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乱世を生き残った大名:黒田藩と脇阪藩

2014年07月03日 17:47

 
 対照的な生き方

 戦国時代の大名は熾烈な生き残りをかけて、策を巡らせ、将来を見透し、リスクと安全を測りにかけ、命をかけて行動したと考えられる。
  当然勝者につく事が生き残りの大きな要素になるが、豊臣秀吉の子飼の大名(大大名として残った加賀の前田家は元は信長の弟子)の中で明治の世までお家を存続させたのはごくわずか。黒田家と脇坂家くらいか?

 放映中の「軍師黒田官兵衛」にでて来る長政はまだ血気にはやる若殿という感じであるが、将来はかなりの策略家となる。黒田長政は秀吉が亡くなると政略的に徳川家に近づき、結婚していた蜂須賀正勝の娘、糸姫と離縁し家康の養女、栄姫を正室に迎えた。関ヶ原の戦いでは西軍の小早川秀秋や吉川広家を調略して寝返りをさせ、東軍の武将として家康に従って出陣し、大活躍をした。その功績で福岡藩52万石の大大名となる。官兵衛、長政親子とも策略に長けた軍師という事か。

 一方、黒田家のような華々しい活躍、貢献はしなかったものの、乱世を生き残り、明治の世まで家を存続させた大名もいる。それが脇坂家(龍野の殿様)である。脇坂家の領地は現在龍野市となっており、神戸から西に50km、姫路に隣接する。醤油やソーメン製造の盛んな城下町である。龍野城は、鶏籠山の山城と後年、山麓につくられた平山城とがあり、山城は約500年前赤松村秀によって築かれた。その息子の赤松政秀は官兵衛の姫路城を攻撃しようとするが、10倍の兵を擁しながら、黒田官兵衛の巧みな戦略で、青山の合戦,土器山の戦いで大敗北をきたしてしまう。その後、城は播磨、丹波攻略を目指した秀吉により開城され、蜂須賀正勝が城主になった。

  その後廃城になっていたが江戸時代に信州飯田から脇坂安政(3代)が移ったときに山麓に築城された。
  初代、脇坂甚内(安治)はもともとは300石取の秀吉の家来であった。信長が暗殺されると、次の天下人を目指して秀吉と柴田勝家の間で覇権争奪の戦い「賤ヶ岳の戦い」が北近江の山中で起こった。秀吉はここが潮時だとみると親衛隊たる小姓の取り巻きにも総突入を指令した。小姓達は我先に一番槍を目指して敵陣に攻め入った。その時、福島正則、加藤清正が一番首、一番やり、の大活躍をして功名をあげた。その際、秀吉は天下を取ろうとする自分の家来に武勇に優れた著名な人物がいないというのは、秀吉の名を挙げる妨げになっていると考え、その時活躍した福島、加藤などの他に、数合わせに、脇坂甚内らを加え7人とし「賤ヶ岳の7本槍」と称した。そして福島正則に5000石、他の6人に3000石を与えた。甚内は棚からぼたもちの幸運に恵まれた。

 秀吉は信長後の実質の支配者になったものの表面上は信長の次男,信雄や信長の嫡孫の三法師をたてることにより、政権の簒奪者ではない姿勢を取って来た。そんな折、信雄が家康と連盟して反旗を翻したが、秀吉はその戦いを制し関白に上り詰めた。それと同時に秀吉手飼いの郎党も大名に取り立てられ、甚内も摂津能勢郡において1万石の大名になった。その後、秀吉の権勢拡大に伴い、一年の間にトントン拍子に出世して洲本城主となり、3万石を領した。
脇坂家の特徴は雌雄の𧲸(てん)の革を2本の槍の鞘にして、その2本を行列の先頭にたてて京や大阪の街をうねり歩いた。これが有名になって真黄色の貂が町中を行くと町人は皆飛び出して来てあれが脇坂様よと珍獣の毛皮を見上げたという。

