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毛利家の戦い

2008年11月13日 18:31

謀将毛利元就とその子孫たち

北条早雲が術数権謀の人であったと書いたとき、くりくりさんから毛利元就はもっと術数権謀の人で、希代の謀将だとの指摘を受けました。そこで知略と謀略の限りを尽くし、のし上がって中国全土を支配した毛利元就のお話とその後の関ヶ原での顛末。関ヶ原の戦いでは、毛利本家の輝元が西軍の総大将を務めながら、その支藩の吉川、小早川の裏切りで、東軍の勝利となる。これが良かったのか悪かったのか?結果として毛利は防長2カ国という狭い領土に押し込まれ,その不満が明治維新の爆発力になった事は疑いがない。

毛利元就は安芸国吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男として生まれる。 幼名は松寿丸。弘元の嫡男、興元が急死し、家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。毛利弘元、興元と二代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。そこをついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は有田城救援のため出陣。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや、一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この「有田中井手の戦い」は「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、安芸国西条の鏡山城攻略戦でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。
家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには1525年に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる。1540年には経久の後継者である尼子晴久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められ、元就はわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、その武名を天下に知らしめた。
1551年、大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害された大寧寺の変がおこる。元就は当初、隆房と誼を通じて佐東銀山城や桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握した。しかし尼子氏が内紛の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が『謀反を企てている』というデマを流し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。そして陶晴賢に対して反旗を翻す。晴賢は激怒し重臣の宮川房長に3,000の兵を預け、元就を攻めさした。が反対に、元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。そこで陶晴賢自ら厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかしこれは元就の策略であり、大軍ゆえに身動きの取れない陶軍に奇襲を仕掛け、一気に殲滅してしまったのである。陶晴賢は自刃した。これが後世に名高い日本三大奇襲作戦の一つ厳島の戦いである。それから2年後晴賢に傀儡として擁されていた大内氏の当主・大内義長を討って、大内氏を滅亡に追い込む。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。

ついで、1562年、尼子一族の支配していた出雲侵攻を開始する。これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城・月山富田城(島根県安来市)に籠城し尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし1563年に、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込んだ。無理な城攻めはせず、内部崩壊を誘うべくまたまた策略を張り巡らした。元就の謀略に義久は引っ掛かり、疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害してしまう。これにより尼子軍は内部分裂を起こし、義久は降伏を余儀なくされた。 こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がる。謀略の限りをつくし、敵同士を疑心案儀に追い込み、内部崩壊に追い込む。まさに天下の謀将の名をほしいままにした人物。
出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、尼子勝久を擁した山中幸盛率いる尼子残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入し、毛利氏に抵抗した。毛利―尼子の確執に関して、山中鹿之介などの尼子十勇士についての思い入れが強いので、そのうちに特集したい。

吉川広家と小早川秀秋

両者とも関ヶ原の戦いに際し、西軍を裏切り東軍へ寝返った武将として有名であるが、奇しくも両家とも毛利の末裔であり、裏切りの結果毛利家が生き残れたのか、またうまく家康に乗せられたのか、いずれにせよ防長2カ国へと大減封となる。
元就には隆元、元春、隆景ら9人の男子がいた。隆元は本家を継ぎ、元春は吉川家、隆景は小早川家に養子に入り、毛利の両川として本家を支えた。ただし、隆元は早死にしてしまったため、毛利本家はその子輝元が19歳で相続することとなる。輝元はあまり自己主張をしない、人が良いのが取り柄の人物に育つ。いわゆるいいとこのぼんぼんに育った訳で戦国の荒波をくぐり抜けられるはずもなかった。

