2008年08月26日 19:00
最近の科学論文
Painful publishing
最近のScience 紙上で著名で超一流の科学論文ほど、およそその主題に関係ない、また枝葉末節のことを求める傾向にあることを嘆くコメントが載った。しかしそれらのジャーナルは就職や研究費を獲得するのに圧倒的に有利になってきている。
生命科学、基礎医学研究は昔のように興奮するようなことも生産的であることも少なくなってきた。また研究手段や道具が凄まじく強力になり、進歩にも加速がかかってきた。このような事態は研究者にとってストレスいっぱいの時代だと言える。というのは研究費をとったり、就職先を見つけたり、格式の高いジャーナルへの投稿も益々競争が激しくなっているからである。実験結果を発表するのに、最初に結果を得るのに要した時間と同じくらいの時間が論文の受理までの時間に費やされ、そのストレスが研究を行うという喜びを奪ってしまう。現在の論文出版における問題としてhigh-impactなジャーナルに与えられている圧倒的なステータスである。キャリーアーアップには何を発表したのかというよりもどこに発表したのかを問われる。そのため、それらのジャーナルに出したい研究者は本題とは余り関係ない、枝葉末節の、時間のむだな実験を強いられる。多くのレフリーが不必要な実験を要求し、多くの若い研究者が気分を削がれ、研究の進展が妨げられる。
Science 321, p.36 (2008)
High-profile journals not worth the trouble.
上記の投稿を受けて、YaleのLausenbaumはこう言っている。
私の研究室ではScience, NatureやCellに出版するというプレシャーはない。なぜならどのように重要でもhigh-impactだと考えてもそのようなジャーナルに投稿しないからである。我々には他にもよい第一線の細胞生物学のジャーナルがあり、これら3誌のように非常に競争の厳しいジャーナルに出す必要がないからである。またどこに出版され様とも、その論文のもつ重要性やimpactは変わらない。
Science 321, p1039 (2008)
ごもっともなことです。明らかに革命的に重要でimpactのある、ノーベル賞級の結果の場合、どこに出そうがその重要性は変わらない。しかしそのような研究は0.01%以下?であり、現実はほとんどの研究が流行を追いかけたり、Big nameに追随した論文が圧倒的に出やすく、ジャーナルによっての引用率も圧倒的に違ってくる。また世に一流と呼ばれているジャーナルは平均的にimpactも重要性も高い。しかし絶対ではない。前にも言ったけど研究者といえども欲の深い人間のやること、できるだけ評価も高くされたいし、地位も、お金も欲しい。そんな無名の研究者の一番の近道がhigh-profileのジャーナルにだすことである。Lausenbaumはすでにestablishした研究者で、その筋では名前を知られ、超一流誌にださなくても程々のジャーナルに出しておればその論文を見てくれるのであろう。どちらのの考えも分かる気がするが、諸君はどうする? 北島康介似のTsuka君はどうする?
(penpenはtoo competitiveに耐えられない)
Painful publishing
最近のScience 紙上で著名で超一流の科学論文ほど、およそその主題に関係ない、また枝葉末節のことを求める傾向にあることを嘆くコメントが載った。しかしそれらのジャーナルは就職や研究費を獲得するのに圧倒的に有利になってきている。
生命科学、基礎医学研究は昔のように興奮するようなことも生産的であることも少なくなってきた。また研究手段や道具が凄まじく強力になり、進歩にも加速がかかってきた。このような事態は研究者にとってストレスいっぱいの時代だと言える。というのは研究費をとったり、就職先を見つけたり、格式の高いジャーナルへの投稿も益々競争が激しくなっているからである。実験結果を発表するのに、最初に結果を得るのに要した時間と同じくらいの時間が論文の受理までの時間に費やされ、そのストレスが研究を行うという喜びを奪ってしまう。現在の論文出版における問題としてhigh-impactなジャーナルに与えられている圧倒的なステータスである。キャリーアーアップには何を発表したのかというよりもどこに発表したのかを問われる。そのため、それらのジャーナルに出したい研究者は本題とは余り関係ない、枝葉末節の、時間のむだな実験を強いられる。多くのレフリーが不必要な実験を要求し、多くの若い研究者が気分を削がれ、研究の進展が妨げられる。
Science 321, p.36 (2008)
High-profile journals not worth the trouble.
