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原爆の日に思う

2008年08月06日 12:11


 福永武彦 草の花
人はみな草のごとく、その光栄は草の花のごとし
         ペテロ前書 第一章
 学生時代福永武彦の小説はよく読んだ。少し内容が重厚で現代向きではないかも知れないが、原爆投下から63年の今日は真面目な話題、生きるとは,信じるとは、潔癖とはについて考えさせる「ふかーい」小説についてのお話。

 汐見茂思という知的な青年は戦時下にあまりに潔癖に生きたがために友達を失い、恋人を失い、孤独に生き、戦後ひっそりとサナトリウムで死んでいく。この孤独は理知からきている。理知が彼を潔癖にし、潔癖が彼に妥協を許さない。そのため彼は友を失い、恋人を失う。若者の特権は自由であること潔癖であること。自由と潔癖については「青が散る」にも出てきた。潔癖を求めすぎると自分の考えに忠実すぎると自分も他人も不幸になる。今日の話しは現代では考えられないくらい余りに愚直な生き方をした若者達である。

 話は旧制高校時代の伊豆の戸田(へた)での弓道の合宿から始まる。汐見は同じ弓道部の藤木に好意をいだく。しかし藤木は「僕はそっとしてほしいんです、と弱々しく繰り返した。ぼくは足を停めた。砂浜の上に引き上げられた漁船が、月光に照らされて,奇怪な格好で寝そべっている。僕は悪夢のなかにでもいるように遠ざかっていく藤木の後ろ姿を眺めていた。失われていく。失われていく。執着と絶望。寄せては返す波のように、執着と絶望」。と藤木と別れることになる。

「僕は夜露に濡れていつまでも動かなかった。この海に、肉眼に見えない原生動物が幾百万となく浮遊して蒼白い光を放つように、あきらめ切れぬ心と死の誘惑とはさまざまの模様を描いて僕の精神に発光した」。

その藤木が高等学校3年の冬休みに、敗血症で亡くなる。
塩見は大学を卒業して藤木の妹、千枝子とつきあうようになる。千枝子は熱心なクリスチャン、しかし汐見にはどうしても神を求めることができない。
戦局はますます悪く、汐見にもいつ招集礼状がくるか分からない。そのような状況下。「電車から降りてもこの気分は続いていた。暗い坂道にかかると、僕はポケットから手をだし、千枝子の肩を抱くようにした。ほっそりした肩は、素直に僕の方に凭れかかった。 汐見さん、と千枝子が言った。この前、汐見さんたら何処に幸福なんかあるものかつて怒ったでしょう?  でも、今は幸福じゃなくて? ああ幸福だよ。君は? あたしも。千枝子は低い声でそう呟いたが、俯いていたのでその表情は見えなかった。僕は足をとめ、肩を抱いた手に力を入れて、そっと僕の方に向きを変えさせた。乏しい街路灯の光が、彼女の顔の上に僅かばかりの明かりを投げていた。その顔は永遠の中に凍りついたように見え、薄氷に似た羞恥がほんのりと浮かんでいた。ピアノの和音が、さらさらと光りながら僕の意識の中を通りすぎた。僕が顔を近づけると、千枝子はそっと両手を僕の胸にあてた。駄目よ。」

  浅間山の麓で千枝子に再会する。山道を二人きりで歩きながら、千枝子は「どうしても神を信じないのね?」と訊いた。 「信じない。 じゃあ何を信じるの? 何も信じない。何も信じないの?私も信じてくれないの?君?君は信じるよ。君だけは。でも,でも人間の心何て脆いものよ。神の愛はかわらないけど。人間の愛には終わりがあるのよ。」「彼女の断髪の髪がさらさらと僕の頬に触れた。乳房が一層暖かく、僕の手の中に盛り上がった。僕はその身体を折り曲げるようにして唇を探した。花を潰しちゃあ駄目よ、とさけんだ。しかし次の瞬間に、僕らは固く抱き合って、崩れるようにその場に倒れていた。湿っぽい草の匂いと、少女の瑞々しい肌の匂いとが、僕の意識を充たし、熱い唇の感触がその中を火花の様に貫いた。」

  結局、お互いの潔癖な考えがぶっつかり合い、いつしか会わなくなってしまう。汐見には招集礼状がきて、兵役につくことになる。連絡がとれないまま汐見は列車に乗り出征していく。