輝元は関ヶ原の戦いに臨んで大坂城西ノ丸に入る。毛利家が西軍に参加する条件は、西軍勝利の暁には輝元が筆頭大老になるという名誉。輝元は幼少の秀頼を助け逆賊家康を打つと言う、正義の味方としての自分の役割に酔いしれていたよう。秀頼に拝謁した折には畳の上に涙を落とし、「120万石の涙」と言われた。
しかしながら、実戦経験豊富な吉川広家から見れば、西軍は大軍とはいえ烏合の衆に過ぎず、戦上手の家康と戦っても勝ち目はなく、輝元の行動は毛利家滅亡につながると考えていた。広家は大坂城に輝元が入城した後も、東軍への参加を主張するが、結果として輝元の決断を変えることは出来なかった、しかし毛利家の軍勢を率いて実際の采配を振るうのは広家である。このため、広家は東軍の黒田長政を通じて、家康に毛利家不戦を申し入れ、その見返りとして所領安堵を願い出る。その後三成の求めに応じて、関ヶ原方面に転進。関ヶ原からは6kmほど離れた南宮山に陣を構える。毛利秀元が山頂付近、広家がその前を遮るように布陣。秀元は戦うつもりはあったようだが、前面の広家が邪魔で戦に加わることができない。しかも、麓に布陣した安国寺恵瓊、長曽我部盛親、長束正家の軍を見下ろす形になる。実際の関ヶ原合戦は、広家の想像通りに進む。広家、秀元だけでなく、麓の安国寺恵瓊、長曽我部盛親、長束正家も戦闘に参加できず、西軍は一挙に3万の兵を失った形となった。長宗我部盛親もこのため戦闘には参加できず、関ヶ原での抑圧を取り戻すかのように、その後勝ち目のない戦を大阪冬の陣,夏の陣ですることとなる。恵瓊は山頂の秀元、広家に何度も戦闘参加を促すが、広家は「未だ機が熟さず」と答えるのみ。秀元は広家から軽挙するなと釘をさされており、また広家が動かない限り動けない。このため、「今弁当をつかっている」と何度も答え、戦後「宰相殿の空弁当」と言われた。
それでも西軍は健闘するが、ついに小早川秀秋の寝返りによって西軍は壊滅に追い込まれた。直接の血の繋がりはないとは言え、小早川秀秋は小早川隆景の養子だから、まさに毛利家の動きによって関ヶ原合戦の勝敗が決定した訳です。家康は輝元の出陣準備を理由に、毛利本家の取り潰し、広家には防長2カ国29万石を与えるとの沙汰を出す。しかし広家が東軍についたのはあくまで毛利家安泰のためだった。広家は防長2カ国29万石を輝元に与えることを願い出、許される。広家は岩国3万石を領することとなるが、本家の恨みを買ってしまう。岩国藩は独立した藩とは認められず、支藩扱い。岩国藩が独立した藩とされるのは、何と明治になってから。

総大将の輝元は自ら出陣することもなく大阪城で人ごとのように事態を見守るだけであった。この際、輝元自らが出陣する。豊臣秀頼がもう少し西軍への支持を表明していれば全く違った歴史が産まれたであろうが、歴史には「もし」という言葉はない。

結局、関ヶ原合戦は毛利家内部の意見不一致のため、120万石から29万石への大減封という毛利家にとって最悪の結果となり、これが毛利家家臣の不満の種としてくすぶり続け、明治維新に際して爆発することになる。
歴史という川はある時は滔々と流れ、ある時は消え入るような小ささで流れ、繋がっていくようです。

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コメント

  1. くりくり | URL | -

    恐るべし、毛利元就さま。

    さて、ぺんぺん様、このたびは毛利元就をおとりあげいただきありがとうございます。
    北条早雲が先駆者で、謀略でもって戦国を開拓していった人なら、その道を極め、謀略王として、その確固たる地位を戦国の世に築き上げたのが元就だと私は思っております。

    さて、その謀略王たる所以ですが、勝手な憶測も交えております。まあ聞いてください。

    兄が早死にし、その嫡子の外祖父で最大の後ろ盾であり、当然、全実権を掌握していた高橋興光が死に、さらに、肝心の嫡子までもが病死。異母弟が謀反の疑いで粛清され、結局、本家を相続したのが、次男であった元就。すばらしい強運!本当に幸運だけでここまでこれたのか?と、性格が曲がっている私などは思ってしまうわけです。実際、嫡子の外祖父、高橋興光の死の理由は、史料によって異なっているらしく、今ひとつ決めてがないようで、、、。

    尼子経久の命令で鏡山城攻略を命じられた時も、城主とその叔父が不和であることに目をつけ「城主を裏切ったらこの城をくれてやる」などと誘惑し、結局、城主は自刃、寝返った叔父まで、裏切り者として処断され、後に残るは元就の手柄だけ。これは史実のよう。

    それから、尼子家の右筆だった男、名前は忘れましたが、咎めを受け、主家を出奔してきたという男を家臣の反対を押し切ってあたたかく迎え入れ、自分の右筆として採用。時期は、ちょうど尼子が「毛利征伐」を開始しようとする絶体絶命の時。まあ、怪しいといえば確かに怪しすぎるこの男を、元就はわざと重用し、軍議にまで立ち会わせ、尼子軍攻略の秘策を何度も何度も繰り返して聞かせる。この男が尼子の間者であることを見破っていて、わざと偽情報を流したわけですね。いよいよ尼子の来襲直前、この男が突然姿を消したのをみて、元就は高笑い(したのかどうか、、。)!結局、戦の前哨戦であるところの情報を巧みに操作し、尼子の大軍を見事に撃破。

