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家康と三成の関ヶ原前哨戦

2016年09月02日 15:59

関ヶ原の戦いに至る攻防

 NHKの真田丸では秀吉が老醜を曝し、「秀頼を秀頼を宜しく」と、なりふり構わず頼み込み、亡くなると、満を持して家康が動き始めた。
真田一家は石田方につくか徳川方につくかの大きな選択に迫られ、父昌幸の命により、真田一族全てが徳川につくことを一旦決めた(ここまでが先週の真田丸での放映)が、関ヶ原直前に考えを変えた。真田一族の関ヶ原及びその後の展開はまたにして、今回は関ヶ原の戦いに至る石田三成と徳川家康の間に戦わせられた前哨戦に絞った。

1 家康の陽動作戦
  秀吉の死後は有力な大名により構成された5大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家と上杉景勝)と実際に政務を取り仕切る5奉行(石田三成、増田長盛、浅野長政、前田玄以と長束正家)で合議を行い事を決めるという約束がなされていたが、秀吉の死後早速家康が約束を破り手前勝手な行動を取り始めた。三成は家康の行動を非難し、豊臣家の内部では三成を中心とする官僚派とそれに反対する武断派とに対立した。しかし大きな問題に発展しなかったのは大老の前田利家が仲裁役として振舞っていたからと言われる。
 しかし1959年3月に前田利家が死んでしまうと、それまで積もった両陣営の不満が一挙に吹き出してしまう。武闘派による三成暗殺事件が起こり、三成が失脚して、家康が大阪城に入り政務を行うようになると、5奉行の反発はさらに加速する。
 家康はさらに家康の暗殺を仕組んだとして前田利長と5奉行の一人浅田長政を弾劾し、前田家を軍事力をチラつかせて屈服させ、浅田長政を失脚させ、目の上のこぶを一つずつ取り去っていく。家康は決して事を急がず、三成派の主要な人物を一人一人潰していって、自分に有意な状況になるよう持っていくというしたたかさを見せる。
 
2 関東の上杉を攻め、三成を誘い出す。
 1600年にはいると、家康は各大名に年賀の挨拶に大阪に来るようにと命じるが、上杉景勝だけがこれを拒否しする。すると上杉家が無断で軍備を増強しているとの噂を流がし、家康はこれに対して、釈明を求めるが、上杉の重臣、直江兼続からは反対に家康の横暴なる振る舞いを咎めた弾劾状が送られてくる(いわゆる直江状)。家康はそれに乗じて謀反の疑い明白であるとして上杉征伐のための軍を編成、大阪を離れる(1600年6月)。家康の戦略のうまいとこはこの戦いはあくまで上杉が豊臣家に対して反逆したための成敗だとし、秀頼より金20000両と兵糧20000石を下賜してもらい、秀頼の名で討伐に向かうように見せかけたことである。

3 三成は徳川の隙間をついたとぬか喜び
 一方、三成は7月12日に佐和山城で大谷吉継、増田長盛、安国寺恵瓊らを集め秘密会議を行い、毛利輝元を西軍総大将として家康を打倒する計画を立てる。同日、愛知川に関所を儲け、諸大名の東軍への参加を食い止め、さらに 大阪城 にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えた。そのため長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝らは足止めをくらい、西軍への参加を余儀なくされた。その動きは増田長盛・長束正家・前田玄以よりなる三奉行には知らされてなく、三奉行は徳川家康と毛利輝元に急使を送り、至急大坂に戻り石田・大谷の動きを鎮定するよう要請している。挙兵を企てた一味の増田長盛までがこの要請人に入っていることはどちらにも良い顔をしたがる人間が三成側に多かったことも大問題。
 7月17日に安国寺の建議を採用した毛利輝元は大坂城に入城して、家康が割拠していた西の丸を、家康妻妾を落ち延びさせることと引き換えに留守居役佐野綱正から無血接収し、西軍の総大将に就任した。
ここに至って三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発した。主に中国・四国・九州の諸大名が追従しおよそ10万の兵力を集めた。
 会津征伐のため江戸城にいた家康は、増田長盛より家康打倒の謀議が行われているとの書状を受け取った。この当時、増田長盛は三成の挙兵宣言に名を連ねているにもかかわらず、家康に通報しその態度をはっきりさせてなかった。予定通り、7月21日下野小山へ到着。 そこで三成が伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者により知らされた。家康は自分が大阪を離れればその隙に三成が挙兵するであろうことは予想していた。まさに家康の思う壺。