 脇坂甚内は関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成方につく、しかし西軍が勝つとの確信が持てなかったため、戦闘がはじまっても動かずに松尾山の麓の小さな丘で小川祐忠、赤座吉家、朽木元綱などの小さな大名達と肩を寄せ合うようにじっとしていた。午前中いっぱいは西軍が有利に戦闘を進めていたが、午後になって逆転した。そのきっかけは寝返りを密約していた松尾山の頂上に布陣していた西軍の小早川秀秋が、突入を躊躇していたのを、黒田長政の喝で全軍山を降り西軍を攻撃することで起った。それに呼応するこのように松尾山の麓に布陣していた脇坂甚内は真っ先に寝返り西軍に突入した。その裏切りによって甚内は家康から褒められ2万石加増された。同じこの仲間でも小川祐忠や赤座吉家は戦後、家康により領地を没収され、放逐された。戦前に甚内だけは密使を立てて関東へ送り、もし両軍が激突する事があればかならず徳川方に内応致しますと申し入れてあった。この周到さが小川や赤座にはなかった。

更に江戸の初期、豊臣系の大名の取り潰しがあり、福島正則や加藤清正家も取り潰しにあった。結局7本槍の仲間の大名では脇坂家だけが生き残った。脇坂藩は何度かの所領変えがあったものの、3代安政は5万3000石の龍野藩藩主となり、それ以後は徳川の世でも生き残り、江戸末期まで龍野藩の大名であった。

 なぜ生き残れたのか? 庶民は運がいいのは貂の革のおかげだと噂したというが。関ヶ原での裏切りの内通に加え、 2代安元が幕府の中枢にいた老中「堀田正盛」から養嗣子として安政を迎え、譜代としての待遇を受けるようになったことが大きいと考えられる。あまり目立たず、活躍もしない代わりに、肝心な時に手だけはうっていた。黒田家と同様に徳川に血縁という一番深い絆ですり寄った。
  福島や加藤のような武断派は後々騒ぎを起こすかもしれないと皆粛正された。武辺者とか切れ者とか言う噂ではなく、貂の革を槍の先につけて歩くお気楽振りだが、大切なポイントだけは押さえていた。これが戦略だとしたらたいした役者である。
  やり方は違うが黒田家も脇坂家も秀吉子飼の大名であったにもかかわらず、徳川時代を生き残った稀な例である。この生き残り術、処世術は現在にも通用するかも知れない。とことん目立つ大活躍し会社や大学の発展に貢献するか、目立った働きはしないが、敵を作らず、上司からかわいがられ、しかも自分の立場をはっきりさせておく。これが会社や学校でうまくやって行く処世術だとすれば昔も今もヒトの心は変わらないと言う事か。

巨大化する生物学研究

2014年06月16日 17:45

生物研究社会の矛盾 

Nature Rev. Mol. Cell Biology. 15, 423-425, (2014). に「The faces of Big Science 」というEssayが載った。 近年の生物科学の急速な肥大化で起って来た問題点について述べている。同じような問題に日本のScienceも直面している。エッセイの要点と感想を私見を交えて書いた。

1. Small Science からBig Scienceへ
50年前、アメリカのacademic scienceは非常に小規模で、規制も緩く、財政援助も乏しかった。しかし。今日では巨大化し、過剰なまでに官僚的、政治的コントロールを受けている。
例えば1965年当時、Ronは有名なRacker 教授の下でポスドクを2年送り、論文としてBBRC一報、BBA一報とあまり知られていないジャーナルに2報の論文を書き、名門Princeton 大学のtenure-trackのassistant professorの職を得た。この業績で職が得られるなんて、羨ましいかも知れないが、当時はこれが平均的なcarrier pathであった。現在ではそのような幸運は有り得べきもなく、そのような名門大学のポジションには100人以上もの応募が有り、少なくとも4年間のポスドクトレーニングを積み、一連の注目を集める分野の研究をして、インパクトファクターの高いジャーナルへの掲載が要求される。

