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幕末の意固地侍 河井継之助

2008年09月04日 17:35

河井継之助
 よく言っていた言葉「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ屁もこけ」は彼の性格をよく現した言葉である。

 継之助は強烈な個性の持ち主として幕末にその生き様を示し、ある意味武士の意地を示した男である。小栗上野介とは対照的な生き方をした人物に思える。
司馬遼太郎の書いた峠の主人公。評価はほぼ2分される。日本人はこのように時の権力に抵抗し、華々しく散った人物が好きである。一方で無用な戦争をして長岡藩全体を巻き込み、多くの人を死に追いやった罪も大きいとされる。以前からこうあることを予想してガトリング銃(速射のできる機関銃)や新式銃を買い集め軍備的には長岡藩を突出して近代化させていた事も確か。官軍の岩村軍官の横柄な態度に腹の虫が治まらなかったのか。個人の感情だけで戦争を始めると必ずそのつけがくる。「勝つべくして戦いは始めなければいけない。負ける戦をやれば多くの関係ない人を巻き込んで悲惨な結果に終わる事を考え、耐え忍ばねばならない。自分の主義主張を通したいのであれば、一人だけの、同士だけの玉砕であらねばならない」と私は思っている。
河井継之助は文生10年(1827年)長岡藩の中堅藩士で郡奉行や新潟奉行を務めた河井代右衛門の長男として生まれる。幼少の頃から気性が激しく、腕白で、人の事を聞かないたちであった。また何事をやるにも、人の上に立たねば気がすまず、これが最後まで災いのもととなる。
青年期には王陽明に傾倒し、朱子学のような死んだ学問ではなく、徹頭徹尾、実学を尊んだ。そのため江戸に遊学して斎藤拙堂、佐久間象山に師事するも、実学に関係ない学問には見向きもせず、ひたすら遊郭に通い、酒を飲んでいたらしい。江戸遊学中に『李忠定公集』という書物に出会い、その説く所「経済とは経世済民の略である。乱れた世を整え、困窮している民を救うことだ」という考えに深く傾倒し、この考えが後の藩の財政立て直しの基盤となる。1953年にペリーが黒船を率いて、浦賀にやってきた時、継之助は再び江戸に出てきていた。その有様を逐次、見聞きし長岡藩主の牧野忠雅に建白書をだし、それが認められて評定方随役という重臣に取り立てられた。しかし古い家老達とうまく行くはずもなく早々にその職を辞している。
1862年、長岡藩主の牧野忠恭が京都所司代に任命されると、継之助は藩主に京都所司代を辞任するように説いたが、聞き入れられず、逆に京都へ出向き藩主を助ける事になる。しかし1963年に朝廷の命で攘夷が決行される事に決まると、忠恭は江戸に戻り、継之助は長岡藩に戻った。藩主・忠恭は今度は江戸幕府の老中に任命された。継之助は郡奉行に任ぜられ、藩政改革に着手した。その後はどんどん出世し家老職、上席家老、軍事総督職を務める。その間に藩政改革と軍事改革に努め、藩の財政の改善、軍事の中央集権化を実行した。
1868年に鳥羽伏見での幕府軍と倒幕を旗印とする薩長連合軍の戦い、いわゆる戊辰戦争が勃発した。長岡藩は大阪を警護していたが、幕府軍が敗れ、徳川慶喜が船で江戸に逃れたのを知ると、後を追うように江戸に舞い戻り、継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却し、その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にガトリング砲やフランス製の最新式銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3丁しかなく、そのうち2丁を継之助が持っていた。
鳥羽伏見の戦いに勝って勢いに乗る新政府軍は会津藩を討つため、小千谷まで迫ってきた。継之助は長岡藩が武装中立さえすれば、新政府軍は藩内への侵攻をあきらめ、素通りして会津を攻めると考えていた。そしてあくまで武装中立にこだわり新政府の軍監岩村との小千谷での会談に臨んだ。しか遼太郎の峠でも詳しいように、薩摩藩士の岩村は最初から継之助を信用せず、自分たちは勝者であり、長岡藩などはとるに足らないとの考えに終始したため会談は決裂する。新政府軍との間に北越戦争が始まった。最初は長岡藩は訓練された兵隊と最新の武器で互角に戦ったが所詮、多勢に無勢徐々に劣勢になっていった。しかも継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまった。そして会津藩を頼って落延びて行く道中、現在の福島県只見町で死去。享年42才。
遺骨は長岡市の栄凉寺の埋葬されている。長岡市の継之助生誕の地には河井継之助記念館が建てられている。
河井継之助は繊細さや優雅さとはほど遠く、粗野で自信家で人の言う事を聞く耳を持たなかった。一方で、実務には長け、藩の経済立て直し等や、軍隊の近代化に務め、将来を見通せる目を持っていた。長岡のような小藩には河井継之助のような大器は収まりきれず、藩を滅ぼす事になってしまった。もっと大きな藩であったなら、などと言われる事であるが、どのような有能な人物もそれを取り巻く、環境と時代で生かされも、殺されもする。だいたい過剰な自信家は、うまく行かないと自暴自棄になりがちである。戦うのであれば、会津、奥州連合と密接に手をくみ、組織的な抵抗を起こすべきだった。単独の、散発的抵抗は各個撃破すればいい。明治維新政府にすれば組織立った抵抗を受ける事がなく、これ程撃破し易い相手もいなかった。



