成からの密書が来ると、父昌幸と信繁は軍を離れ上田城へと戻った。

6 関東や東北での後顧の憂なくして出陣
 大切なことは、戦場となる関ヶ原へのルートである東海道筋の諸大名をことごとく味方に引き入れ、諸城と兵糧を確保し、東軍の展開が容易になったことである。
家康は先陣として秀忠に3万7000という徳川家の主力部隊を授け、宇都宮城から中山道を通り、美濃方向へ出陣させた。しかしたった2000人の兵が守る真田昌幸指揮する上田城をいつまでたっても落とすことができない。上田城攻略に手間取っている間に、関ヶ原の戦いが始まり、結局家康は主力軍無くして戦いを進めることになったという話は有名である。これについては真田丸の項で別に記す。
その頃関東・東北地方で 西軍(石田三成側)と言えたのは、上杉家 と佐竹家 という大名であった。一方、東軍(徳川家康側)に協力した大名は、 最上家 と 伊達家 だった。上杉家 は 進軍してくるはずだった 徳川軍 を待ち構えていたが、徳川軍は 「小山評定」 の後に引き返してしてしまい、徳川よりの伊達家 が 上杉家 への攻撃を開始したので、上杉景勝は、徳川軍を攻撃せずに伊達に対抗するため、軍勢を最上領へと向けた。もう一方の三成側の佐竹家は、当主である佐竹義宣が主張した西軍への参加に、父・佐竹義重や弟、重臣一同らが猛反対し、義宣は意見を押し切ることができず、ついに少数の兵を徳川秀忠軍に派遣するなどの曖昧な態度に終わり、がら空きの関東の家康領に上杉も佐竹も攻め込むことはなかった。結局、佐竹義宣、上杉景勝という関東、東北の2大大名が大坂へ向かう徳川軍を攻撃しなかったことも、三成にとって大誤算だった。

7 家康による毛利家の切りくずしと西軍の切り崩し
 小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後も、家康は動向が不明な背後の佐竹義宣に対する危険から江戸に留まり、藤堂高虎や黒田長政らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍の調略による切り崩しを図った。黒田は吉川広家に毛利家所領の安堵を、小早川秀秋に、高台院への忠節を説いて内応を約束させた。西軍総大将を務める毛利輝元のお膝元の吉川広家や小早川秀秋が裏切るなど、毛利家の内部対立が結局関ヶ原の戦いでも決定的になる。また家康は書状200通あまりを東西の諸大名に送ったのに対し、三成ははるかにそれに及ばず、情報戦でも家康圧勝の感がある。
9月1日に岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉や浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと出立した。

8 三成、秀頼及び毛利輝元から出陣を断られる
  三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していたが、いずれも淀殿に拒否され果たせなかった。輝元には出馬の意思があったといわれるが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされている。
だいたい総大将になっている輝元が出陣しないお飾りでは意味がない。

9 いよいよ関ヶ原
 家康は秀忠の到着をぎりぎりまで待ったが、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入る。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれを散々に打ち破った。
 14日夜、家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せた。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進する。西軍の転進を知った家康も、即座に関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かった。この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えた。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していた。このため三成ら西軍首脳は不信の念を抱いていた。秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった経緯があり、家康には恩義を感じていたが、三成には嫌悪していた。
小早川秀秋は豊臣の血を引く豊臣方の中枢にいた人物である。その彼までが三成を嫌って家康についたことはいかに三成が人気なかったかがわかる。
9月15日早朝に関ヶ原の戦いの火蓋が東軍の福島正則と西軍の5大老宇喜多秀家の間で切って落とされる。最初は激戦であったが、毛利家の吉川広家の寝返りで毛利軍はまったく戦う意欲なし。結局、毛利家 は 西軍・総大将 という事になっていたが、実際には総大将らしいことは何もやってない。四国の雄、長宗我部家も動かない始末。さらに決定的なのは石田三成の側面の松尾山に布陣した小早川秀秋の寝返りを機に一気に東軍に有利な展開になった。結局終ってみれば、たった6時間の戦闘。大がかりな戦の割に短時間で決着がついた。真田昌幸は決着はそう短期間ではつかないだろうと予測し、自分もその戦闘に参加できるであろうと思っていた目論見もあっさりと消えてしまった。

10 家康の戦略に若輩三成完敗
 表面的な戦力は5分5分にように見えるが、裏を返せば関ヶ原の戦い前に家康が三成を圧倒していたことがわかる。三成敗因の大きな原因はなんといっても人情味のない、人を見下すような三成の態度の不人気さと、豊臣恩顧の大名、中でも福島正則や小早川秀秋までが、家康が秀頼を裏切ることはないであろう、三成の方が秀頼の将来にとって良くないという家康の宣伝に乗せられてしまったのが一番大きい。
三成は自分の器の小ささに気づき、毛利のようにお飾りではなく実際に動ける有能なる大名、たとえば大老の宇喜多秀家などを大将にして(実際に、関ヶ原の戦いでは宇喜多軍は健闘した)出陣し、自分は補佐役に回ってたら状況は変わっていたかもしれない。

 現代にも三成や家康と同じような性格の人物は多い。三成的人間は秀才で頭は切れるが、官僚的で、人情味がなく杓子定規にしか行動できない。上には従順だが下には厳しい。他方、家康のようなたぬきおやじは、義理人情には厚いが緻密さに欠け、丼勘定。従順な人間には愛想がいいが、一旦歯向かうと後が怖い。政治的な裏工作が大好き。あなたの上司はどちらのタイプの人間でしょうか?

参考 関ヶ原の戦い Wikipedia
スポンサーサイト


最近の記事


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。