日本でも全く事情は同じで、50年前では大体の人はドクターコースを終ると贅沢を言わなければどこか就職口が見つかった。

ではなぜ今日のような状態になったのであろうか? 50年前に比べ、今日、研究者は10倍以上に増えた。このような研究者人口の指数関数的増加が研究の質のみならず、世界経済にも大きな影響を与えるようになった。そして小さな規模のScienceから大規模Scienceへと変わって行き、Scienceは今や大きな産業と化し、様々な問題を生じ始めた。

2. 競争と査読
Peer review (査読)が危機に瀕している。Scienceには競争が必要だが、それが余りにも熾烈になり戦争状態にまで至っている。建設的な批判をするよりもしばしば意図的にその論文を抹殺しようとしている。また一流誌では多くの論文が査読に回る事もなく、rejectされてしまう。しかしそうした査読 でさえ論文の質や信頼性を確保するに十分ではない。現在、多くの研究者は必要の無い攻撃的で悪意に満ちたpeer reviewには我慢ならない状態にいる。論文を投稿した者なら誰でも経験する事だか、細かいことにケチをつけられたり、出来ないようなことを要求されたり、はたまた、もっと悪質なレフリー(競争相手?)はデータをはなから信用せず、そんな事はあり得ないと科学的ではないコメントをする。

3. Impact factorの一人歩き
 Impact factor が重要視されすぎ、様々な弊害を産んでいる。アメリカの細胞生物学会による研究評価の声明(Declaration On Research Assessment)で個人の論文の質の測定、個人の研究への貢献の評価、又は雇用や昇任やfundingの決定にimpact factor を使ってはならないと宣言したが、impact factor 重視の古い風潮はなかなか改善するのが難しい。日本においても、研究の評価の大きな基準としてImpact factorが使われる。評価者が論文を実際に読んで、自身の判断で研究を評価するというよりも、Impact factorの高いジャーナルへの掲載を研究の中身よりも重要視しがちで、ポジションや研究費の獲得の最大の武器となっている。

4. 男女格差
 性による格差も大き問題である。ごく最近まで、Scienceは男の世界であり、だれもそんな事は気にしなかった。しかし、最近ではgenderの問題は重大な問題として認識されるようになって来た。差別を防ぐ最良の方法は雇用を決定する委員の男女均等、科学会組織や、編集委員の男女均等、学会や賞を決定する委員の男女均等を測ること、つまり評価者の男女均等を測ることであろう。 日本でもgender問題は取り組まれているがなかなか進展しない。政府からも大学の教授達の30%は女性にするようにというお達しがあるが、そのレベルまでいかない。

 日本では不要な会議や委員会が多すぎ、それが5時以降に行なわれ事が多く、家庭を持っている女性は参加し難い。研究に際し、欧米のようにテクニシャン制度や秘書制度が確立していなく、なんでも自分でやらなければならない事が多く、時間が足りず、生き残るためには労働が深夜にまで及ぶ、など様々な理由が有る。しかし最大の理由は結婚した女性が働けるように社会のシステムが出来ていない。たとえば、託児所や保育所が十分整備されていないなど。日本で男女平等を成功させるまでには解決しなければならない問題がいくつもある。

5. 研究連合組織
生物学研究は一機関ではなかなか全ての領域をカバーするのは難しく連合体組織によって行なわれる必要が有る。そのような趣旨でEMBOが50年前に誕生した。EMBOは研究方向の決定、若者研究者の育成や研究費の支給などを国を越えた組織で運営し成功して来た。このような国を越えた組織がBig Scienceとなった生物学研究に必要であろう。
日本でも同じようにAsia全体を含む組織(AMBO)を作ろうとする動きがあったが、各国の主導権争いが激しく、設立には至って無い。純粋にBiology Scienceの研究所を作ろうとしてもお金がかかる以上、それを拠出する各国の政治的な駆け引きが行なわれ、妥協ができない以上設立は望めない。
日本はScience 規模の大きな国なのでまだいいかも知れないが、一国では対処しきれない発展途上国にはこのような組織は必要であろう。

