蘇った飛燕の勇姿
川崎重工が創立120年を記念して、第2次世界大戦中に開発製造した三式戦闘機「飛燕」を修復、復元し公開した。早速、見に行ったついでに「飛燕」の活躍ぶりを調べてみた。
戦時中の日本の戦闘機といえば、「零戦」が有名で、そのコンセプト、技術が優れ、実際大活躍したため後継機の出現が遅れた。「零戦」以降の戦闘機はどうであったのか、特に「零戦」の一方的な優位性が失われてきた終戦時の状態はどうであったのか?
零戦は軽戦闘機として、徹底的に軽量化され運動能力、機敏性、対戦闘機性能など抜群であったが、戦局が進むにつれより重装備に耐え、防弾性に優れた重戦闘機の開発が行われた。
1942年、川崎飛行機(現川崎重工)は、ドイツのダイムラー・ベンツで開発・製造された航空機用液冷V型12気筒エンジンDB601を、ライセンス、国産化した「ハ40」を搭載した三式戦闘機「飛燕」の製造を開始し、終戦まで約3000機を製造した。
DB601はメッサーシュミットBf109Eに搭載された1000馬力級航空エンジンで、過給器に流体継手を採用し、キャブレターではなく燃料噴射装置を採用した、先進的なエンジンであった。DB601を積んだ「飛燕」は空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、水冷エンジン装備機特有の空力学的に滑らかで細身なデザインを持っている(写真)。
エンジンは倒立V型気筒で発動機中央に機銃が通せる構造や、側面に装備されたフルカン式継手(流体継手)を用いた無段変速の過給機、ローラーベアリングの多用など、非常に高度で複雑な機構を多数採用されていた。
防弾装備のない試作機は最高速度590km/hを発揮したが、防弾装備や燃料タンク等を追加した量産機では並の戦闘機になり下がり、特に上昇速度の遅さが目についた。アメリカ軍には零戦に比べ「与し易い戦闘機」という印象を与えた。
しかしながら「飛燕」は他の日本の飛行機にはないターボチャージャーを備えており、空気の薄い高高度での飛行性能に優れ、米軍機の迎撃や特攻に使われた。
1. 日本の工業力不足
DB 601は基本的には優れたエンジンであるにもかかわらず、日本の基礎工業力では生産や運用が難しい精密な構造のエンジンであったことや、複雑で高性能な液冷エンジンに不慣れで整備作業そのものも難しいものであったことが、安定した稼働と飛行、空戦能力、作戦立案と実行に強く悪影響を及ぼし、また故障が相次いだ。
概して機体の設計には優れていたが、エンジン製造ではドイツ、アメリカの性能に追いついてなかった。
その故障の大きな要因にローラーベアリングの不具合があった。エンジンの力を回転力につなげるクランク軸のコンロッド接続部(レシプロエンジンのピストンとクランクシャフトをつなぐパーツ。エンジンが起こすピストンの動きをクランクシャフトに伝え、回転運動に変換する。車を動かすための重要なパーツの一つで、軽量かつ頑丈さが求められる)のローラーベアリング(ころ軸受け)はドイツ製のものと比べて相当に精度が低く、クランク軸の破損に繋がった。
当時の日本の基礎工業力は、ボールベアリングのボールの精度でも表面の凹凸がヨーロッパのSKF社製(スウェーデンにて1907年に創業し、軸受(ベアリング)および軸受ユニットなどを製造)のものは0.001mm以内に収まっていたものが日本製のものは0.012 - 0.015mmと桁違いに悪かった。生産上の主要なネックはこのクランク軸ピンの不具合であったが、それを克服する技術的蓄積が日本ではまだ足りなかった。
国の基礎工業力の不足は、全ての部品の質に非常な悪影響を及ぼした。例えば外国機エンジンが油漏れを起こすことは滅多になかったが、日本機は油漏れなどの故障が常態化していた。
「ハ40」の性能向上型である「ハ140」のエンジン生産はさらに困難であり、これを装備する予定であった三式戦闘機二型はわずか99機しかエンジンが搭載できず、工場内にエンジン無しの三式戦闘機が大量に並ぶ異常事態が発生した。
2. 革新的爆撃機の出現。
1944年7月7日にサイパンが陥落、その後日本本土は本格的な空襲にさらされた。
特に大型爆撃機を開発して、B29などを用いて10000m 以上の高度から爆弾を落とすという作戦を始められると、手も足も出なくなる。10000m以上では空気が薄くてエンジン出力が極端に低下して、B29に追いつけない。この作戦で日本のほとんどの大都市が焦土と化す。高空を飛ぶ場合、従来の飛行機では機内の気圧・気温が低下するため、対策として乗員に酸素マスクの装備、防寒着の着用が必要であった。しかしB-29は現在の旅客機のように、室内を高度約1,000mと同等の空気圧に保ち快適に飛行できる与圧室を装備し、インタークーラーターボチャージャーをつけた高出力エンジンを持っていた。
「零戦」も10000mの高度まで上がれないが、ようやく上がって射撃してもB29はその程度の射撃ではビクともしない。そこで体当たりするが、それでもいいとこに当たらない限り、落ちない。というジレンマをかかえていた。そこで「飛燕」のようなターボチャージャーを積んだ重装備の戦闘機が開発されたのだが、これまた10000m以上の高高度には急速に上がれない。その空域では浮いているだけで限界といった状況であり、迎撃方法としてはあらかじめ侵攻方向上に待ち構えて一撃を加えるのが精一杯であった。
高性能で迎撃が極めて困難なB-29実戦投入の事実はドイツ空軍をもあわてさせ、革新的なジェット戦闘機の新規開発を急ぎ、Ta183ホッケウルフが開発された。Ta 183は画期的な概念の翼、40度の後退翼を持ち、機首に空気取り入れ口があり、ジェットエンジンを胴体後部に収納する新世代のジェット機であった。Ta 183は1944年末期に、16機の原型機製造が発注され、初飛行は1945年5月から6月の予定であったが、1945年4月にイギリス軍がフォッケウルフの工場を占領したことにより、1機も完成しないまま終戦を迎えた。
3. 技術革新
よく言われることだが、開戦当初は日本軍も「零戦」など一部の兵器の優位性があり頑張れたが、基礎的な科学水準や持続のための工業力がアメリカに追いついてなかった。
さらには新たな技術革新が起こり、大きく戦局が変わったが、それについていけなかった。
アメリカとの対戦を予想して、大和や武蔵といった巨大戦艦の建造に力を注いだが、思い描いていた巨大戦艦同士の戦いは起こらず、飛行機からの魚雷により、浮沈艦と言われた戦艦があっけなく沈み、役に立たなかった。
ちょうど戦略や科学技術が転換期にあった。飛行機が発達し、重要な武器になるだろうと予想した軍人もいたが、戦闘にこれほど重要に関わるとは思った軍人は少なかった。
第2次世界大戦では飛行機の役割が圧倒的な立場を占めたが、飛行機の急速な発達の中での新たな技術開発や水冷エンジン、ターボチャージャーという技術もまだ日本に根づいてなかったのも敗因の一つだろうか?
戦後、飛行機の教訓が車作りに生かされ、ベアリング製造のような基本的な技術から、燃料噴射装置、水冷エンジン、ターボチャージャーとすべての技術でアメリカを凌ぐようになったのはなんという皮肉。
写真 1、2: 飛燕機体;写真3:飛燕エンジン;写真 4:飛燕コックピット
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