4 家康はお調子、武編者福島正則をおだて上げ利用
 7月25日に家康は会津征伐へ参加した大名を招集し、軍議を開いた。いわゆる「小山評定」である。家康にとっての最大の問題は豊臣恩顧の大名達がどのような態度を取るかであった。家康は黒田長政を介して福島正則に秀頼には害が及ばないことや、三成は秀頼のためにならないことを説明し、東軍へつく態度を鮮明にするように説得した。ここでもまず多くの大名を説得するにあたり、一番の豊臣恩顧の大名の福島正則に的を絞り、正則を介して諸大名を説得させるという戦略をとった。
 この時点では3奉行による「内府ちがひの条々」の挙兵宣言はまだ小山に届いておらず、毛利輝元が大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかった。さきに届いた淀殿や3奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていた。問題は当初3奉行や淀殿は三成挙兵を家康に取り締まってくれと頼んでいることである。家康はこれで三成を打つ大義名分を得たことになる。

 家康は人質に妻子が取られていることから、進退は各自の自由であると伝えさせたが、軍議の冒頭、福島正則が妻子が人質に取られていようが、断固家康に味方することを表明、黒田、徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全員が家康に与するとの証文を得た。まさに家康の作戦勝ち。

5 真田昌幸はそれでも西軍に与する
 ただ真田昌幸と美濃岩村城主の田丸直昌の2名はそれを良しとせず小山を去り西軍に味方した。真田一族も家康の上杉征伐に従っていたが、三成からの密書が来ると、父昌幸と信繁は軍を離れ上田城へと戻った。

6 関東や東北での後顧の憂なくして出陣
 大切なことは、戦場となる関ヶ原へのルートである東海道筋の諸大名をことごとく味方に引き入れ、諸城と兵糧を確保し、東軍の展開が容易になったことである。
家康は先陣として秀忠に3万7000という徳川家の主力部隊を授け、宇都宮城から中山道を通り、美濃方向へ出陣させた。しかしたった2000人の兵が守る真田昌幸指揮する上田城をいつまでたっても落とすことができない。上田城攻略に手間取っている間に、関ヶ原の戦いが始まり、結局家康は主力軍無くして戦いを進めることになったという話は有名である。これについては真田丸の項で別に記す。
その頃関東・東北地方で 西軍(石田三成側)と言えたのは、上杉家 と佐竹家 という大名であった。一方、東軍(徳川家康側)に協力した大名は、 最上家 と 伊達家 だった。上杉家 は 進軍してくるはずだった 徳川軍 を待ち構えていたが、徳川軍は 「小山評定」 の後に引き返してしてしまい、徳川よりの伊達家 が 上杉家 への攻撃を開始したので、上杉景勝は、徳川軍を攻撃せずに伊達に対抗するため、軍勢を最上領へと向けた。もう一方の三成側の佐竹家は、当主である佐竹義宣が主張した西軍への参加に、父・佐竹義重や弟、重臣一同らが猛反対し、義宣は意見を押し切ることができず、ついに少数の兵を徳川秀忠軍に派遣するなどの曖昧な態度に終わり、がら空きの関東の家康領に上杉も佐竹も攻め込むことはなかった。結局、佐竹義宣、上杉景勝という関東、東北の2大大名が大坂へ向かう徳川軍を攻撃しなかったことも、三成にとって大誤算だった。

7 家康による毛利家の切りくずしと西軍の切り崩し
 小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後も、家康は動向が不明な背後の佐竹義宣に対する危険から江戸に留まり、藤堂高虎や黒田長政らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍の調略による切り崩しを図った。黒田は吉川広家に毛利家所領の安堵を、小早川秀秋に、高台院への忠節を説いて内応を約束させた。西軍総大将を務める毛利輝元のお膝元の吉川広家や小早川秀秋が裏切るなど、毛利家の内部対立が結局関ヶ原の戦いでも決定的になる。また家康は書状200通あまりを東西の諸大名に送ったのに対し、三成ははるかにそれに及ばず、情報戦でも家康圧勝の感がある。
9月1日に岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉や浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと出立した。

8 三成、秀頼及び毛利輝元から出陣を断られる
  三成は大坂城に居る豊臣秀頼、あるいは総大将である輝元の出馬を要請していたが、いずれも淀殿に拒否され果たせなかった。輝元には出馬の意思があったといわれるが、このころ増田長盛内通の風聞があり、動けなかったともされている。
だいたい総大将になっている輝元が出陣しないお飾りでは意味がない。