6. 格差が広がる生物学研究
技術革新により生物学が様々な分野に応用されるようになると、大きな利益に結びつき、企業活動も活発になる。これからも益々、Biological Scienceは肥大化し、競争が激化しその成果が膨大な利益に結びつき、今までにあまり無かったような欲得感情が基礎生物学分野に持ち込まれることになった。その代表的な出来事がSTAP細胞騒動であろう。余りにも膨大な利益を産む可能性の卵に正常心を失ったというのがこの騒動の原因かもしれない。
 生物学研究が巨額な利益と結びつく打出の小槌となった今、これからも同じような問題が十分起こりえる。
 応用に結びつく日のあたる研究をしている研究者と応用性の低い基礎研究をしている研究者間の待遇の格差は今後益々広がって行き大きな問題になるであろう。

河井継之助と山田方谷

2014年06月03日 17:57

陽と陰の性格
 河合継之介は幕末の動乱期に現れた軍事的天才で、大村益次郎と対比される。
継之介も益次郎も天才特有の狭量、偏屈さを持ち、西郷隆盛のように大局的に考えられる、度量の広い人物ではなかった。それがかえって軍事的才能に生かされたのかも知れない。

 大村益次郎が官軍の軍事部門の事実上のトップとして活躍したのに対し、河合継之介は長岡藩という幕軍の一小藩を率いていただけだった。しかし当時にあって、長岡藩は間違いなくどの藩よりも最新の兵器を多数保有し、西洋式に訓練されていた近代的な兵組織を持っていた。そのため、継之介には「官軍なんたるものぞ」という意識が潜在していた。
 継之助の率いた長岡軍と官軍との戦いは多勢に無勢、客観的に見れば、最初から行く末の見えた戦いではあった。しかし官軍の理不尽さ、傲慢さには我慢できず、近代的装備を纏った兵を用いて一矢報いるという、意地を賭けた戦いのあだ花として幕末史には一ページを残した。反対に、彼の意地のため、長岡の街は破壊され、多くの人が亡くなった。

 継之介は全く流儀、作法に無頓着で実学にしか興味を抱かなかった。また政治の本質は世を経(おさ)め民を済(すく)う(世経済民)にあると考え、藩主に上申書を出し、これが認められると、財政改革、統治機構の改革、汚職の追放など藩の改革を次々と行い、また商品(米)の流通を行って利潤をあげた。
 継之助がその世経済民を学んだのは理論のみならずそれを実戦して成功していた備中松山藩(岡山県)の陽明学者山田方谷からであった。

  山田方谷は幕末の1805年、備中松山藩の百姓の子として産まれる。20歳になって士分に取り立てられ、藩校の筆頭教授となる。その後、藩政に参加し瀕死の状態にあった財政の立て直し、藩政の改革を行い、更に西洋式近代兵制を取り入れた。
 彼の転機は29歳にして京都へ遊学した際に陽明学と出合ったことで訪れる。
江戸時代大義名分を重んじる朱子学が幕府より官学として保護されていたが、方谷は朱子学では、己の欲望を絶とうとする余り、義に適った利までも卑しんで、正当な勤労による利益までも否定的に捉えてしまう事を疑問に思っていた。従って、当時の幕藩体制ではありえなかった、商業を手がけた。しかしこれはあくまで儲けるための政策ではなく、藩全体で利益を共有して藩の領民にそれを最大限に還元するための手段であるとして積極的に押し進めた。これによって、備中松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになり、農村においても生活に困窮する者はいなくなった。

