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勝負の世界

2008年09月18日 12:48

ある棋士の戦い「聖の青春」

勝負の世界は厳しい。勝つか負けるかが全てを決定し、人を蹴落とさなければ、自分が蹴落とされ、生き残れない。相撲の世界は早ければ中学生の頃から相撲部屋に住み込み、つらい相撲の稽古から兄弟子の世話に至るまで、耐え忍ばなければならない。しかし相撲はまだいいかもしれない、大学を出て相撲界に入る道も開かれている。もっと厳しいのはプロの将棋士になる道であろう。小学校の頃から将棋の天才といわれたような子供たちだけが全国から集まり、プロ棋士の弟子になり奨励会試験を受け、受かると、奨励会で勝ち残っていかなければならない。 奨励会入会の判断はアマチュア4-5段で、プロの棋士のお眼鏡にかなった者だけに受験が許される。奨励会を4-5級から始め、3段まであがっていき、30人程度で構成される3段者たちで、年2度の3段リーグを行ない、上位の2人だけが4段になれ、プロの棋士になる。つまり1年に4人しかプロの棋士になれない。4段以上をプロ棋士と呼ぶ。しかも奨励会には26歳までしかいられない。小さい頃から将棋のみの生活をし、中学もろくすっぽいかず、将棋づけの生活をしてきた26歳の若者が社会に放りだされるわけだから、これほどきつく残酷なことはない。だから奨励会では十代の子供がまさに凌ぎを削って、生き残りを戦っている。なんと残酷なことでしょう。これに比べれば研究の世界なんてちょろいものです。

偶然本屋で手に取った数冊の本の中にこの本があった。題名は「聖(さとし)の青春」でプロ棋士を目指し、名人位を目指した若者の生き様を書いた本です。村山聖は生まれて程なく、腎ネフローゼにかかり、年の半分を病院で過さざるを得なくなる。6歳の時に、父親が病室での気晴らしに将棋を教えたのが病み付きになり、将棋にのめり込んでいく。谷川浩司名人(永世名人)が目標である。中学1年で奨励会に入ろうと決心し、大阪の森プロの門下生となり、5級で合格する。大阪の住友病院に転院し、元気な時は中学に通いつつ、奨励会での過酷な生存競争を戦うことになる。そして自分がやっていること、「勝負といいながら弱者を蹴落とし、勝ち上がらなければじぶんが淘汰されてしまう」ことに疑問を感じながら、それでも勝ち続けなければならなかった。体調は最悪であるにもかかわらず、17歳の時には3段に昇段し、破竹の勢いで13勝4敗の成績で念願の4段に昇段、プロ棋士になった。順位戦は名人を頂点としたリーグ戦でA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5クラスからなり、A級の優勝者が名人位挑戦者となる。村山の所属するC級2組は53人の大所帯で、この中の3名がC級1組に昇級できるという気の遠くなるような長い道のりである。同時期、天才棋士羽生善治が彗星の様に登場した。羽生は15歳でデビューをし、圧倒的な強さでリーグ戦を勝ち残っていた。村山はC級2組を9勝1敗で全勝の羽生と肩を並べてC級1組に昇級していく。しかしネフローゼはそんな村山に容赦なく襲いかかる。最悪の体調で羽生との対局を迎えなければならなかった。序盤は村山の優勢。しかし終盤の緩い一手でもって流れが変わり羽生の勝利。今まで谷川を倒すことを目標にしてきた自分にもう一人倒さなければ行けない敵が現れたことを実感する。大きな壁の出現と症状の悪化とで2週間寝込んだ。平成4年の暮れ、村山23歳。王将リーグを勝ち進み、当時三冠をすでにもっていた羽生をも下し、タイトル初挑戦権を得る。対戦相手は幼い頃から倒すことを何度も夢見た谷口川浩司王将である。結果は完敗。一勝もとれなかった。しかしB級1組への昇格を決め、名人への道に一歩一歩近づいていった。何度も倒れ、その度に立ち上がり,病院から抜け出して、対局に臨んだ。