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コメント

  1. くりくり | URL | -

    判断つきまねます。

    さてさて、ついにやって来ましたか。河井継之助。これは、痛い、かなり痛いとしかいえない。実は、私、彼に対しては、なんとも評価に苦しんでいる一人です。

    「峠」を書いた、司馬遼太郎氏は、幕末に生きたこの河井継之助という一人の人間を通して、侍とは何かを考えてみたかった、と、あとがきに記しています。小千谷市にある『峠』の碑には「(略)かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることのみに終始した。武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。(略)」と記されています。司馬遼太郎氏は河井継之助、そして長岡藩を高く評価している‥‥ということですかねえ。
    武士であることのみ、、、という、氏の表現に、彼も河井が最後にとった決断に、やや懐疑的な含みをもたせている、、、、と、、と思うのは勝手すぎでしょうか。

    武装中立と、新政府軍、同盟軍の和睦を考えていた河合継之助は、あの小千谷会談を経たのち、武士としての意地を貫き、最後まで徹底抗戦を貫く道を選択。
    長岡藩は、兵力・兵器ともに圧倒的に勝る新政府軍を相手に堂々と渡り合い、反骨の精神を示したけれど、結局は惨敗に終わり、長岡城下は灰燼に帰すこととなってしまった。

    これが果たして本当に正しい選択だったのか?判断は大きく二分されるところであるけれど、司馬氏がいい(そて私も大いに賛同したい)たいところは、

    歴史の中で、この長岡藩が行った行為は、決して無意味ではなかったということ。その後の歴史において、長岡の人々が苦境に負けず、どこまでも反骨の精神を持って復興に取り組んでいったという姿に、後世に住む我々が大きな感動を覚え、そしてまたさらに後の世まで語り継いでいく‥‥という‥‥そこのところにおいて、歴史的にはとても大きな意味があった‥‥

    ということだと思うのです。焦土と化した長岡のあまりの窮状に、支藩から援助としておくられた、あの有名な「米百俵」の話に代表されるように‥‥。

    例えば、戦闘が無かった土地に対して、私たちはもはや何かの個性や価値というものを、そこに見出すことはないように思います。列藩同盟の中、新政府軍に寝返ったといわれる新発田藩などは、確かに、藩は無事に立ちいくことができ、賢い選択をしたのだけれど、気の毒に、後世の評価はいかほどのものか。   
    戦争の勝敗は、その時点ですぐに決まるけれど、その戦いの本当の意義は、後世の人々によって、より見出されうる、と、いうことなのです。あの戦いは、少なくとも後世の長岡の人々にとって、欠くことのできない精神的な支柱となり、資産となって残り得た、、、ということではないでしょうか。つまりは、決して間違った選択ではなかった‥‥?


    けど翻って、、、もっともっとシビアに見た場合‥‥。

    長岡の街全体を焼野原にして、民に甚大な犠牲を強いた継之助一個人としての戦争責任は、全くもってぬぐえるものではないと思う。
    あの大政奉還という政治的局面において、ひとつの藩が武装独立など、本当にできうることなのか?(理念は素晴らしいけれど。)長岡藩に、無理な抗戦や独立を貫徹しなければならない道義的理由はなにもなく、あれだけの犠牲が、侍の美学を貫くためだけに支払われたものならば、全くもって、この責任を正当化できるはずはない!‥‥のです。

    ‥‥まあ、そんなことは百も承知、「おみしゃんになにがわかるか、西洋的合理的判断、正論だけでは侍の本質は語れない。」
    ‥‥と、継之助様から叱られそうですが。

    彼の選択が果たして正しかったのか、それとも間違っていたのか、、、??結局、私には判断つきかねます!(‥‥と、逃げる。)

    ところで、誤解のないように申し上げときますが、私は、河井継之助という人、
    やっぱり、好きです。
    (確かに、小栗とは、最後の一点において、対照的な生き方をした人かもしれません。けれど、根っこの部分は、同じタイプの人なのです。私はそう思っています。)

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