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幕末の人物交流(2)

2008年06月09日 17:03

二人の幕臣:勝海舟と小栗上野介
勝海舟は1923年幕府旗本の子として江戸に生まれる。海舟は渡米して、目の当たりに巨大な軍事力と産業力をもつ欧米列強をみて一日も早く、列強に対抗しうる国力を身につけなければ植民地化されるとの危機意識が強くした。海舟は幕臣でありながら、幕府体制の身分や家柄に捕われ、保身に走る官僚的体制はどうしようもないと感じていた。彼自身は、幕府の重臣になっても気取る事もなく、お供もつけず、非常に開放的かつ日本が植民地化しないようにする事ができるなら幕府はつぶれても良いとの考えに至った。坂本竜馬や西郷隆盛などとも友好関係を結び、江戸を無血開城し明治維新へ導いた。幕臣であるため積極的に倒幕には動かなかったが、倒幕を見守ったと言える。幕府が長州討伐の派兵をした際、坂本竜馬が一番恐れたのは、海舟が圧倒的に強力な幕府艦隊を率いて攻めてくることであっったが、実際は官僚的で、優柔不断の老中小笠原長行が全権を持って攻めてきたことも、長州にとっては幸運なことであった。
勝海舟は坂本竜馬が世に出るきっかけを作り、西郷隆盛とともに、江戸城の無血開城を行ない、幕府軍が新政府に抵抗することにも反対した。海舟は隠れた明治維新の立役者と言える。海舟なくば幕末の歴史の流れは大きく変わっていたであろう。

一方、小栗上野介は1827年に新潟奉行小栗忠高の子として江戸に生まれる。アメリカ海軍軍艦ポーハタン号で渡米。そのときの随行艦の咸臨丸に勝海舟が乗っていた。帰国後、外国奉行,勘定奉行を歴任。幕府の財政立て直しに活躍すると同時に、フランスのバックアップのもと、横須賀製鉄所(海軍工廠)を建設した。更に、陸軍奉行となり、海軍同様フランス式の近代軍隊の設立に努力する。余りにも早く近代化を急ぐあまり、フランスに依存しすぎたため、フランスと蝦夷地の譲渡や開港を約束していたとの説もある。徳川慶喜が大政奉還した後、鳥羽伏見の戦いを経て、主戦派と恭順派の議論が繰り返されたが、上野介は主戦論を貫く。1868年に罷免されると、現在の高崎市の権田村に引きこもる。同年官軍により捕縛、斬首。享年42才。小栗上野介は埋蔵金を赤城山の麓に隠したとの埋蔵金伝説で有名であるが、人物に対しての歴史的評価は2分されている。官軍に対し、徹底抗戦を叫んだため、処刑され明治になってからも正当に評価されなかった傾向にある。

坂本竜馬や西郷隆盛は幕府がフランスの後ろ盾で、圧倒的な軍事力を持つ事を、非常に恐れていた。そのため、フランスの影響力が強くなるのを喜ばない英国の援助を得て、新式兵器をそろえ、幕府の軍事力が強化される前に、倒幕の兵を進めたかったので、小栗上野介は官軍にとっては取り除きたい存在であった。これが官軍の海舟と上野介の処遇の仕方に現れている。小栗上野介は斬首されたのに対し、勝海舟は明治後も生き続け、参議兼海軍卿などの要職を得たが積極的に政治に関与する事はなかった。伯爵を授与される。76才で永眠。最後の言葉は「これでおしまい」であったという。

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コメント

  1. くりくり再び | URL | -

    小栗礼讃

    スーパーペンペンさまに告ぐ。

    私はうれしい、実にうれしい、のです。勝海舟と並べて、小栗上野介のことにもふれて下さったからであります。英傑、豪傑として知られる幕末維新のヒーローは数多おれども、小栗の名を知る人は圧倒的に少ない。けれど、私は、彼は他の維新の志士たちに勝るとも劣らない功績を残した人であると、長く隠れファンを自称?してきた一人として、彼のことを高く評価しております。たとえ、ペンペンさんが、小栗に対して否定的な見解をもっていたとしても、、、(その場合は、シビアに戦わせていただきますが、、、。)、語り合える、ということは、実にありがたいことです。

    小栗上野介が日本の歴史に大きく登場してくるのは、日米修好通商条約の批准を任命された遣米使節団の使節の一人として、アメリカを訪問した時から。
    総勢77名の使節団は、米国軍艦ポウハタン号で横浜を出港し、ハワイ経由でサンフランシスコに到着。そこから南下してパナマ地峡を鉄道で渡り、アメリカ東海岸の主要都市を歴訪して任務を終えます。そして大西洋、インド洋、東シナ海、太平洋を経て横浜に帰ってくるのです。まさに、日本で初めて地球を一周してきたわけです。