9 いよいよ関ヶ原
 家康は秀忠の到着をぎりぎりまで待ったが、9月14日に美濃の赤坂の岡山(現在の岐阜県大垣市赤坂町字勝山にある安楽寺)に設営した本陣に入る。三成は家臣である島清興(左近)の進言により、赤坂付近を流れる杭瀬川に兵を繰り出して、東軍の中村一忠・有馬豊氏を誘い出し、宇喜多隊の明石全登と連携してこれを散々に打ち破った。
 14日夜、家康が赤坂を出て中山道を西へ向かう構えを見せた。これを察知した三成は東軍よりも早く大垣城を出陣、福原長堯に城の守りを託して、関ヶ原方面へ転進する。西軍の転進を知った家康も、即座に関ヶ原への進軍を命じ、松平康元や堀尾忠氏、津軽為信らに大垣城監視を命じて西へ向かった。この14日には、小早川秀秋がそれまで陣を敷いていた伊藤盛正を追い出す形で松尾山に陣を構えた。秀秋は伏見城の戦い以降病と称して戦場に出ず、東軍への内応を黒田長政経由で家康に打診していた。このため三成ら西軍首脳は不信の念を抱いていた。秀秋は文禄・慶長の役で三成の報告が元で筑前名島35万石から越前北ノ庄12万石に大減封されており、それを家康に回復してもらった経緯があり、家康には恩義を感じていたが、三成には嫌悪していた。
小早川秀秋は豊臣の血を引く豊臣方の中枢にいた人物である。その彼までが三成を嫌って家康についたことはいかに三成が人気なかったかがわかる。
9月15日早朝に関ヶ原の戦いの火蓋が東軍の福島正則と西軍の5大老宇喜多秀家の間で切って落とされる。最初は激戦であったが、毛利家の吉川広家の寝返りで毛利軍はまったく戦う意欲なし。結局、毛利家 は 西軍・総大将 という事になっていたが、実際には総大将らしいことは何もやってない。四国の雄、長宗我部家も動かない始末。さらに決定的なのは石田三成の側面の松尾山に布陣した小早川秀秋の寝返りを機に一気に東軍に有利な展開になった。結局終ってみれば、たった6時間の戦闘。大がかりな戦の割に短時間で決着がついた。真田昌幸は決着はそう短期間ではつかないだろうと予測し、自分もその戦闘に参加できるであろうと思っていた目論見もあっさりと消えてしまった。

10 家康の戦略に若輩三成完敗
 表面的な戦力は5分5分にように見えるが、裏を返せば関ヶ原の戦い前に家康が三成を圧倒していたことがわかる。三成敗因の大きな原因はなんといっても人情味のない、人を見下すような三成の態度の不人気さと、豊臣恩顧の大名、中でも福島正則や小早川秀秋までが、家康が秀頼を裏切ることはないであろう、三成の方が秀頼の将来にとって良くないという家康の宣伝に乗せられてしまったのが一番大きい。
三成は自分の器の小ささに気づき、毛利のようにお飾りではなく実際に動ける有能なる大名、たとえば大老の宇喜多秀家などを大将にして(実際に、関ヶ原の戦いでは宇喜多軍は健闘した)出陣し、自分は補佐役に回ってたら状況は変わっていたかもしれない。

 現代にも三成や家康と同じような性格の人物は多い。三成的人間は秀才で頭は切れるが、官僚的で、人情味がなく杓子定規にしか行動できない。上には従順だが下には厳しい。他方、家康のようなたぬきおやじは、義理人情には厚いが緻密さに欠け、丼勘定。従順な人間には愛想がいいが、一旦歯向かうと後が怖い。政治的な裏工作が大好き。あなたの上司はどちらのタイプの人間でしょうか?

参考 関ヶ原の戦い Wikipedia

豊臣秀次の粛清を考える

2016年07月22日 15:35

 人は皆、トップに立つと金正恩化する。

 NHKの真田丸では秀頼が生まれ、秀頼に後を継がせたい秀吉により、秀次が粛清され、豊臣家の凋落が起こり始めたことを匂わして今週が終わった。

  豊臣家の命運を考えてみると、朝鮮戦争失敗で陰りが見え始めたが、淀君との間に実子の秀頼が生まれ運気が上昇するかに見えたが,逆に急激に落ちていった。大きな原因の一つはあれほど人がよく、人の話をよく聞いていた名君秀吉が暴君となってしまったこと。どこで変わってしまったのか?