「品川はすぐだった。汽車が品川を出ると、僕は蒸気で曇った窓ガラスをハンカチで拭いた。次から次へと灯影が暗闇の中を走りすぎるのを、ぴったりと窓ガラスに顔を寄せて、僕は一心に見守つた。ガラスに触れた鼻の頭が,痛いほど冷たかった。夜なので、地形も分からず、小さなアパートの燈火を認めようとするのはむつかしかった。それは殆ど不可能だった。僕は息を殺していた。しかし僕はそれを認めた。認めたと思った。千枝子の部屋の小さな明かりが,一瞬、僕の網膜に焼き付いて、流星のように走り去った。そして、いくつもの燈火が、後から後からと流れていった」。
 
千枝子は信者と結婚する。汐見は復員後、重い結核にかかり、サナトリウムに入院。虚無的な生活を送り、冒険的な手術に志願して、一人寂しく死んでいく。
 
この作品を貫くのはぞっとするような孤独だ。冷静な理知の目には人生の現実はそのような残酷なものらしい。潔癖に自己の理性に基づき、妥協しない純粋な生き方は、天の道であって、人の道ではないのかも知れない。ただこのような潔癖さ、純粋さも原爆開発を行ない、平気でそれを正当化する人類の汚さに対抗するためには必要なのかもしれない。人類は破滅すると分かっていても正義の名の下で愚かなことを繰り返す動物であるようだ。


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コメント

  1. とくとく | URL | -

    No title

    遅ればせながら、やっと「草の花」を読ませていただきました。どこまでも透明な氷柱のような小説でした。
    汐見の自分の理想への想いが強すぎて(penpenさんは潔癖とおっしゃっていましたが)、それが現実とは違うとわかっていても受け入れられず孤独になっていく様子は不器用で痛々しくさえ思えました。しかし、彼の孤独や潔癖は誰もが経験するものであり、それゆえに多くの人の共感を呼んでいるのだろうと感じました。
    「一人の人間は、彼が灰になり塵に帰ってしまった後に於ても、誰かが彼の動作、彼の話し振り、彼の癖、彼の感じ方、彼の考え、そのようなものを明かに覚えている限り、なお生きている」に始まる今も強い藤木への想いを語る部分は私の最も好きな場面で、何度も読み返してしまいました。
    彼は常に孤独で、孤独のうちに死んでいきますが、彼は自分を「孤独」と思い込んでいただけで決して「孤独」ではなかったのではないかと私は思います。しかし、それに気付かず「孤独であること」にあまりにもこだわりすぎたことが彼の一番の悲劇だったのではないでしょうか。

  2. くりくり | URL | -

    くりくりの読書感想文

     「草の花」‥‥思い起こせば、はるか昔、中三の夏休みに
    読みました。何気に選んだ作品でした。私の蔵書?となっている物入れの奥深くから、今は色褪せたこの文庫本を懐かしく探し出しました。頁を繰ると、線を引いたり、いろいろ書き込みなどしたあとが残っていて、いささか気恥ずかしくもありました。あまりにも美しい、なめらかで流れるような文章、詩をばらまいたような情景描写、選び抜かれた言葉にうっとりとして読み進み、それまで放ったらかしにしてしまっていた読書感想文の宿題に、読書後やけに熱中して取り組んだ、、、ということなど、色々思い出しました。あの頃の読書感想文集など、もう何一つ残ってはいませんが、今となっては、残しておかなかったことがいささか残念です。

    久々に読み返し、再度、読書感想文に挑戦してみました。ペンペンさんが書かれた時からずいぶんたってしまって、今さら全く「旬」ではありませんが、よろしければお付き合い下さいませ。

    サナトリウムで知り合った汐見が、自殺行為ともいえる肺摘手術を望んで受けて帰らぬ人となる。「私」に二冊のノートを残して。汐見亡き後、「私」はそれを読み始める、、、、、。

    という、この構成が何とも好きでした。
    私の母も、私が子供の頃、肺結核による肺摘出の手術を受け、その後、長くサナトリウム的病院で長く療養生活をおくっていたため、本篇より前にある、当時の入院生活の部分で描かれている患者の心理心情など、妙に生々しくせまってくるものがありました。
    「一人は一人だけの孤独を持ち」「嫉妬や羨望や憎悪など、何よりもエゴイズムの秘められた感情を、隠し持っていなかったと誰が言えよう」等々。