 方谷は、改革に臨んで「理財論」および「擬対策」を説き、その実践で、藩政改革を成功させた。「理財論」は経済論で義を明らかにして利を計らずの考えで経済改革を進めた。「擬対策」は政治論で賄賂、贅沢が藩の財政を圧迫する原因になっているとしてこれを戒め、倹約して質素な生活を奨励した。そして一方で、商売に力を入れ、藩の特産品などを商人を通さずに売り、莫大な利益を上げた。また優秀な者は百姓,商人を問わず士分に取り立てた。更には「刀による戦い」に固執する武士に代わって農兵制を導入し、若手藩士と農民からの志願者によるイギリス式軍隊を整えた。
 こうして、方谷は8年で改革をほぼやり遂げ、その改革で借金10万両(現在の価値で約300億円)を返済し、余剰金10万両を作ったとされる。
 しかし、大政奉還とそれに続く鳥羽・伏見の戦いにおいて、老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいた藩主の板倉勝静は、幕府側に就いて官軍と戦うことを決意した。しかし、方谷は主君勝静に従って官軍と戦うよりも備中松山の領民を救うことを決断し、勝静を隠居させて新しい藩主を立てることと、松山城の開城を、朝廷に伝えた。その後、方谷は、明治政府の要請を断り、中央に出る事なく岡山に留まった。人々の依頼で、寛文10年(1670年)に池田光政が設立し、明治3年(1870年)まで続いた閑谷学校(日本最古の庶民学校)を、陽明学を教える閑谷精舎として再興し、明治10年(1877年)に死去するまで、弟子の育成に生涯を捧げた。

  河井継之助は1859年、39歳の時に山田方谷に教えを請いに備中松山へ行った。初めは、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙にしたためるなどの尊大な態度を取っていた継之助も山田の言行一致した振る舞いと藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになった。この時学んだこと万事が後に河井継之助が行なった藩の財政再建や藩政改革から兵制改革など全てに役に立った。

 戊辰戦争が起ると継之助は江戸藩邸を処分し家宝などをすべて売却し、その金で暴落した米を買って函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にファブルブラント商会スネル兄弟などからアームストロング砲とガトリング砲それにイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。ちなみにガトリング砲は当時日本に3門しかなく、その内の2門を継之助が持っていた。
これだけの兵器を持って官軍に反抗した北越戦争は当然官軍を苦しめる事になる。しかしガットリング砲(機関銃)は敵が突撃を仕掛けて来た際、敵兵をなぎ倒すのには威力を発揮するが、応戦し合う野戦に於いてはあまり成果を発揮できず、ある意味、宝のもちぐされに終った感がある。戊辰戦争にあって、この北越戦争は最も熾烈を極めたが、結局は多勢に無勢敗北に終わり、負傷した継之介は会津に落ちる途中に亡くなった。享年42歳。

 河井継之助に対する歴史的評価は2分される。ある者は軍事、用兵の天才であると言い、ある者はガットリング砲の火力と長岡藩の洋式兵器があったため、官軍を苦しめる戦争が出来ただけで、戦術的采配が秀逸であったという事ではないと言う。
ただ当時は飛び抜けた軍備を所有して、官軍、幕軍のどちらにも組しない中立、「武装独立」の意見を押し通うそうとしたが、受け入れられない事が分かると、この強力な兵器にものを言わせて、小藩でも意地があるところを見せてやろうとなったのかも知れない。方谷が表に出ず、縁の下の力持ち的な影として生きたのに対し、継之介は檜舞台の表に出て自己を主張して暴れ回る、陽に生きた。師匠と弟子の関係で、同じような事を実戦してきたが、最後に別の路を歩んだ。
  屈辱を我慢して官軍に恭順を現していれば何もなかったのに、反抗した結果、長岡の街が焼き払われ多くの人が死ぬ事となった。後世の人は長岡藩のような小さな藩に継乃介のような大器が産まれた事自体が悲劇であり、もし大藩に産まれていれば、影響力は強く歴史が変わっていたかも知れないとも言っている。最善が最善でなく、最悪が最悪でなく、人はその時の立場、環境により、運命が変えられる。

