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北条氏の興亡

2008年10月31日 13:23

戦国時代の始まりと終わり

北条早雲をもって戦国時代の始まりとし、自分より上位で権勢を誇る者を権謀術数をもって次々と滅ぼす下克上の典型のように称せられる。また大器晩成の典型でもある。
しかし実際は室町幕府の政所執事を勤めた備中の伊勢氏の一族で将軍の申次衆である伊勢新久郎盛時なる人物で、名門の出とされる。
司馬遼太郎の「箱根の坂」による早雲の一生では。早雲の妹は駿河の守護大名今川義忠に嫁いで、北川殿と呼ばれていたが、当主の義忠が一揆によって戦死してしまう。この時義忠の息子には竜王丸(後の氏親)がいたが、まだ6歳。跡目争いが起こり、家臣の中には義忠の従兄弟である小鹿範満(おしかのりみつ)を当主に推す一派が現れ、今川家中は二つに割れた。早雲は堀越公方の命を受けた上杉政憲や扇谷上杉家の家宰太田道灌に談判し「竜王丸が元服するまでは小鹿範満に家督を代行させる」という折衷案を持って争いを収めた。その後、早雲は一旦、京に上って幕府に仕えていたが、竜王丸が17歳になっても、小鹿範満は約束を違え今川家当主に居座っていた。北川殿は約束が反故になるのを恐れて、早雲を京から呼び戻した。早雲は密かに駿府に戻り、兵を集め、小鹿範満を駿府今川館に急襲し、殺戮。竜王丸は当主に座わり、元服して今川氏親を名乗る。早雲は駿河国駿東郡の興国寺城を与えられて、氏親の後見人として駿河に残った。この時早雲は56歳であるとされる。これ以後、さまざま権謀術数、敵を欺き、奇襲し、這い上がり、関東の地に覇を唱えるまでになる。
 
まずは伊豆への進出である。堀越公方足利政知が死んだ。子には先妻との間に生まれた長男茶々丸と、後妻円満院との間に生まれた次男潤童子と三男清晃がいた。円満院は潤童子に跡目を継がそうと茶々丸を土牢に押し込めてしまうが、茶々丸は土牢を抜け出し、継母円満院と潤童子を殺し、堀越公方二代目の座についた。清晃は堀越御所から京都へと逃げた。だが、継母殺し、弟殺しの茶々丸の人望はなく、家臣とも対立していた。
 早雲はその混乱を利用し、氏親から兵を借り、警護が手薄な時期をみて堀越御所を急襲した。その時、堀越御所を守る山内上杉家の兵は扇谷上杉家との戦いで出払っていた。茶々丸は逃亡し、早雲は御所近くに韮山城を構え、伊豆支配の拠点とした。
 次に早雲の目は相模国に向かった。西相模の要衝である小田原城には大森氏頼がいたが、早雲も氏頼在命中には小田原攻略はできなかった。その氏頼が亡くなり、息子藤頼が後を継いだところで早雲は行動を起こした。手紙や珍品のやりとりなどで藤頼が気を許したところで、「伊豆で鹿狩りをしていたら鹿が小田原城の裏山に逃げてしまった。鹿を追い返すために勢子を入れさせて欲しい」、という手紙を藤頼の元に届けた。藤頼はこれを許し、早雲は勢子を入れたが、これは勢子に扮した早雲の兵で、裏山から一気に小田原城を攻め落とした。早雲64歳のことである。その後、新井城に寄る三浦義同・義意父子を討ち、相模全土を平定した。既に早雲は85歳になっていた。
早雲が氏綱に家督を譲ったのは早雲87歳、氏綱32歳。この翌年早雲は韮山城で没した。早雲の後を継いだ氏綱は北条氏を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、五代に渡って関東に覇を唱えることになる。