 秀吉は唯一の子鶴松が没し、後継者がいなくなると、親族を取り立て、後継者にしようとした。その一人が秀吉の正室、高台院(ねね)の兄の息子、小早川秀秋で豊臣家の養子として、秀次に次ぐ後継者として育てられた。 もう一人は秀吉の姉、瑞竜院日秀(とも)の長男豊臣秀次で豊臣家の後継者の本命としてすでに秀頼が生まれた時には関白まで上り詰めていた。しかし秀頼が生まれると秀吉は自分の後を継がせたいと思うようになり、秀次と秀秋が邪魔になってきた。
 秀秋は豊臣の姓を受けながら、中国地方の毛利の家臣、小早川隆景の養子に出された。また翌年には豊臣秀次に難が及び、粛清された。謀反の疑いをかけられ、関白の地位を剥奪され高野山に幽閉され、切腹させられてしまう。NHKのドラマでは自分で前途を絶望して切腹したように描かれていたが、事実はどうなのか、様々な憶測がなされている。
 秀次は素行が悪く、非道なことを度々したため処罰されたとの説もあるが、それにしては処罰が厳しすぎる。
 謀反の疑いがあり、そのために粛清されたとも言われるが、実際に謀反なら切腹ではなく、打ち首にされたであろう。やはりNHKの解釈のように秀次が前途を悲観して、自殺したというのが妥当かもしれない。しかし謀反でないとしたら秀次一門への処罰が厳しすぎるのはなぜか?
  関白を取り上げてどこか地方の大名にでもすればよかったのに、なぜ秀次切腹のみならず、三条川原に首を晒させ、一族郎等、幼い乳飲み子から側室まで関係あるものすべてを処刑し、根絶やしにしたのはなぜであろうか? 山形城主最上義光の娘、駒姫(15歳)にいたっては側室になるため上京し最上邸にて休養中で、まだ側室にはなっていなかったが一緒に処刑された。家臣の22名が切腹、20名が流罪等、39名の正室、側室、お付きの女中、子供たちはすべて打ち首にされた。
 一方、助かった者もいた。真田信繁は秀次の娘、隆清院(たか)を助けるべく、側室にする。そして秀吉の許しを乞うたものの、気が変わらないうちにとたかを呂宋助左衛門に預け、一時期海外へたかを逃す。その後信繁との間に一男一女をもうけている。
  謀反をでっち上げ、悪徳さを際立たせるため、罪もない一族郎等を抹殺したのであろうか?当時の考えでは、関白の位の者を地方に出すとか、蟄居させるとかはできにくかった。すると謀反という大犯罪をでっち上げて抹殺するよりしかたなかったのか?
 それにしても狂気の沙汰でしかない。誰も止めることはできなかった。信長同様一旦言い出すと手がつけられなく、自分が偉くて絶対君主であることを誇示したかった?

 千利休や秀次粛清事件があり、秀吉の健康も衰えていくと、急速に豊臣政権へ忠誠を唱える人物が減ったこともうなずける。さらには豊臣政権の中枢にいた石田三成や大谷吉継の朝鮮戦争時の対応や秀次切腹への対応に対し、不満を抱くものが増えていき。表面上換言する事はないが、どんどん内に向けて不満が蓄積して行った。
秀次を次期後継者とするべく、政権の基盤を作り上げていた組織は崩壊し、豊臣政権の屋台骨をも揺らがす事態へと発展していくことになろうとは秀吉は気づかなかったのか?
これを機に急速に豊臣政権への求心力が衰えることになる。若い頃は人の話をよく聞き、戦術にも長け、頭脳明晰な君主であったが、全国を統一し、敵がいなくなり、逆らう者がいなくなった途端、心の奥に潜んでいた真の性格、暴君、横暴ぶりが出てきた。人の言うことを聞かず、耳障りのいいことばかりを言う人物ばかりを侍らし、的確に情勢が見れなくなった。これでは政権は長続きしない。
 今日でも、よく言われることはその人の本当の性格は頂点に立ってみないとわからないということ。何人もトップに立ち、反対や意見をする人がいなくなると金正恩化する。敵対するもののみならず、うるさいやつ、耳障りの悪いやつは粛清しろとなる。
しかしそれでは組織が潰れるのは昔も今も同じ。少々耳障りが悪くても、組織の為、仕事のためを思って言ってくれるうるさい同僚、部下には耳を貸そう。それが結局はいい成果につながる。

