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中原中也

2008年05月19日 19:29

私の青春に一番影響を与えたのは、中原中也であろう。
私は中也と同郷の山口の湯田で生まれた。湯田は山口市の郊外にある、小さな温泉街である。
昨年、湯田を訪れ、中也の記念館を訪ねた。以前にこの記念館ができた直後に訪ねたことがあるが、「命の時計の刻み」が気になる年齢に近づいてきて、今回は我が人生における「大切な者」へのお別れをしておこうと急に思いたち訪ねた。
 若い頃、小さな街での抑圧から解き放たれ、自由に生き、それだけでは生活できないであろう詩作を生業とするという行動と、彼のペンから紡ぎだされる、現実と幻想の間をつなぐ美しい言葉に憧れ、魅せられた。彼の作品、彼を語った文章、彼の住まいなど、彼に関するあらゆる事を調べるという、懲りようであった。一つの言葉を見つけだすための産みの苦しみと誰にも理解されない孤独と絶望。そのなかから命のろうそくを削りながら生き、それと引き換えに感動する文章を紡ぎだして生きた人生。研ぎすまされた詩を書いた代償は余にも大きい。

中原中也。
軍医であった厳格な父親謙助とやさしい母フクの長男として1907年に湯田に生まれる。中学時代から文学に凝り始め、山口中学を落第し、京都の立命館中学へ転校する。関東大震災のため京都に逃れてきていた、女優の卵、長谷川泰子と出会い、同棲を始め上京し詩作活動に専念する。小林秀雄や大岡昇平と親交を持つが、長谷川泰子は小林秀雄と奈良へと駆け落ちしてしまう。26歳のとき上野孝子と結婚し、最初の詩集「山羊の歌」を出し、長男文也も産まれ、詩作も私生活も充実したかのように思えた。それもつかの間、2才にして文也が病死する。繊細な精神は壊れ、神経衰弱を昴じ、一時千葉の療養所に入院。病状がすこし回復し、鎌倉に転居して、故郷に帰っての療養を決意するが、結核性脳膜炎を発症し永眠する。享年30才。お骨は山口市吉敷にある中原家累代の墓に埋葬される。

詩作
彼の詩はフランスの天才詩人、アルチュールランボー(Arthur Rimbaud)の影響を強く受けているが、ランボー程難解ではない。若かりしころRimbaudは中也とともに傾倒し、かぶれていた詩人。彼の数奇な人生はいつか日を改めて紹介したい。

ランボーの影響が色濃く出ている作品

「逝く夏の歌」の一節 昆虫の涙って?
山の端は、澄んで澄んで、金魚や娘の口の中を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、昨日私が昆虫の涙を塗つておいた。

「骨」
ホラホラ、これが僕の骨だ、生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、しらじらと雨に洗はれ
ヌックと出た、骨の尖(さき)。
故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて見てゐるのは、― 僕?
恰度立札ほどの高さに、骨しらじらととんがつてゐる。

幻想的であるが何を伝えたいのかが分からない詩。小林秀雄は「中原中也の思い出」の中で「彼の誠実が、彼を疲労させ、憔悴させる。彼は悲しげに放心の歌を歌ふ。川原が見える、蝶々が見える。だが、中原は首をふる。いや、いや、これは「一つのメルヘン」だと。私には、彼の最も美しい遺品に思はれるのだが」と言っている。
「一つのメルヘン」
秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらとさらさらと射してゐるのでありました。
陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらとかすかな音を立ててもゐるのでした。
さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水はさらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました

寒々とした情景と密柑の如き夕陽、欄干にこぼれたりと寂寥感が伝わってきそうな写実的な詩。、
「冬の長門峡」
長門峡に、水は流れてありにけり。寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒酌みてありぬ。われのほか別に、客とてもなかりけり。
水は、恰も魂あるものの如く、流れ流れてありにけり。
やがても密柑《みかん》の如き夕陽、欄干にこぼれたり。
ああ! ――そのやうな時もありき、寒い寒い 日なりき。

あれとは何かを考えさせ,好きな詩の一つ。
「言葉なき歌」
あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼く葱の根のやうに仄かに淡い。
決して急いではならない。此処で十分待つてゐなければならない。
処女の眼のやうに遥かを見遣つてはならない。たしかに此処で待つてゐればよい。

 この石碑を故郷に建てるとき、「心置なく泣かれよと年増婦の低い声もする」の文章が省かれた。地下で眠る中也は嘆いているかもしれない。中也らしさが消されて。
「帰 郷」
柱も庭も乾いてゐる今日は好い天気だ。
縁の下では蜘蛛の巣が心細さうに揺れてゐる。
山では枯木も息を吐くあゝ今日は好い天気だ。
路傍の草影があどけない愁みをする。
これが私の故里ださやかに風も吹いてゐる。
心置なく泣かれよと年増婦の低い声もする。
あゝおまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ

誰からも理解されず、孤独に耐えて、誰もが人生で経験する世の冷たさ。

「詩人は辛い」
私はもう歌なぞ歌はない。誰が歌なぞ歌ふものか
みんな歌なぞ聴いてはゐない。聴いてるやうなふりだけはする
みんなたゞ冷たい心を持つてゐて。歌なぞどうだつたつてかまはないのだ。
それなのに聴いてるやうなふりはする。そして盛んに拍手を送る。
拍手を送るからもう一つ歌はうとすると。もう沢山といつた顔
私はもう歌なぞ歌はない。こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない。

子供を失って、どういきたらいいのか分からない時期。奉仕の気持で生きなければとの心情に至る。「奉仕の気持ちにならなければならないという発想は、彼が生涯をつうじてみずからに課した「誠実」という倫理の最後の変奏である。ここでのこの倫理は、彼の心の内部に向かうのではなく、明らかに外部との関係でとらえられる。言い方をかえれば、多年疎外されつづけてきた生活圏との和解に向かっている。」中村稔。
「春日狂想」
愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業(?)が深くて、なほもながらふことともなつたら、
奉仕の気持に、なることなんです。奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。奉仕の気持に、ならなけあならない。

大岡昇平は彼の死を聞き、「まるでドブネズミかなにかのようにぼろぞうきんが捨てられるように死んだ。」と言った。郷里に引き揚げようとしてまとめていた詩集『在りし日の歌』は、その翌年、友人小林秀雄によって出版された。彼の名は死後の出版を待ちしばらくして世に広まる。一方、長谷川泰子は長命であった。
一回では書ききれないが、中也は色んな事を考えさせ、疲れてしまう。次回くたびれなければまた書くこととする。
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