研究職と非研究職

2014年05月20日 18:12

 研究者はもっと社会に飛び出よう

  前にも研究職の就職難のことをブログで書いた。その原因は社会での需要も考えずに政府が博士課程の定員を大幅に増やしたことにあった。ポジションを増やさずに博士を増した結果、当然の事ながら卒業しても行きどころがない博士取得者が増え、社会問題になった。全ての博士取得者が研究職につけるポストは当然無い。いきおい、競争が激しくなり、一つのアカデミックなポストに何十人もが殺到するということになった。このようなひどい状況が続いたため、政府はポスドクを大幅に増やし、それで急場をしのごうとした。しかしポスドクは永久のポストではないので、問題を先延ばしにしただけである。そこで今度は任期制のポジションを増やしてそれにあてるという応急処置を取っている。しかしこのポストとて一時的なもので、世の中でよく言われる非正規職員なので任期のない正規職員にならなければならない。事態はちっとも改善していない。

少子高齢化社会にあって、研究職のポジションは増える見込みは立たない。今いる大勢のポスドクを含む非正規職員の行く末をどうしたらいいのであろうか?どう考えても博士所得者を研究職以外のポジションに活用して行くしかすべは無い。博士課程で学んだ科学的な論理構成のしっかりした考え方、より深い研究分野の掘り下げ、論理的文章の書き方など様々な優れたskillを社会に生かさない手はない。

 そんな折、ScienceのEditor-in-Chiefが書いた研究室の外での活躍を推進しようと言う巻頭言が載った。
    Think Outside the Lab (Science 344, 672, 2014)

 先月US National Science Foundation(NSF)はScience, Technology, Engineering, Mathematics (STEM)、の博士卒業者の惨めな現状についてレポートしている。それによると、それらの博士取得者の失業率が上昇し2010年には2.4%に達した。それらは全てのアメリカでの労働者の失業率(8.2%)よりも低いけれど、多くの年月、専門的な教育やトレーニングに投資して来た優秀な学生にとって失望するものであった。さらに、NSFの調査によれば、2008年には科学、工学、生命科学での博士取得者のわずか16%しかドクター取得3年以内にアカデミアでのポジションを得ていない。

しかし研究室以外のポジションにも目を向けそちらの方向に進む事を考えているSTEM doctorにとっては雇用の見通しは改善してきている。
最近、私は非研究職雇用へのアドバイスをおこなうScience Carrier Webinarという会に参加した。この活動はまさにタイムリーで前もってWebinarに登録する人は6000人にも及んだ。それはこのcarrier 達が参加する他のWebinarの平均よりも遙かに多かった。そこでUS National Institute of HealthのPostdoctoral service 室のdirectorのDr. ConlanやBoeing 社のgeopolitical affairsのdirectorのDr. Goelと一緒になった。
 様々な非研究職ポジションの出現で我々自身情熱を追い求めることが可能になり、それが自身のcarrierを追求しつつ家庭と仕事のバランスを保つ柔軟さを与えるということで我々の意見が一致した。我々が非研究職のCarrierに移ったとしても、それはちっとも残念なことではなくむしろchallenging なととだと言える。

Webinar の参加者が昔からの博士過程のプログラムでは十分にカバーできない非研究職において重要なskillについて質問した。

非研究職で必要なskill, まず、communication のskillがそのリストのトップにあげられる。特に、様々な人々へ複雑な科学の概念を説明する能力。これに関連して、如何に科学が他の分野へ応用できるかを理解する第一歩となる様々な事を聞く能力。リストのトップにくる他のものとして、如何に自分の長所と短所を認識し、問題を最良の状態に持って行けるか、バラバラのチームをまとめあげ個人ではなし得ないものを作り上げて行くことが出来るかがあげられる。
驚く事に、多くの博士研究者は受けて来たトレーニングや経験で得たskillに自信過剰になっていることを自覚できていないし、彼らが思っているよりもそのskillが外部のポジションに適していることを認識出来ていない。
長期にわたってあるプロジェクト遂行に様々な専門の同僚と協力し合ったり、研究計画書を提出するのに、複雑な領域の案を立案するのに、大量のデータを解析するのに、有意義に委員会の活動に貢献するのに、研究室以外のskillを要求される。