しかし織田信長が武田勝頼を滅亡させ、甲斐は河尻秀隆に、信濃の1部と上野の西部は滝川一益に与えられ、一益は関東管領をも自称した。しかし信長が本能寺の変で横死し、甲斐の河尻秀隆が土豪一揆で殺害されて無主の国となると、氏直は5万を称する大軍をもって滝川勢を駆逐し、さらに信濃・甲斐侵攻を開始した。北条軍は金窪城で滝川軍と激突し、初戦でこそ敗退したが、一益軍に勝利した。佐久・小県郡を支配下におさめ、更に諏訪へ進軍する。しかし徳川家康も武田家亡き後の甲斐に触手を動かし、侵攻してきた。「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領国」ということで領有を強く望む氏直と、徳川軍との対陣は80日間に及んだ。結局、上野は北条、甲斐信濃は徳川が領有し、家康の娘、督姫が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦が成立する。家康と同盟を結んだ後、氏直は下野・常陸方面に侵攻して勢力拡大を目指し、佐竹義重や結城晴朝、太田資正らを圧迫した。しかし中央で信長の死後、その重臣だった豊臣秀吉が台頭し、関東惣無事令が発令されて私戦が禁止される。しかし、父の氏政には北条は関東に覇をとなえる名門大名との自負が強く、秀吉などは成り上がりのとるに足らぬ存在だと、時代の流れをクールに見る目に欠けていた。
氏直は続いて、沼田、上田方面への進出を画策し、上田昌幸と衝突を繰り返す。上田昌幸は戦略上、徳川、北条に対抗するため、越後の上杉景勝に同盟して、その背後にいる秀吉に近づき、上杉、秀吉連合に加わり、徳川、北条連合と対立する。北条は秀吉の調停により沼田城を奪取した。しかし、それにも満足せず、強硬派の父、氏政にそそのかされ、秀吉の許可なく真田昌幸の支城・名胡桃城を奇襲した。これが秀吉の逆鱗にふれる。それでも秀吉は氏直に大阪に挨拶にくる様にと下手に出るが、関東を仕切るのは北条だとの自負といざとなったら徳川が味方につくだろうとの読みから、首を縦に振らなかった。1590年、秀吉はついに討伐令を全国の諸大名に通知し、大規模な小田原攻めが始まった。氏直はこれに対して小田原城で籠城したが、秀吉の大軍による小田原城の完全包囲、水軍による封鎖、支城の陥落などに加え、重臣の松田憲秀が秀吉に内応しようとしたことなどから、遂に秀吉方の武将・滝川雄利の陣所へ赴いて降伏する。
氏直は徳川家康の娘婿であったこともあり、助命されて紀伊高野山へ追放され、高室院にて謹慎生活を送った。これをもって戦国時代の終わりとなる。
北条氏は戦国時代の幕開けとなり、戦国時代の終焉とともに滅んでしまった。

いつの世でも自己のプライドや偏見によってまともに情勢判断や時代の流れを見定めようとせず、国や会社を滅ぼした人物は多い。最後まで秀吉にたてついていた、伊達政宗は小田原攻めに際し、時代の大きな流れを読み、若干20歳の若者ながら、自己のプライドを押さえ、それまでの非礼の許しを請うため、白装束で成り上がり者の秀吉の前にひれ伏したという。その際、秀吉はもう少し遅かったならここがとんでいただろうと首を鞘で叩いたとされる。
プライドを棄てて生き残るか、こだわり滅ぶかの分かれ目で、島津や伊達家は残り、北条は滅んだ。家康は信長、秀吉時代、全てをすてて耐え忍び、徳川家を保ち最後には天下をとる。

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コメント

  1. くりくり | URL | -

    北条早雲と毛利元就

    北条早雲をもって戦国時代の始まりとし、自分より上位で権勢を誇る者を権謀術数をもって次々と滅ぼす下克上の典型のように称せられる。また大器晩成の典型でもある。

    と、ぺんぺん様が冒頭で語られるように、全くもって下剋上をそのまま体現した人で、戦国大名第一号ともいうべき英雄でありますね。
    確かに、伊勢氏の出自ではあるようですが、実際のところは本名すら今ひとつはっきりしない人のよう。彼の幸運は、妹が駿河の守護大名、今川家の側室になっていたことなんでしょうが、それだけでは終わらせない。今川家のお家騒動というまたしても千載一遇のチャンスを見事に利用し、おそらくあらゆる権謀術数を使って、竜王丸を後嗣と決めた。かくして、一城の主となった。ここからが始まり。この時、なんと56歳くらい?人生50年といわれていた時代に、56歳で戦国デビューなんて、これはもう驚かずにはいられないですよね。そして、伊豆を奪い、小田原を奪い、ついには三浦半島から相模全域を奪ったのが85歳の時。その三年後、88歳で亡くなったようですが、己が人生を100%使い切って見事に死んでいったというあっぱれさがなんとも好きです。
    しかも、権謀術数を使いながらも、斎藤道三や徳川家康のように蝮や、狸と恐れられたり、揶揄されたりもしていない。きっと、彼の人柄の良さと徳、国主としての政治の巧みさに起因していると、私などは勝手に想像しているのであります。

    ところで、ぺんぺん様、私は、戦国大名の中でも戦術と権謀術数のチャンピオン、下剋上の帝王は毛利元就であると思うのですがいかがでしょうか。(木下藤吉郎は別として。)
    彼は、安芸の国の山奥のそれも地方豪族の、しかも次男の生まれに過ぎなかったのです。それが、です、安芸一国を掌握し、備後、周防、長門から、九州の一部まで、およそ13か国を一代で手中に収めてしったのですよ!これはもう、ものすごいスケールです。戦上手もさることながら、そこには当然、数多の謀略が張り巡らされていた、、、はずですよね。いずれまた、この戦国準チャンピオン?、毛利元就に対するご意見、ご見識など、うかがわせていただけたら、、、と思います。どうぞよろしくお願いします。

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