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長宗我部と土佐

2008年07月15日 19:00

なぜ土佐の名門長宗我部家は滅んだか?

戦国時代の藩の生き残りは関ヶ原の戦いでどちらについたかによるところが大きい。西軍についた大藩は厳しい処分を受けたが、しかし殆ど生き残った。120万石を誇っていた西軍の総大将毛利輝元の領地は大減封となり、20万石程度の長州と周防2国に押し込められたが存続。一方の雄藩島津は本領を安堵し、宇喜多秀家一門は八丈島に流罪。上杉影勝も結城秀康などの取りなしで、改易を免れ会津120万石から直江兼続の領地であった米沢30万石へ減封。しかし土佐の雄藩長宗我部盛親は部下の讒言で兄の津野親忠を殺害するなどの行為が家康の逆鱗に触れ、所領没収され、一命はとりとめ京都で浪人、寺小屋を開く。戦国の世にあっては藩主の一挙手一投足が何万の藩士の運命を作用する。

土佐と長宗我部家
長宗我部元親:
長宗我部元親は1539年長宗我部家の20代当主 長宗我部国親の長男として岡豊城で生まれる。土佐を統一した後、織田信長と同盟を結び、伊予,阿波や讃岐へと侵攻していく。しかし信長は長宗我部家による四国統一をよしとせず、土佐と阿波の所領を安堵し信長に従う様に迫るが、元親はこれを拒絶したため、信長の援護により十河存保らの侵攻を受け、1582年には神戸信孝を総大将とする四国征伐軍が編成され存亡の危機を迎える。しかし信長が本能寺にて暗殺されたため、征伐軍は撤退し、危機を脱する。元親は其の機に応じて阿波、讃岐を侵略、配下におさめる。その後、豊臣秀吉の天下になっていくが、1583年の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家と組んで豊臣秀吉に対抗し、小牧,長久手の戦いでは小田信雄や徳川家康とくんで秀吉に対抗する。1585年には四国全土を統一することに成功した。しかし1585年には豊臣秀吉により四国征伐が行われ、秀吉の弟、羽柴秀長を総大将とする大軍が派遣され、元親は阿波白地城を本拠に阿波、讃岐、伊予の海岸線沿いに防備を固める一方で、秀吉に伊予1国を割譲することで和睦を求めたが、拒絶されたため抵抗する。しかし秀吉はさらに大勢の軍勢を送り込み土佐方の城を次々の落としたため、結局元親は降伏することになる。長宗我部家は阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみの領有を安堵された。豊臣政権下で九州征伐に嫡男の信親とともに加わり、島津との戦い中に信親が戦死してしまう。信親の死後元親の行動は生彩を欠き、長宗我部家滅亡の遠因ともなった。朝鮮戦争にも従軍し、秀吉の死後一年(1599)してこの世を去る。享年61歳、4男の盛親があとを次ぐ。元親の不幸は天下を争う戦いに間に合わなかったことである。彼が四国を統一しようとした頃には、信長は全国を殆ど切り取り、圧倒的な勢力をなしていた。その後は秀吉の膨大な軍事力の前にはなす術がなかった。

2代目長宗我部盛親
長宗我部盛親は1575年元親の四男として生まれる。九州遠征で嫡子の信親が戦死すると,世子に指名され跡を継ぐ。しかし元親が亡くなったのは1599年で受け継いだ時期が悪かった。翌年の1600年に関ヶ原の戦いが起こる。徳川家康率いる東軍に6600の軍兵を率いて、参加しようとするが、家康とよしみを結ぼうと送った使者が長束正家の支配する近江国水口にて行く手を阻まれ、どうしても東軍と連絡が取れず、やむなく西軍に加わった。さらには関ヶ原では家康に内通した吉川公家を擁する毛利軍が全く動かず、そのため戦機を逸してしまい、その間に西軍は壊滅してしまった。戦わずして破れた長宗我部軍は戦場を脱し、追い打ちかける東軍を打ち払いつつ大阪まで撤退した、そのときには兵は500余にまで減っていた。土佐に帰り、井伊直政を通じて家康の沙汰を待った。その沙汰は大阪まで自ら参れというものであった。直政は盛親のため、弁明につとたが、家康は首をたてに振らなかった。その結果、土佐一国は山内一豊に与えられ、一命だけは免じられた。即刻22万石の大名から浪人へと転落し、京都で寺小屋を開いた。この時から土佐は少数のよそ者が支配する2重構造社会になった。山内藩の藩士は上士として支配者階級を形つくり、土着の土佐藩の藩士は郷士として下層に押し込められることになる。この絶対体制は幕末まで続き、このエネルギーが坂本龍馬や中岡慎太郎につながっていくことになる。盛親自身は厳重な監視下、京都で浪人をしていたが1614年、豊臣秀頼からの依頼を受けると、大阪城に入城する。最後の戦い、大阪夏の陣では長宗我部隊は藤堂高虎隊にうちかかり一気に槍を構えた兵を突撃させた。そのため高虎隊は壊滅状態に陥り、敗走した。翌日、既に敗北を予感した盛親は最終決戦には参加せず「我ら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」と言い残し、再起を誓って戦列を離れた。しかし京都八幡近くに潜んでいるところを蜂須賀家野の家臣に見つかり、見せしめのため2条城の柵に縛りつけられ、六条河原で斬首,三条河原に曝される。「死に及んで、いささかも怯じたる気配なし」が最後の言葉。享年41歳。

運命の皮肉:
負けるのが分かってなぜ大阪方に見方したのか?秀吉には攻め滅ぼされた恨みはあるが、それほどの恩義はない。さらに長宗我部は土佐一国を毛利、島津、伊達などと同じく自らが切り取ったもので、家康や秀吉から拝領した訳でもないとの思いが強かった。2代目として自分の采配のまずさで、土佐22万石を取りつぶし、一族郎党を路頭に迷わせたという後悔が意地となって現れ、お家の再興を図りたかったのか?ただ土佐っぽの意地を見せた方のか?
真田昌幸、幸村父子も関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、徳川方についた兄信幸に嘆願され一命をとりとめ、高野山に蟄居させられる。秀頼からの使者が幸村のところにきたときには父昌幸は既になくなっていたが、幸村は一子大助とともに大阪方に駆けつけ、盛親と同じような運命をたどる。「自らの生き方に筋を通し、負け戦と分かっていても、潔く死んでいく」このような人間に「くりくりさん」は「深く心を揺さぶられる」ことでしょう。
「潔い人物は魅力的かつ義理に熱い」として尊敬される人物ではあるが、その背後に控えている藩士やその家族の将来のことを考えるとあくまで筋を通すのがいいとは限らない。藩主は商人と同じであり、お家存続(暖簾存続)のためには這いつくばって、土を食べても恥をしのばなければならないと司馬遼太郎の本のどこかに書いてあった。99%の人間は弱者なのである。理想と現実は異なる。長宗我部家は父の元親が一代で土佐一国を苦労の末切り取った。跡を継ぐはずだった長男が亡くなり、4男の盛親が跡目相続をすることになったのが敗因かもしれない。彼はほとんどを京で育ち、父親たちの苦労を知らない。家康の手練手管、権謀術数にかかればそんなボンボンなど赤子の手をひねるようなものであろう。
日本人が大好きな「判官びいきの心情」。その男のなかの男、真田幸村についてはそのうち取り上げたい。

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