    アメリカ滞在中のフィラデルフィアで、小栗はアメリカ人も驚くほどの毅然とした態度で貨幣の分析実験を要求し、それまで極端に不公平だったドルと小判の交換比率を是正することに成功させました。未開とみられていた日本人の知性をしらしめ、瞠目されたと伝えられています。

    ところがなぜか、たんに、その時の護衛艦の一つにしかすぎず、サンフランシスコと横浜を往復しただけの咸臨丸と、それに搭乗していた勝海舟のことばかりが喧伝され、今日までスポットを浴びてきました。私が読んだ小中学校の教科書には、咸臨丸が護衛した使節団本隊による「世界一周」のことは、まったくといっていいほど触れられていませんでした。「太平洋を自力で渡った」ことも重要でしょうが、それと比較しても、77人もの日本人が初めて「世界一周した」こともまた、意義のあることではなかったでしょうか。
    これも、明治以降の、幕府政治に対する否定的教育の賜物なのかもしれません。
    小栗は、隠棲先の高崎で、官軍によって捕えられ、なんの詮議もなく、翌日には斬殺されてしまうのです。官軍にとっては大逆賊なわけですから、良い話が伝わってくるはずがないのでしょうが、、、。

    ところで、小栗が行った業績といえば、、、、、。

    反射炉、火薬製造所、仏語学校の建設、陸軍伝習所(洋式軍隊の養成のため)の開設、鉄鉱山の開発、外国馬の導入、新聞発行、電信事業、江戸ー横浜間の鉄道、ガス燈、簿記、酒類への課税制度、などなど、のちに薩長藩閥政府が手をつけた多くの先進事業について、すでに立案、着手していたといわれております。

    中でも、やはり最大のものは「横須賀製鉄所(造船所)の建設」でしょう。「船を造るだけではなく、それを修理する場所が絶対に必要だ」と唱えた小栗は、「船は買えばよい」という幕末の大勢の意見を押えて、これを決行。 

    この造船所がその後の海軍工廠となり、今は米軍基地になっている、その横須賀造船所に、小栗が 購入したハンマーがつい最近まで残稼働されており、空母インディペンデンスのボルトなどを造っていたとのこと。
     なんとまあ、幕末に買い入れた機械で、最新鋭の航空母艦の部品を作っていた!のです。小栗が日本の近代化に役立つことを確信して建設を推進した、その施設の中で、その当時の道具が平成に至ってまでも実際に役立っていたというのだから、胸が熱くなるのはペンペンさんも同じではないでしょうか。
    そういえば、かの東郷元帥が、日本海海戦が終わったあと、小栗の遺族を招いて、日露戦争の勝因が第一に明治天皇の威光が絶大であったことを述べたあと、「軍事上の勝因の第一として、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたことが、どれほど役立ったか知れません、」と、実に率直に礼を述べた、ということ。(そのとき記念に贈った「仁義礼智信」の書額が現存するということで、是非、一度みてみたいと思っています。)

    日本海海戦で戦った三笠をはじめとする大きな戦艦はほとんどがイギリス、ドイツ、アメリカ製であったけれど、砲撃で傷つき逃げるロシア艦を追うため、夕方になって出撃を命じられ、猛スピードで敵艦の真近に接近し水雷を放って確実に沈め、この海戦を確実な勝利へと導いた、中小の駆逐艦・水雷艇のほとんどが横須賀と呉で建造されていたからだそうです。

    それと、 造船とともに発達した艦船の修理技術が、バルチック艦隊を迎える前の連合艦隊艦船のオーバーホールを可能にし、最大限の艦船能力を引き出せたこと。これには、幕末にモッコとツルハシで掘りあげたドックの存在がとくに大きかった。

    ということ。

     これら二点が、日本海海戦においてどれほど役立ったことか、という東郷の感謝につながった。 らしい。

    製鉄所の建設中に、ある幕臣が、「幕府の運命もなかなかむつかしい。費用をかけて造船所を造ってもそれが出来上がる時分には幕府はどうなっているかわからない」と言ったことに対し、小栗が「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない」 と語ったということが知られています。また、「私は幕府の臣であるから幕府のためにつくす身分ではあるけれども、それは結局日本の為であって、幕府のしたことが長く日本のためとなって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。国の利益ではないか。同じ売家にしても土蔵付売り家の方がよい。あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と、笑って語たともいわれております。

