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日向と日陰の歌人

2008年07月23日 17:35

与謝野晶子

1878年大阪堺の老舗の和菓子屋の3女として生まれた。旧姓は鳳(ほう)志よう。早熟で天才的な才能を持つ晶子は1900年に与謝野鉄幹が大阪を訪れた際に山川登美子とともに出席した、浜寺海岸での歌会、京都永観堂での紅葉狩や粟田山麓での歌会を通し鉄幹への思慕が激しく燃え上がる。山川登美子も鉄幹 への熱い思いはあったが、所詮情熱的で、才能豊かで、行動派の晶子にはかなうはずもなく身を引く。鉄幹が創立した東京新詩社に加わり明星に次々に作品を発表し、明星派の代表的歌人となる。1901年に鉄幹と結婚する。同年、みだれ髪に鉄幹への思いを込めた浪漫的、官能的なみずみずしい歌を発表し、多くの若者の支持を受けた。「前髪のみだれし額をまかせたるその夜の御胸あゝ熱かりし」や「やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」などは束縛から解き放たれた明治の奔放な女性の歌として多くの非難も浴びたが、若者達の圧倒的な支持も得た。1905年には「恋衣」を山川登美子、増田雅子と出版する。日露戦争真っ只中に出した「君死にたもうことなかれ」は賛否はなはだしく、絶賛するものもいれば大町桂月は逆賊だと非難した。 後年には新新訳源氏物語を出すなど古典研究や女性の自立を求める活動を通し大きな影響を与えた。1942年65歳で永眠。多摩墓地に眠る。
与謝野晶子は生涯を自分の意思に基づいて自由奔放に生き抜いた女性として、封建時代の考えを引きずる旧態然とした倫理観を打破し、権力に対しても言うべきことを言った。明治という時代を考えるとこれぞまさにな「己のすべき事をなしと通した」女性といえよう。
これと正反対の生き方をしたのが山川登美子かもしれない。封建社会の道徳に引きずられ、家にも背けず、一歩下がって行動した。彼女にもうちに秘めたる情熱は晶子ににも劣らないものがあったが。ただ表に現れてくる行動は受け身で、どうしてもその当時の道徳観を払拭できなかった。彼女の歌は迸るような情熱は感じられないが、そこはかとない奥ゆかしさを漂わせている。与謝野晶子のような並外れた才媛で明るく前向きな女性と同時代に生きた定めか、彼女の影にかくれてしまった。違う時代に生まれ、違う分野で活躍していれば全く評価は異なるかもしれない。
いつの世でも一人スパースターが出ると、通常なら活躍できるであろう多くの才能ある人が世に出るチャンスを失い、スターの影に埋もれてしまう。これも運命の巡り合わせか?

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