    あと、「吉川」「小早川」家の存在。この両家も、最初から毛利の分家というわけでなく、もとは血縁関係のない家だったそう。両家ともその位置から、尼子側につけば尼子側の最前線、毛利につけば毛利の最前線になりえる土地柄。その両家の家臣達が、現当主に不満を抱き、小早川家からは、元就の三男を、吉川家からは元就の次男を新しい当主として養子に迎えたいという話がもちあがる。これまた何というおめでたい話か。小早川家は、当主が突然病を発し盲目になり、盲目の党首では先行きが不安ということで家臣の意見が一致。毛利家から当主をいただくことになった。盲目であることが党首として不適格であるとしても、一族の者から新しい当主を出せばよいではないか、という、もっともな?意見でもって毛利との縁組を反対した人たちは、全て粛清されたらしい。一方の、吉川家でも、家臣の合議で当主は隠居、あとで切腹させられ、その処置に反対した家老は城明け渡しの日、父は本丸で、息子は二の丸で抗議の切腹をして果てたという。両家の家臣たちに、元就がうまい話をもちこんで懐柔した、、?というような史実は残っていないけれど、なんだかあまりに都合良い話。うまく乗っ取った、、、と考えるのは飛躍しすぎでしょうか。

    で、まわりをしっかり固めたあと、いよいよ尼子倒しへ。
    ここでは、憶測ではなく、確実に謀略を巡らしてますよね。手口としては、またもや相手の家にお家騒動を起こさせる。名づけて、有力一族切り崩し大作戦。切り殺された死体の懐から、元就から新宮党宛の密書がみつかる、、、、、。愚かにもその内容を信じ込んだ尼子家の当主晴久は、有無をいわさず新宮党一族を討ち取った。内部崩壊を起こさせ、相手が弱体化したところを打ち破る作戦か。なんとも恐ろしいお方。

    そして最後に、もう一つの大きなライバル大内家に、不思議なことに、またまた謀反騒動勃発。主人を討ち取った陶隆房を討つという大義名分で兵を動かし、見事に仇を討った元就は、その名誉とともに、大内の旧領をすべて手に入れてしまうのだけれど、陶の謀反には元就が関与していたともとれる文書が吉川家に残っているらしい。もちろん、決めてには欠けるようですが。

    これらの事柄の、一体どこからが元就の幸運で、どこまでが陰謀なのか?
    一郡の主から、中国地方十三カ国の大大名となった方ゆえに、全てはミステリー小説のような計略があったればこそ、と私などは考えてしまいます。

    何よりすごいと思うのは、元就が毛利家の家督を継いだ時、「尼子を見限り、大内に付く」という決断をしたことです。尼子経久の時代、16世紀前半の地図を見れば、その勢力範囲は、島根、鳥取から広島と岡山のすべてがすっぽりはいるくらい。そのライバルであった大内氏でも、山口県の一部と北九州の一部ぐらい?この2つの勢力にはさまれ、かつ、尼子氏とは、ほぼ国境を接していたら、私なら自分の生き残りを賭けてどちらに付くか?やはり尼子でしょう、ここは。当時は飛ぶ鳥撃つ勢いであったのですから。寄らば大樹の陰、ともいいますし。けれど、元就は大内を選んだ。何故なのでしょう? ここが凡人と天才の違いというべきですかね。強大な尼子について尼子のために戦えば、尼子はますます強大化し、やがては大内を滅ぼす。そうなると、超々強大化した尼子を滅ぼすのは至難の業。それならば大内側について、大内の援助でもって、まずは尼子の領土をきりとり、自分が大きくなり、やがては尼子を、そして最後に大内を、、という計算が働いたのでしょうか。敵の敵は味方、というやつですね。中ぐらいの敵をとりあえず味方にしておいて、共に闘って大きな敵を倒し、最後に、もうひとつの中ぐらいの敵を倒す。三国志にも出てくる戦法ですか?
    口で言うのは容易ですが、自分の能力、力量に絶大な自信がないとできない決断ですよね。やはり、私のような真っ正直?で小心者には、とてもとても、戦国の世を生き残れるものではございません。

    これほどの元就なら、あの関ヶ原の戦いを、いかに戦いぬいていたのでしょうか。
    広家のおかげでなんとかつながったというわけで、心中察するに余りあるという感じです。
    でも、ぺんぺん様がおっしゃる如く、それがゆえの幕末維新です。
    すべて、これ、塞翁が馬というところですかね。



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