    さて、綴られているのは、 素晴らしく繊細で、理知的過ぎて頭でっかちで、それゆえ純粋な汐見の愛と葛藤の日々。
    18のときも、24のときにも、その理知ゆえ、またあまりに純粋であったがため、イージーには人を愛することが出来ず、 彼のその純粋な愛は、忍にも千枝子にも、「観念的な愛」でしかないと受け止められ、結局、二人ともに「あなたの愛には応えられない」と突き放される。汐見の愛は深いものなのに、それは彼らには浅く見られてしまう。
    なぜか?
    彼は相手に誠実であらんとするがために、必ず自己の心をみつめなおすことをやめない、、、。
      自分は、この人を愛している、、、と思っている。けれど、いつまでも永遠に、確実にこの人を愛しているといいきれるのか、、、、?絶対に??、、、と。
    そう、汐見の「絶対」は、私たちの「絶対」とは違う、もっと自分の全存在をかけての絶対、であり、私たちのそれとは重みが違うのです。
    けれど、汐見がそうやって内省し、答を求めている間に、その対象は、彼の愛を疑い、去っていってしまう。彼のその真摯な態度が、逆に彼の愛情に対し疑念を抱かせ、、、。

    そう、彼は常に孤独と共にいて、 
    そして、孤独のうちに死んでいったのです。
    「藤木、君は僕を愛してくれなかった。そして君の妹は、僕を愛してくれなかった。僕は一人きりで死ぬだろう・・・」という心の叫びが胸に突き刺さります。

    なんとも絶望的な話。
    けれど、なぜか読む人を絶望させない、この物語には清冽な力があります(と思う)。むしろ汐見のように愛することに希望がある、、、のではないか、、、、漠然とした至高の理想が、その絶望の中にある!、、、そう思ってしまうのです。

    ところで、汐見の弓術部の先輩である春日さんの孤独と愛に関する意見。孤独というものについての作者の考えが、そこに隠されているような気がします。

    孤独とは ; 真の孤独というものは、もう何によっても傷つけられることのないぎりぎりのもの、どんな苦しい愛にでも耐えられるものだと思うね。それは魂の力強い、積極的な状態だと思う。
    愛することの靱(つよ)さと孤独の靱さとは正比例しないのさ。相手をより強く愛している方が、かえって自分の愛に満足できないで相手から傷つけられてしまうことが多いのだ。しかしそれでも、たとえ傷ついても、常に相手より靱く愛する立場に立つべきなのだ。人から愛されるということは、生ぬるい日向(ひなた)水に涵(ひた)っているようなもので、そこには何の孤独もないのだ。靱く人を愛することは自分の孤独を賭けることだ。たとえ傷つく懼(おそれ)があっても、それが本当の生きかたじゃないだろうか。孤独はそういうふうにして鍛えられ成長して行くのじゃないだろうかね。
     そして、 君が本当に成長し、君の孤独が真に靱いものになれば、君はじぶんをも他人をも傷つけなくなるのだ。自分が傷つくような愛しかたはまだ若いのだ。」

    ぺんぺんさん、とくとくさん、彼がいた孤独の世界は、私たちが思う孤独の域とは違う次元であったかもしれないと、、、私は勝手ながら思ったりしています。

    さて、題名でもあり、はしがきにもでてくる聖書から引用された「草の花」の意味は、、。
    ペテロ前書、第一章、24,25節「人はみな草のごとく、その光栄はみな草の花の如し。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る。」これが、あなたがたに述べ伝えられた御言葉である。
    すなわち、草の花とは、この世での成功なんて実にはかないものであるということの象徴です。彼の求める愛が成就しようとそうでなかろうと、そんなものたいしたことではない、、と、、(?)

    全くもって、深すぎる話です。

    最後に、作者のキリスト教感に一言。作者の母は、日本聖公会の伝道師であったので、彼自身、深くキリスト教の教義にかかわっていたと思われます。第二の手紙の中で、キリスト教を批判しているような千枝子との会話がありますが、批判というよりは、何かさらなる理想を求め続けるような意志がそこにあったような気がします。当時、心あるキリスト者たちは、あの戦争をとめられなかったこと、社会的迫害の中でキリスト者であることを貫くことができなかったことに対し、深い自責の念を抱いていたといわれます。作者は、その当時は、キリスト教を信仰していませんでしたが、やはり、同じように、戦争を止められなかったことを恥じ、どこかで責任を感じていたのでしょう。
    文中で、戦争に対する恐怖として、「如何にして武器を執ることに自分を納得させるか。」「殺せるか、死ぬか。」と語らせています。また、
    「僕が戦争になって、今まで以上に基督教が厭になったのはね、彼等が平然とこの戦争を受け入れたことだよ。なぜ反対しないのだろう。なぜこの戦争を阻止しようとしないのだろう」とも言わせています。
      深い葛藤の中にいて、神に対して懐疑的であればあるほど、実は、誰より神の存在を望んでいた方なのかもしれません。それが、汐見の姿とも重なります。

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