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高杉晋作

2008年05月13日 13:06

山口の湯田で生まれた後、小学、中学を下関で過ごした。そのせいか、妙に高杉晋作と乃木希典に親しみを覚えた。

高杉晋作と革命

「おもしろき こともなき世を おもしろく」と書いて力尽き、これが高杉晋作の辞世の句となった。臨終を見守っていた望東尼はそのあとに 「すみなすものは 心なりけり」と続け晋作の顔の上にかざした。晋作はそれに答えることもなく、「面白いのう」とつぶやき事切れた。不治の病、結核であった。高杉晋作享年28才。師の吉田松陰の生涯よりも更に1年短い。そしてその死は松蔭が亡くなって8年後のことであった。晋作はこの短い8年の間に命の時間を人よりも10倍速く回転させ、疾風怒濤の活躍をして、旧体制幕府を倒すという革命を起こした、明治維新樹立の最大の功労者である。墓は下関郊外の吉田郷に建てられ、墓碑には東行墓とのみ書かれていたが、明治になって彼の奇兵隊の同士、伊藤俊輔が 「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」と墓碑に書き入れた。

革命の条件
司馬遼太郎は「世に棲む日々」の中で革命が起こるためには3段階の過程が必要だと述べている。 まず革命の初動期には思想家が現れ、「偏癖」の行動をとって、世から追いつめられ、かならず非業に死ぬ。これが吉田松陰にあたる。革命の中期には卓抜な行動家が現れ、奇策縦横の行動をとって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本龍馬がこれにあたる。これらの多くも死ぬ。次にそれらの果実を採って先駆者の理想を容赦なく捨て、処理可能なかたちで革命の世をつくり、おおいに栄達する。伊藤博文がこれにあたる。松蔭の松下村塾は世界的に見ても極めてまれなことに、この3種類の人間群を備えることが出来た。そこに明治維新の成功がある。

旧体制の打ち壊し
幕末、攘夷を叫べば世間は熱狂したし、幕府はペリー提督に屈して開国したがため、その動きに戦慄した。吉田松陰は長州の攘夷思想のカリスマであった。しかし松陰の死以後、弟子達、高杉晋作や井上聞多にとっては攘夷はどちらかと言えばスローガンか幕府の体制を揺さぶるための戦略材料となっていた。
 まず最初に晋作や聞多がやった幕府に対しての揺さぶりは御殿山にあるできたばかりの英国公使館の放火である。御殿山焼き討ち事件は幕閣を驚愕させ、世間には広く喧伝された。長州者のしわざらしいとの推測はついたが、幕府は長州藩とことを構えるのをいやがり、断固たる態度に出ることに臆病だった。この時、断固たる態度に出ていれば長州藩は壊滅し、維新の成業はなかったであろうと品川弥二郎は明治になって回顧している。この時をもって、維新という湧き水が滔々と流れだし、大河となってうねりだす。
また晋作は小塚原の刑場で斬首された松蔭の遺骸を引き取り埋葬するため、世田谷の毛利邸(現在松蔭神社)に向かう途中、将軍家代々の廟所である寛永寺の将軍のみに許された出入り口、御成門の手前にある忍川の中央にかかる将軍専用の御成橋を遺骨を抱き、馬に騎乗のまま押し通った。その辺りの様子が司馬遼太郎の「世に棲む日々」に書かれている。橋の番人はそのまま押しとおれば天下の大罪となり、即刻首を刎ねられぞと叫んだが、晋作は「勤王の志士吉田松蔭の殉国の霊がまかり通るのだ」と言い放った。「橋番さがれ勅命である」。「何が勅命」訳を聞こうと番士が応じた。訳は家茂(時の将軍)に聞けと渡りきってしまった。番人は更に追いすがって「名をなのれ」とわめいた。晋作は馬上ふりかえりざま長州浪人高杉晋作といった。この御成橋騒ぎもすぐに幕閣に通報されたが、表立っての沙汰はなかった。更に、このような話しは続く。これらの事件で長州に呼び戻される途中でも箱根の関所で「ここは天下の大道ぞ、幕法こそ私法ぞ、私法をかまえて人の往来を制する無法があってよいか」と関所破りをして通った。江戸300年、将軍を沽券にし、白昼堂々関所破りをしたのはこの男だけである。

奇兵隊組織
晋作は革命家でその行動も破天荒である。しかし怖いものが一つあった、長州藩主の毛利家に対してである。この男程毛利家に対しての忠誠心の激しい男はいないと司馬遼太郎は述べている。そのような男が、長州藩を幕府と決戦させ木っ端みじんにくだけさせ、その過程で300諸藩を大混乱に陥れ乱世を引き起こし、長州も滅ぶ代わりに幕府もほろび、どろどろとした混沌の中から新しい秩序を打ち立て、今までにない日本を作り上げる。「その日本こそ列強の侵略に耐えうる新生日本である」との信念で長州藩と幕府を無理心中させようというのだからまさにその思想的苦痛は悲壮を通り越したものであった。長州藩を火中に放り込む以外に日本革命の方法はないとの信念であった。
長州は藩をあげて気が狂った。攘夷を唱えるうちに列強を相手に宣戦布告し、関門海峡を通過する外国船に砲撃を加え始めた。当然のように、完全武装した軍艦が大挙して下関にやってきた。うろたえにうろたえた長州藩は困ったときの神頼みとばかりに高杉晋作に馬関防衛を委任してしまう。しかし、間抜けなことに藩の軍事組織の全権を与えなかった。やむなく晋作は藩の正規兵に大して奇兵という身分を問わない雇傭兵を新たに作り初代の奇兵隊長になる。藩はこの功労に対し、晋作を政務役という藩の重職につけた。この時の晋作程短期間に大出世をして、藩の中枢権力を握ったものはいないという。しかし、晋作はいとも簡単にことが終わるとあっさりと辞めて浪人になってしまう。
この奇兵隊が後々の藩の主流であった旧守攘夷派を殲滅するときも、長州に四境から攻め入った幕府軍を打ち破る際にも主役を演じる。

革命の申し子
晋作は一旦ことあれば精神が高尚し、迅速に後の時代から見ても考えうる最大限の活躍をする。 しかし戦い終わり、精神が鬱になると、さっさとその職を辞し、呑み屋に沈殿する。というまさに革命の申し子といえる人物であった。晋作のやり方は、「一旦潮流(攘夷とか佐幕とかの)が流れ出せばそれを止めることは不可能である。潮時の変わるまではひたすら、逃避に徹し逃げ回り、潮流の変わり目と見るや、一気呵成に事をなす。」とむやみに勤王を唱えて死んで行った志士達とは異なる。それが狂気の行動でありながら成功した秘訣かもしれない。いずれにしろ、「高杉晋作の8年間の狂気が現代日本を作った」といっても過言ではない。
キューバ革命を起こしたチェゲバラに通じる所がある。彼も革命のみに専念した。カストロは伊藤博文に似る。


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