西郷隆盛に踊らされた赤報隊

2016年06月17日 16:26

長州、薩摩の尖兵として使い捨てにされた赤報隊

湖東三山とは西明寺、百済寺と金剛輪寺を指し、琵琶湖の東の鈴鹿山脈の麓にひっそりと佇んでいる。金剛輪寺は奈良時代の中頃聖武天皇の勅願で行基によって開山された天台宗のお寺。平安時代には比叡山より慈覚大師が来山、天台密教の道場として栄えた。しかし信長の比叡山焼き討ちに際し、被害を受けるが、本堂と3重の塔は消失を免れた。近世に入ってお寺は荒廃したが、今は紅葉の寺として秋の紅葉シーズンには大勢の観光客で賑わっている。

  この金剛輪寺が幕末の歴史上の一瞬に現れ、消えていった。
 そのことが原田伊織著「明治維新という過ちー日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」に載っている。この本は明治維新を全否定した本で、長州や薩摩はテロ集団と変わらないという論調で、今まで長州や薩摩が幕府を倒して新しい近代日本を作ったという明治維新史観とは全く異なる。長州や薩摩に徹底的に痛めつけられた会津地方でこの本はバカ売れ、大ベストセラーになっているのだそうだ。この本に関しては別の機会に紹介したい。

 赤報隊は幕末に王政復古を得て長州藩、薩摩藩によって結成された東山道鎮撫総督指揮下の一部隊である。島津藩の西郷隆盛や公家の岩倉具視が中心になって金剛輪寺で結成された。隊長は相楽総三で公家の綾小俊実、滋野井公寿らを盟主とし擁立し、近在の勤王の志士を募り、旗揚げした。赤報隊には別働隊(第2隊、第3隊)も存在した。相楽総三は薩摩藩邸の浪士隊の総裁として、西郷隆盛や大久保利通と連絡を取りつつ、下野、相模、江戸市内にて押し込み強盗などをし、旧幕府軍を挑発し江戸薩摩藩焼き討ち事件を起こさせて、上方に先立って江戸で戦闘を起こした。これが鳥羽伏見の戦いのきっかけにもなったと言われる。
 実際、相楽は旧幕府が新政府に反乱を起こすよう仕向ける挑発的行動を西郷隆盛より任され、関東、江戸で撹乱作戦を行った。強盗や傷害事件を関東、江戸で起こさせ、江戸を騒擾させ、まんまと西郷の策にのり、怒った幕府側は鳥羽伏見の戦いを起こして、歴史が大きく薩摩、長州の方に傾くきっかけとなった。
戊辰戦争で江戸へ攻め上っていく、東進に際し相楽は先鋒となって攻めた。この時、相模は旧幕府の所領は天皇の領地になるので年貢は半額になると先々で布告し、民衆の支持を集めたが、赤報隊の他の隊が規律を守らず押し込み強盗を行ったため、評判が悪く、京に呼び戻された。しかし他の隊は帰ったが、相楽は帰らず独断で、軍令に背いて進軍した。
相楽隊の軍令違反を新政府は苦々しく思っていたがが、新政府が最も恐れていたのは年貢を半減するという布告であった。新政府は年貢を半減するという布告を初期に出したが、情勢が官軍に圧倒的に有利とわかると、庶民の人気を集める必要もないということで、さっさと引っ込めてしまった。本当に信じられると厄介なことになる。最初は良かれと扇動してやっていたことが、逆に新政府の汚点になりつつあった。
そこで新政府は偽官軍の汚名を着せ、赤報隊を徹底的に取り締まることとした。
その結果、相楽は同志とともに天朝に背く逆賊として囚われ、なんの取り調べもなしに処刑され、首を街道にさらされた。罪状は官軍を装って強盗無頼を働いたというものであった。
  こうして赤報隊は都合のいいように使われ、用なしになると抹殺されてしまった。赤報隊は結成からわずか2ヶ月という短い歴史で幕を閉じた。
しかし太政官から官軍先鋒のお墨付きをもらっていたこともあり、昭和に入って赤報隊の名誉が回復された。
  組織の下っ端はいつも都合のいいように煽てられて、使われ、都合が悪くなると失敗の責任を押し付けられ断罪される。いつの世もこの法則は変わらない。赤報隊もその典型的な例であった。

