スポンサーサイト

--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

小栗上野介 パート2

2008年06月17日 14:22

くりくりさんの小栗上野介への熱い応援

くりくりさんは「最後まで筋を通して滅び行く者」への愛着が深い大和魂の持ち主だとお見受け致します。
小栗上野介は確かに幕末に日本の近代化に尽くしました。そして日本海軍の礎を作ろうとしたことも間違いありません。しかしなにが勝海舟と決定的に違うかと言えば、かれの言動はあくまで幕府の官僚の域を出ていないのです。戦略家は時には政治家以上に権謀術数を尽くして事態を有利に持ち込まなければならない時があります。特に重要なのは日本が植民地化されるとの危惧がありながら抗戦を貫いたことです。幕府は軍艦を40隻も持ち、さらに最新鋭艦が届く予定になっていたにも関わらず、それを使いこなす事ができなかったことも幕府がみすみす負けた原因です。まともに勝負してれば圧倒的に幕府が有利でした。大村益次郎も言っていますが、小栗上野介が官軍を叩く作戦として、それらの艦隊の大砲をもって攻め上がってくる官軍を海沿いの東海道で叩くという案を上申しますが、すでに時は遅く、徳川慶喜はひたすら恭順することを決めた後でした。言ってみれば官僚であって西郷隆盛や勝海舟のような政治家ではなかったということです。戦略的に言えばもっと早い時期に、天皇の詔勅を薩長が得る前に近代的な武器を持って動く。これが一番。また会津を含めた全く旧式の武器で、身分制度に縛られた諸藩を重用するよりも、幕府自ら率先して薩長を攻めるべきでした。しかし旗本は太平の世に慣され、腰抜け状態にあり、結局は強力な武器がありながら宝の持ち腐れにしかならなかった。くりくりさんの言ってますようにこれが明治維新の政府には非常に役立つのですけれど。時代が変わるときは必ず敵対する勢力の力が拮抗して戦いあう期間があります。信長も一向一揆や石山寺本願寺との長い苦しい戦いを調停という形でどうにか終わらせ、それ以降は破竹の勢いになります。どちらに流れが傾くかの戦い、つまりある時期をへて、それを分水嶺とよびますが、一滴の岩清水が、どちらに向けて流れ出すかの流れを作り、それがどんどん大きな流れとなり、圧倒的な流れとなって勝敗を決定づけるのです。小栗上野介も殻から出て戦っていれば勝利間違いなかったでしょう。こんなことを言うとくりくりさんからおしかりをうけるかもしれませんが、結局は小栗上野介は官僚的秀才の域をでず、八方破れの天才にはかなわなかったというべきなのでしょうか?
しかしこれとても、歴史を後からみて批評する一凡人の戯れ言にすぎませんが。

スポンサーサイト


コメント

  1. くりくり | URL | -

    しつこくも、再び。

    はい、そうなのです。スーパーペンペン様、、、、、、。

    と、いいますか、おっしゃることは、しみじみと、つくづくと、五臓六腑にしみわたるほどに、もっともで、全く、返す言葉もございません。

    勝と、小栗、同じ幕臣でありながら、全く対照的な考えでもって動いた二人。つまりは、欧米列強に負けない日本を創るために誰が主導権をもつべきか、幕府か、それとも朝廷を担ぐ薩摩、長州jなどの雄藩連合か、ということ。

    勝は、非常に大局から日本の国を俯瞰することができた。本当にもう、ペンペンさんのおっしゃる通りなのです。
    古い衣は脱ぎすててこそ新しい国家が誕生する、という考えでもって、幕府は潰す、そして潰すことによって、徳川の家は残させる、という戦略。それがゆえの、大政奉還(この坂本龍馬の名案の原案は勝海舟が考えたのではないかという説があるそうですね。)であり、ひいては、江戸城無血開城という偉業まで成し遂げえた。お見事!、という他はないのです。

    それでは、小栗はというと、恭順を決めた慶喜の足にとりすがってあくまで徹底抗戦を問いた、、、、、だけ?そして、受け入れられないとなると、さっと退く、その返り身の速さ?

    「それなら、なぜ、最後まで戦いぬかなかったのか、、、。函館まで、落ち落ちて、最後まで反攻した人たちがいたにもかかわらず、、、。
    だからだめなんだよ、結局、官僚の枠からでることができなかった奴なんだよ、、、、。」とは、ペンペンさんのご意見。

    全くもってその通りと、ただただ、うなだれるしかない。

    けれど、、、です。引き下がってばかりはおれません。
    数々のご意見をお聞きし、反論すべき何物も、もう、もちあわせてはおりませんので、ここからは私の(得意の)感情と想像だけでつっぱしってしまいますが、、、

    おそらくは、この先、何がどうなっていくのか、時代の流れというものを、彼ほどの鋭利な頭脳でもって考えれば、ある程度よめていたはずだと私は思うのです。よめていたにもかかわらず(ここがポイント!)、あえて、幕臣として、徳川幕府を守り抜くことに、もがき尽くした、、、と、思いたい!!2700石取りのかなり高級なお旗本のお家柄、生れながらの高級官僚の身として、それ以外の生き方は彼の選択肢にはなかったのではないでしょうか。
    彼は、あの時点で、自分の戦術をもってすれば、まだ幕府にも勝算ありと、自信があったのだけれど、君主である慶喜が恭順を決めた以上、それに従うのが、三河以来の名門旗本がとるべき道、、、、、、と、、、、あえて、、、考えた、、、、。その後、上野で、会津で、函館でと、主君の意思に反してまで戦うなどという道は、彼には到底考えられることではなかったのです。、、、ペンペンさん、小栗の気持ちになってみてください。まさに、断腸の思いではありませんか。あえて、事を起こさない、、、のです。(このばかげた?)信念、、、を貫くために、、、、です。戦えば、l勝つかもしれない、、、のにです。そんな、小栗の姿、、、、、に感じ入るわけです。 そして、滅び行く幕府の悪役を 一身に背負って時代に殉じた、悲劇の人物というイメージが、私の中で大いに膨らんでいくわけです。(やるからには勝たねば!という、ペンペンさんの理論とはほど遠いところにおりますが、、。)

    歴史の流れは、当然のごとく、勝の側へと流れ、勝が燦然と輝く勝利者となるわけですが、小栗が残した足跡もまた、いぶし銀の如く歴史上に輝いていると信じて、、、、、、本日は、これにて。

    なにやら、くどくどくどくどと、愚にもつかぬことを、、、失礼つかまつりました。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://explore525.blog45.fc2.com/tb.php/50-df50fff9
この記事へのトラックバック


最近の記事


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。