上記の投稿を受けて、YaleのLausenbaumはこう言っている。
私の研究室ではScience, NatureやCellに出版するというプレシャーはない。なぜならどのように重要でもhigh-impactだと考えてもそのようなジャーナルに投稿しないからである。我々には他にもよい第一線の細胞生物学のジャーナルがあり、これら3誌のように非常に競争の厳しいジャーナルに出す必要がないからである。またどこに出版され様とも、その論文のもつ重要性やimpactは変わらない。
Science 321, p1039 (2008)
ごもっともなことです。明らかに革命的に重要でimpactのある、ノーベル賞級の結果の場合、どこに出そうがその重要性は変わらない。しかしそのような研究は0.01%以下?であり、現実はほとんどの研究が流行を追いかけたり、Big nameに追随した論文が圧倒的に出やすく、ジャーナルによっての引用率も圧倒的に違ってくる。また世に一流と呼ばれているジャーナルは平均的にimpactも重要性も高い。しかし絶対ではない。前にも言ったけど研究者といえども欲の深い人間のやること、できるだけ評価も高くされたいし、地位も、お金も欲しい。そんな無名の研究者の一番の近道がhigh-profileのジャーナルにだすことである。Lausenbaumはすでにestablishした研究者で、その筋では名前を知られ、超一流誌にださなくても程々のジャーナルに出しておればその論文を見てくれるのであろう。どちらのの考えも分かる気がするが、諸君はどうする? 北島康介似のTsuka君はどうする?
(penpenはtoo competitiveに耐えられない)
スポンサーサイト
コメント
北島康介に似てるって言われます | URL | -
No title
確かに枝葉末節に時間を費やすことは一見無駄ではありますが、お金さえあればキットや外注に頼ることができる現在の生命科学研究にあっては、単に未開の地を開くだけでなく、そこでインフラまで整えてこそ一流の研究、とみなされるのも、仕方のないことだと思います。
以前北京の大学院生と交流する機会を持たせていただきましたが、みな研究に対してものすごく貪欲で、一流誌に載るような研究をしたいと言っていましたし、大学の中では、いたるところに一流誌に掲載された自分たちの研究内容をポスターとして貼っていました。欧米や日本に追いつけ、追い越せ、という気概が感じられ、エネルギーに満ちている感じがしました。彼らなら不必要な実験をやらされたくらいでやる気をなくしたりはしないでしょうし、「インパクトのある論文はどこへ出しても同じ」などとは言わないでしょう。それくらい「一流誌」は強いモチベーションとなりえます。
若いうちは「一流誌に載るような研究を」という単純な目標の元、競争社会で切磋琢磨することは良いことだと思います。ある程度それを達成したときに、改めて「一流誌」の意味を問い直し、自分なりのやり方を見つけてゆけばよいのではないでしょうか。
三流紙→ノーベル賞が一番かっこいいとは思いますが…
( 2008年08月26日 21:01 [編集] )
くりくり | URL | -
素人ながら、、、。
Looks 北島康介さんに一票!
若者(あくまでも、、、)には、多少の艱難辛苦、不利益などものともせず、Big Titleを目指したいという、気概をもってもらいたい。、、、、と、くりくりなどは素人ながら思うわけです。
Lausenbaum博士言うところの、「我々には他にもよい第一線の細胞生物学のジャーナルがあり、これら3誌のように非常に競争の厳しいジャーナルに出す必要がないからである。またどこに出版され様とも、その論文のもつ重要性やimpactは変わらない。」とは、すでに地位も名声も獲得されたのであろう老巧な先生のお言葉だから重みがあるけれど、少なくとも、これを若者が言うと、どこか空しく聞こえてしまいませんか?
無駄なエネルギーの消費に終わろうと、高みへの「挑戦」、これを失くしては進歩なし。目指せ、Nature, Cell Science!、ですよね、ここはやはり、 康介(似)さん?
(ややオリンピックに感化されすぎたくりくりより。)
( 2008年08月27日 00:53 [編集] )
コメントの投稿