そんな歴史のドラマの一コマとなった金剛輪寺の写真。
写真1:本堂;2:金剛輪寺由緒;五重の塔1;新緑に埋もれる5重の塔
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謀略と太平洋戦争

2016年06月06日 13:02

歴史的大事件には謀略はつきもの

第2次世界大戦のきっかけとなった、満州国進出や日中戦争いずれも謀略がきっかけとなっている、真珠湾攻撃もアメリカ国民を日本との戦争に引き込むため、時の大統領ルーズベルトが仕掛けた謀略との説もある。

1. 満州事変

満州事変は奉天(現瀋陽市)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)の満州鉄道の鉄道爆破事件(柳条湖事件)をきっかけに起こった。

1931年(昭和6年)9月18日、満州の奉天近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された 。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用した。

事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐である。二人はともに陸軍中央の研究団体である一夕会の会員であり、張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任した。
柳条湖事件を計画・立案したのは、板垣征四郎と石原莞爾の2人であった。上述のとおり、2人はともに一夕会の会員で、板垣は二葉会、石原は木曜会にも加わっていた。
1928年(昭和3年)1月19日の木曜会会合で、当時、陸軍大学校の教官であった石原莞爾が「我が国防方針」という題で話をし、ここで「日米が両横綱となり、航空機を以て勝敗を一挙に決するときが世界最後の戦争」という彼独自の戦争論を述べた。石原は、このなかで、日本からは「金を出さない」という方針の下に戦争しなければならないと述べ、「全中国を根拠として遺憾なく之を利用せば、20年でも30年でも」戦争を続けられるという構想を語って、中国全土を支配下に置かなければ、米国との戦争は成し得ないと演説した。
 そこで石原莞爾ら関東軍は謀略をもって柳条湖事件を起こし、満州進出のきっかけをつくった。そして満州を手中に収めた軍部は、北進政策を進めるべくロシアへと手を伸ばし始めるが、次の謀略事件、廬溝橋事件が発生する。

2. 廬溝橋事件

1937年7月7日、北京郊外の廬溝橋で日本の支那駐屯軍と中国軍とのあいだで戦闘が始まった(廬溝橋事件)。演習中の日本軍に対して中国軍が発砲したことがきっかけとされているが、日中双方の言い分は食い違い、真相ははっきりしていない。11日には、現地の日本軍と中国軍のあいだで、停戦協定が結ばれたにもかかわらず、近衛内閣は三個師団の派兵を決定し、これを機会に中国への武力侵略を本格化する姿勢を示した。7月末には華北で日本軍の総攻撃が開始され、北京、天津など主要都市を占領、8月には上海に2個師団が派遣されて華中でも戦闘が始まった。

秦郁彦、安井三吉によれば日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ているとしている。一方、坂本夏男は中国共産党は7月8日に全国へ対日抗戦の通電を発したことから、中国側が戦端を開くことを準備し、かつ仕掛けたものであり、偶発的な事件とは到底考えられないと主張している。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える者も存在する。

中国共産党の陰謀説が面白い。
元日本軍情報部員である平尾治の証言によると1939年頃、前後の文脈などから中国共産党が盧溝橋事件を起したと読みとれる電文を何度も傍受したため疑問を抱いた。そこで上司の情報部北京支部長秋富繁次郎大佐に聞くと以下の説明を受けた。
盧溝橋事件直後の深夜、天津の日本軍特種情報班の通信手が北京大学構内と思われる通信所から延安の中国共産軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。その内容は「成功した」と三回連続したものであり、反復送信していた。無線を傍受したときは、何が成功したのか、判断に苦しんだが、数日して、蘆溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功した、と報告したのだと分かった。
さらに戦後、平尾が青島で立場を隠したまま雑談した復員部の国府軍参謀も「延安への成功電報は、国府軍の機要室(情報部に相当)でも傍受した。盧溝橋事件は中共(中国共産党)の陰謀だ」と語っている。
 当時、国民党に対して劣勢だった共産党は、「起死回生」を図る為、日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、「漁夫の利」を得ようと考えた。結果的に狙いは的中し、日本はその後、8年間の長期にわたって、広大な中国大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になった。更に、その後、共産党は国共内戦で国民党に勝利し、遂に中国全土の支配権を獲得、「中華人民共和国」を建国(1949年)した。その意味においては、「盧溝橋事件」とは、日本軍が共産党軍にはめられた訳で、「日中戦争」とは、日本が中国共産党軍に「仕掛けられた」戦争だったそうだ(仕掛けられた日中戦争より)。