     つまり、この時、すでに幕府政治の行き詰まりを見通し、のちの時代のためにも造っていたことが、これらの言葉でわかってしまうのです。

    小栗が「いずれ土蔵つき売り家になる」と笑ったその土蔵が、東郷元帥の言ったとおり、後になって、本当に国を救ったのです。
    実に感慨深い話である、と、同時に、小栗のその時の心中を察すると、本当に胸が痛みます。ねえ、ペンペンさん。

    小栗が行ったことは他もまだまだありますよ。

    外国と取引きする際は、外国貿易の商社、西名、コンペニー(カンパニー)の法に基づかなくては、これからは、とても利益には結びつかないと、、、、各豪商の民間出資を募る、日本初の株式会社「兵庫商社」設立に尽力。(龍馬もびっくりです。)

    それと、「六備艦隊」の提唱。江戸、函館、能登、大坂、下関、長崎を拠点として、数十の蒸気軍艦、または帆船を擁する東洋一の大海軍構想(のちの、連合艦隊に通じる)をまとめたり、、、、。

    他にも、榎本武揚らをオランダ留学へ押し出し、南北戦争の終結で不要になる軍艦放出を見越して、米国最新鋭艦ストーンウオールの購入に要員をおくったりしているし、、、、。

    かたや、英人ヒューストン殺害事件、ロシア軍艦の対馬占拠交渉、薩摩が起こした生麦事件、そのほかの賠償問題等の外交に苦慮しながら、、、、、ですよ。

    小栗が幕末に行なっていた仕事の量と質を調べまするに、遣米使節から帰国後、官軍に斬首されるまでの、わずか8年間によくぞこれだけ奮闘努力した、と痛感させられます。

    その彼の心底にあったものは何か。徳川家の家臣で禄をはんでいるかぎり、最後までその責任を果たすのが自分の武士としての責任、という心構えではないでしょうか。

    『親の病気が、もう治る見込みがないからといって、薬を与えないのは親孝行ではない。たとえ国が滅びても、この身が倒れるまで公事に尽くすのが、真の武士である』 と語ったとか。
     
     自分のつかえている徳川家の政治の切り回し方はもう体制が古くて、とてもこのままではもちそうもない。だからと言って投げ出すのではなく、最後の1分1秒まで、おのれの武士としての責任で最後まで手を尽す、という気概をもった人なのであります。

    こういうタイプ、ペンペンさんはお嫌いでしょうか。もちろん、遥かに賢く生きたのは、勝海舟です。私は賢く生きた人の立派さはおおいに認めますが、感情的な部分で、あまり好きにはなれません。

    小栗の行った事績に対しては、勝海舟とよく比較され、勝は日本の国のために、小栗は幕府のためだけに行った矮小な人物というような意見も聞きますし、幕府財政窮乏の折にフランスからの借款で横須賀製鉄所の建設を進め、幕府を強化しようとした、という説も一部にあり、あたかもフランスに国を売ったかのように非難されることもしばしば。明治以後「小栗は四国を・・・」あるいは「北海道や樺太、さらには淡路島を担保にして、フランスから借金をしようとした・・・」という説が語られ、幕府を守るためになんでもする男のようにずっと見られてきたのは誠に悔しい事実。(私にとって、、。)

    もちろん、、幕府から新政府に引き継がれた横須賀製鉄所関連のフランスへの未払い金は「せいぜい数万円」、それも「借款ではなく未払い金」とする説もあったりするので、、、一応。

    そうそう、少し話はそれますが、司馬遼太郎先生も、小栗のことを、確か、明治の父とかなんとか、よんでいたような。それと、大隈重信。彼は、後年「明治政府の近代化政策は、小栗が行ったことの模倣にすぎない」、と言ってのけたとか。小栗は捕縛される前、夫人を会津に逃がすのだけれど(この逃避行がまた、涙なしには語れない、、)、その夫人が会津で産んだ女児が、唯一生き残った小栗の遺児、この遺児を大隈が養女としていたというから、またまたびっくり。

    小栗礼讃のため、ちょっと、有名人の小栗評など挿入してみましたが、、、。いかがでしたでしょうか。

    最後に、小栗がアメリカ土産に持ち帰ったネジ釘。これが現存しているらしいのです。このネジ釘片手に、こういうものを造れる国にしたいと、彼は熱く語っていたと想像されます。日本の工業化は、この一本のネジ釘から始まった!、、、とするなら、これを浪漫と呼ばずに、何としましょうや。これもまた、是非、一度拝ませてもらいたいもののひとつ。

    隠れ?小栗ファンの一人として、今日はペンペンさんのお話にちょっと触発され過ぎてしまったようです。独断と偏見におつきあいくださってありがとうございます。長くなってしまってすみませんでした。








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