STEM領域での博士の専攻で社会へのドアが閉められるというより開くと考えられる。しかしこのドアを開くのは容易ではない。いろいろなポジションに申請する前に、申請者は自分の経験の広さを考えるべきであり、自身を素直に評価すべきである。チームの一員として働くのに適しているのか?それともリーダーとして働くのに適しているのか? 何を最も評価するのか。正しい問題を解決できるのか? 正確に解決できるのか? 仕事を完了できるのか?如何に仕事に対して感じているのか?
laboから移る事を考えている人はおおぜいいる。この転職は全てのcarrier levelで、様々なmotivationで起っている。理由がどうあれ、多くの人がこの路を取り成功している。諸君も同様に研究室から飛び出し活躍できる。

 やはり多くの博士研究者の経験を生かして、研究職以外の職業、ベンチャー企業、官僚、企業での将来計画、企画の立案に携わる人を増やし、博士過程をでた人材の優秀なskillを認めてもらう事が必要であろう。高度に細分化した専門分野とそれを応用した製品は爆発的に増えている。博士課程でトレーニングされた能力の持ち主でないとそのような分野に対応できない。
 言ってみれば、理系博士取得者の活躍の場は研究室外にも広がっている。一人でコツコツ研究するよりも、大勢の人とかかわっているのが好きな人、マネージメントなどの管理能力のある人、科学技術政策作りに興味のある人などは積極的に研究室の外で活躍する事を考えてみよう。

STAP細胞に踊らされた人々

2014年04月28日 19:13

STAP 騒動

 研究者仲間が出合った時の最大の話題はSTAP細胞騒動であろう。Nature発表と同時に行なわれた、センセーショナルな記者会見は前例にない程の注目を集めた。ピンクに塗られた壁とムーミンのシールが貼られた研究室に割烹着姿の若い女性の研究者、小保方さん。これがSTAP細胞開発の主人公。新しいタイプの研究者としての演出で、颯爽と売り出した。従来の研究者のイメージを一掃し、未知の扉を開いた若きヒロインの登場と誰しも思った。なにしろSTAP細胞は細胞を弱酸性の溶液に浸けるだけという簡単な操作ででき、iPS細胞のように遺伝子を導入するという煩雑さもなく、がん化の恐れも無い、とてつもない用途が待っていると思われた。

 しかし、間もなく、図を差し替えた改竄疑惑や肝心要の図が、本人はうっかりミスだと主張をしているが、博士論文で用いられたのと同じである事が分かってきた。また最も重要な事は、簡単に出来るはずなのに、STAP細胞の再現にだれも成功していない事である。本人はすでに200回以上も樹立に成功しており、「STAP細胞はあります」と記者会見では言っている。色んな細かいノウハウがあって他人には出来ないのだと。しかし論文にした以上、論文に書かれたメソッドで再現がきかなければならない。それがサイエンスと言うものである。
 また論文に大勢の著名人が名前を連ねているが、誰一人として全体を把握出来ていない。責任著者に至っては論文を書くのを手伝っただけで、最後の2ヶ月間だけ携わったので自分には改竄や捏造の責任は無いと言っている。でももしこの論文がうまくいき、ノーベル賞の候補になったら、今度は逆に自分の貢献度の大きさを主張するのであろうか?
 何はともあれ、日本人研究者としてはSTAP細胞が存在することを願いたい。