謀略はさらに続く。日本がアメリカと戦闘状態に突入したきっかけも曖昧。

3. ハワイパールハーバー奇襲

12月1日の御前会議で正式に対米戦争開戦が決まった際、昭和天皇は東条英機を呼んで「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げ、これを受けて東条英機は東郷茂徳に開戦通告をすべく指示し、外務省は開戦通告の準備に入った。
東郷から駐米大使野村吉三郎宛、パープル暗号により暗号化された電報「昭和16年12月6日東郷大臣発野村大使宛公電第九〇一号」は、現地時間12月6日午前中に大使館に届けられた。この中では、対米覚書が決定されたことと、機密扱いの注意、手交できるよう用意しておくことが書かれていた。
覚書は現地時間午後2時20分に来栖三郎特命全権大使と野村吉三郎大使より、国務省においてコーデル・ハル国務長官に手渡された。これは指定時間から1時間20分遅れで、マレー半島コタバル上陸の2時間50分後、真珠湾攻撃の1時間後だった。
「米国及び英国に対する宣戦布告の詔書」は日本時間11時45分に発された。
アメリカは当時すでにパープル暗号の解読に成功しており文書が手交される前に内容を知悉していた。ルーズベルトは12月6日の午後9時半過ぎに十三部の電文を読み、「これは戦争ということだね(This means war.)」とつぶやいたという。ハルの回想によると12月7日の午前中に全十四部の傍受電報を受け取ったとあり、「日本の回答は無礼きわまるものであった」「この通告は宣戦の布告はしていなかった。また外交関係を断絶するともいっていなかった。日本はこのような予備行為なしに攻撃してきたのである」とある。また通告が遅れたことについては「日本政府が午後一時に私に合うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私に手渡すつもりであったのだ。
 野村は、この指定時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかでき上がっていないにしても、あとはできしだい持ってくるように大使館員にまかせて、一時に会いに来るべきであった」としている。
須藤真志によると真珠湾攻撃及び日米開戦にまつわる陰謀論について、整理すれば次の3つになるという。
1. ルーズベルト政権が日本の真珠湾攻撃を予測していながら、それをハワイの司令官たちに伝えなかったこと。
2. ルーズベルトが個人的に日本の真珠湾攻撃を事前に知っており、太平洋艦隊を囮にしたこと。
3. ルーズベルトが日本からの開戦を仕向けるために挑発を行った。

こうした陰謀論が起こる背景として、秦郁彦はアメリカ側の真珠湾攻撃への屈辱、長期にわたったルーズベルト民主党政権に対する共和党系の反感、現地司令官の名誉回復を願う動きを挙げ、日本側では太平洋戦争について日本だけが悪者とされていることに不満を持つ人々が、聞こえの良い陰謀論を鵜呑みにする傾向があったと述べている。

このような陰謀がなかったにせよ、陰謀論が出てくることは、日本の暗号を解いていたアメリカがどうして真珠湾攻撃をハワイに知らせなかったのかという大きな疑問から生まれている。

 謀略は大きな歴史的事件には付き物で、日本、ドイツ、中国、アメリカ、ロシアと、事実とは異なるありとあらゆる陰謀が仕掛けられ、日本も陰謀に踊らされた。
戦争のような圧倒的に大きな事件になると、国は全力を傾けて、いかに騙して、自国に有利にするかを考えるのは当然で、謀略策略だらけである。いかにして謀略だと見抜き、反対に策を仕掛けるか、暗号解読、スパイ活動、といった情報戦が非常に重要となる。

終戦時においてもルーズベルト大統領は日本が降伏するとわかっていたのに原爆を広島と長崎に落とした。いろんな説があるが原爆の(ウラン型とプルトニウム型)の効果を確かめたかった。そのため広島と長崎では異なったタイプの原爆が投下された。というもの。また将来敵対することになるロシアをけん制するため原爆の威力を示したとも言われる。

日本降伏間際(8月9日)にロシアは中立条約を破って樺太、千島、満州へと進出し、ポツダム宣言受託後も攻め続け領土を広げた。日本は中立条約があるので安心して、関東軍も警戒していないところへ一気に攻めてきた。計画では北海道も占領する予定だったが、これは実行されなかった。条約なんて何の役にも立たず、一方的な破棄。ロシアはドイツとの戦闘に集中するため、日本は南方進出、アメリカ軍との戦いに集中するため、お互いの都合が一致し中立条約を結んで、利用しただけ。