平成7年1月17日未明。神戸、淡路を大地震が襲う。阪神大震災である。谷川浩司は神戸ポートアイランドの自宅で被災した。島は孤立し、集会所で不安な夜を過ごしていた。2日後には米長とのA級順位戦が待っていた。将棋連盟を通じ、米長から対局の延期の申し出が届いた。しかしその提案を断り、神戸市への橋の開通をまって、車で暗黒の街を抜け出す決意をした。谷川が生まれ育った神戸の街はまさに地獄絵図の様相を呈していた。人々の悲しみの悲鳴や、嗚咽がそこら中から聞こえてくるようだった。「将棋をさすしかない」谷川は何度も自分に言い聞かせた。「今自分にできること、それは将棋しかない」12時間かかって大阪にたどり着き、生きて将棋を指せる喜び、谷川はただそれだけのことに感謝し、無心で指し、米長を打ち負かした。それは神戸の被災者に大きな感動と勇気を与えた。その年の3月にはすでに6冠をとっていた羽生が7冠目をかけて谷川浩司王将との戦いがあった。震災で帰る家もない谷川は王将をかけて2ヶ月間の全国での転戦にはいる。谷川にすれば震災で悲鳴をあげている神戸への戦いであり、羽生は2度とこないかもしれない全タイトル制覇への戦いであった。3勝3敗とお互いあい譲らず、7局にもつれ込んだ。その死闘を制したのが谷川であった。震災という不幸をばねにして、谷川は史上最強の挑戦者を退け、神戸に一筋の光を持ち帰った。しかし翌年、羽生は再度の挑戦で今度は圧倒的な強さで7冠目を奪取した。

一方村山は震災一ヶ月後に、B級1組の順位戦に勝ち進み、A級に昇格、8段となった。更なる高みを求めて、東京に転居したが、相変わらず体調はすぐれなかった。平成8年の10月からは宿敵谷川をも破り、8連勝をかざり、王将をかけて羽生7冠への挑戦権を手にする。しかしまたしても彼を不幸が襲う。平成9年。ネフローゼに加え、がんを患う。広島への帰郷を決意し、広島の病院で手術を受ける。手術後1ヶ月、医師の引き止めを無視して、元看護婦の女性を同伴して、大阪で開かれる順位戦を丸山と対局する。形勢は2転3転、盤上に全てを打ち続けた。名人への祈りを、自分が生まれて死んでいく意味を、喜びを、悲しみを打ち続けた。この将棋こそは村山が残り少ない自らの命を削って創り上げた魂の棋譜なのである。一方の、丸山も、村山の状態の悪いことは分かっていたが、彼自身の順位戦に集中することに努めた。「負けました」と村山は蒼白な顔で言うと、ゆらりと立ち上がった。それから一年あまり、広島の病院で息を引き取り、村山聖の全ての戦いは終わった。29歳で永眠。彼の残した言葉「生きること、生き残ること」。

運命に翻弄されながらも、力一杯生き、夢を追いかけつづけた。病気と戦い、将棋しか知らず、純粋にひたすら名人位を求めて生きた男。
これほど純粋に生きた男が今の世にもいたことに感動。
              (久しぶりに感動したpenpen)

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コメント

  1. くりくり | URL | -

    考え深い1日でした。

    将棋といえば、浪速が誇る、坂田三吉の逸話くらいしか、まともにしらない私。今回は、本当に感動させていただきました。感動しすぎて、何も多くは語るまい‥‥と決意しております。
    (今、耳元で、村田秀雄の「王将」がこだましております!‥‥ちょっと、古すぎですか!?)

    でも、少しだけ。

    将棋について、ここはひとつ、何か読んでみようか‥‥との決意のもとに探し当てたのが、この1冊。
    実はまだ読んでいないのですが‥‥。(笑)

    なかなか良さそうなので、ぺんぺん様にもおすそ分けをいたします。

    「日本文化としての将棋」 編著 by 尾本恵市

    「将棋の戦略と日本文化」というテーマで共同研究した成果をまとめた一冊。(らしい)
    「日本で独自の発展をとげ、ユニークかつ複雑な盤上ゲームとなった将棋。その歴史を数々のエピソードをまじえて紹介し、そのゲーム性、戦略性、社会性などをプロ棋士や専門研究者らが語り尽くす、将棋の文化史と銘打っている。」‥‥(らしい。)

    この本は、将棋に興味を持つ各執筆者が論文発表のような形態をとっていて、その執筆者の面々がまた凄い!
    執筆者:
    尾本恵市、小暮得雄、伊達宗行、笠谷和比古、羽生善治、谷川治恵、木村汎、木村義徳、清水康二、佐伯真一、増川宏一、竹村民郎、早川聞多、十時博信、旦代晃一、飯田弘之、米長泰、入江康平、熊澤良尊、谷岡一郎、山田奨治

    と、なっておりまして、今回のペンペン様のお話の中にも登場してくるような方々が筆をとっておられます。

    伝説となた、あの南禅寺の決戦や、今回のお話の、大阪で開かれた順位戦のような、棋士の魂が注がれた熱い対局の話は語られていないのかもしれませんが、ちょっと心惹かれましたのでお知らせいたしました。

    さきほど、「知覧からの手紙」という本を読み終えました。知覧から飛び立っていった特攻隊員にまつわるお話です。
    この本で久方ぶりに大号泣し、ぺんぺんさまのお話に感動し胸が震え、人間の生きざまについて深く考えさせられた1日でございました。

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