4. 現在の情報戦

  今でも、なんでこんな情報が表に出るのかと思うような情報がネット上で、週刊誌に、新聞にすっぱ抜かれることがある。うそ、本当を交えた新たな情報を暴露することで、競争相手を陥れ、自分や会社が優位な立場に立つ。または自分に有利な情報を流すことで、いいムードを作り出し、人事上、優位に立つ、または競争相手の会社に対しての優位性をアピールし売り上げを伸ばす。

 研究においても競争相手がどこまで進んでいるか、競争に勝っているのか負けているのかは非常に気になる。一旦、論文が出てしまうと、今までの苦労が全て水の泡。一刻も早く競争相手より、論文を出すため、情報の収集は欠かせない。日本人は情報を秘密にしておくことに弱い。国際学会で、つい相手の質問に誘導され、どこまで進んでいるかを喋りがち。それに対し、欧米人は鉄壁な守りをおこない、口を漏らすことはない。
個人、会社を問わず、情報戦は日々行われ、いかに相手の情報を手にするかはどんな分野でも重要。

高杉晋作の子孫

2016年02月16日 13:22

 
 晋作は辞世の歌に「おもしろき事も無き世をおもしろく」と詠んだところで事切れ、その後を看病していた野村望東尼が下の句として「すみなすものは心なりけり」と詠んだことは、一晋作フアンとして当然知っている。
 高杉晋作(本名春風)は幕府の長州征伐による四境戦争(1966)において,周防大島おきでの幕府艦隊の殲滅や小倉城攻略で活躍したが、肺結核が重くなり野村望東尼に見守られて死去。享年29歳。という話も有名だが、高杉晋作に子供がいたことは余り知られていない。
実は高杉晋作には妻・雅子との間には東一(とういち)という実子が一人いた。
 幼名は谷梅之助。明治20年(1887)に高杉東一と改名。
 東一は父・晋作と死別後、祖父・小忠太、祖母・道と母・雅子の手で育てられる。外交官としてホノルルやウィーンなどに駐在勤務。大正2年(1913)7月11日、48歳で死去。

 更に東一と妻・茂との間には二男二女があり、長男・春太郎が跡を嗣ぎ、戦時中は陸軍主計少尉として、満州やシンガポールを転職、戦後は商社マンとして要職に就き、昭和32年(1957)、54歳で死去。その跡を嗣いだ晋作の曾孫である高杉勝氏(大成建設に勤務、2010年に77歳で死去)と続いている。高杉勝氏は一男(力)と一女(明子)をもうけ、現在につながっている。

晋作の父高杉春樹(通称小忠太)からたどると高杉春風(晋作)、高杉東一(幼名梅之介)、高杉春太郎、高杉勝、高杉力と連綿とつながっている。この名前で思うのは高杉家がなんと洒落た風流味のある一家だろうということ。春樹(父)、春風(晋作)、梅之介、春太郎と男なのに春に関係した名がずらりと続く。また晋作の本名が春風だとは知らなかったが、都々逸を好み型破りな彼の生き様にぴったりの名前。

最近、現高杉家の当主の高杉力氏の話題が新聞に載った。
それによると晋作の日記や愛用していた三味線などの遺品を、晋作所縁の地である山口県萩市と下関市に寄贈すると発表した。 遺品をめぐっては、晋作の墓がある寺「東行庵」(下関市)と高杉家などとの間で所有権の争いが続いていたが高杉家が勝訴したのを機に遺品を寄贈した。この日、萩市の萩博物館で記者会見した力さんは「遠回りをしたが、父の生前の願いがかなって、ほっとしている」と話した。
 萩市に寄贈されたのは、高杉家の家紋入りの産着など。江戸遊学に旅立つ晋作を吉田松陰が激励した手紙や、萩から江戸に約2カ月かけて軍艦で航海した際の日記「東帆録」が含まれている。
 一方、下関市には、愛用の三味線などが寄贈された。奇兵隊の軍旗や療養生活中の和歌などもあり、下関戦争から死に至るまでの激動の人生をたどれる。

 高杉家の血が脈ミャクと遠い過去から現在までつながれている。その長い歴史の一瞬、晋作は維新という時と長州という場所とを得て、疾風雷神の大活躍をした。
 


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