 この研究のきっかけは小保方さんが早稲田大学の大学院生のときに、東京女子医のY先生の研究室で研究を開始した事に始まる。Y先生は極性を持った上皮細胞が多層化するCell Sheetの研究で著明な研究者で、発想豊かな人物である。小保方さんが行なった、細胞にストレスをかけて細胞を万能化させるというアイデアはY先生が出し、小保方さんが研究をしたというのが事実のようである。最初は細胞をキャピラリーの細い管を通してストレスを与えるということをやっていたが、ハーバードのVacanti教授の研究室に移ってからは弱酸性の液に浸けるという方法に変わった。しかし、今でもVacanti教授はキャピラリーを通して、弱酸に浸けることがSTAP細胞樹立に必要だと言っている。

 実は当研究室に早稲田大学の博士課程でY先生の下でCell Sheetの研究をしていた人物が医学部の学士入学で入ってきた。今は卒業して医師の卵になっているが女子医では小保方さんと同じ研究室の一年先輩にあたる。その人物に対し、論文発表で大騒ぎになっていた頃、「もしY先生の研究室に残って、研究を続けていれば、論文に名前がのって、有名にもなって、あわよくばノーベル賞をもらえたかも知れないのに、それを棒に振って、なんともったいない事」と言っていた。しかし、問題が発覚して、大騒動になった後では、「大学院を辞めてうちに来て、医者になってよかったねえ。そのまま居たら、今頃は騒ぎの渦中に巻き込まれて、研究者生命も危うかったよ」。と180度言い分が変わった。

 人の運命とは分からないものである。個人のおかれた環境で否応無しに事件/出来事に巻き込まれてしまうことがある。特に、いい潮流に乗って大きな豪華客船が進んで行くときは、誰しもその船にのりたがる。一旦、乗ってしまうと、いい事ばかり夢見て、悪いことなんて思いもしない。STAP現象は夢のような、生物学史上に燦然と輝く、画期的な発見であるはずであった。多くの一流の研究者が疑う事もなく、船に乗ってしまった。降って湧いたような幸運の前に、疑ってかかれと言うのが酷なのかもしれない。船が座礁してやっと事態に気づくのが普通の人間であろう。

 もしも自分だって、その船に誘われたら,喜んで乗ってしまったかも知れない。そして催眠状態に陥り、詰めが甘くなっていたであろう。本来なら、論文に名前を載せる以上、厳格にチェックして、責任を全うしなければならないのだけど、大きな名誉や利益がちらつくと、そうあって欲しい。信じたい。研究者のモラルとは。分かっているけど。自分が直接船の操船に関わってないのに、黄金の国に連れてってもらえ、黄金がざくざくいう甘いささやきが聞こえてくる。欲望はリスクを隠してしまう。 人間ってなんと弱い生き物か。
 ただ今は、幻想ではなく黄金の国が本当にあることを祈りたい。

竹田城

2014年04月17日 18:46

兵庫のお城3

竹田城は昔の但馬の国、今の兵庫県朝来市和田山町竹田にある山城。
秀吉、官兵衛の播磨、丹波攻略で2回に渡って兵庫の城を取り上げて来た。最近超人気、TVでも度々取り上げられ、訪れる人が増え過ぎ入城制限をされるようになった天空の城、竹田城に関しては触れてなかった。今回以前人気が出る前、人の訪れる事も無い城跡と竹田城を対岸に望む、立雲峡から撮った写真を中心に紹介。

竹田城は1577年に秀吉が上月城を攻めていた頃、秀吉の弟、秀長によって攻め落とされた。秀長は3000の兵を率いて丹波攻略に入った。その目的は丹波諸将の制圧と生野銀山の確保にあった。生野銀山は竹田城の管轄下にあったため、竹田城攻略が第一の目標になった。竹田城を陥落させた後、秀長がしばらく城代となっていたが、丹波攻略へ出たあとは竹田城に戻らず、その隙に毛利により攻め入られ、再度秀長が攻め落としと、紆余曲折あったが、秀吉に降伏した龍野城主の赤松広秀が城主となり、竹田城が完成した。しかし、江戸時代に幕府の方針により廃城となり、取り壊され、城跡だけが残った。またそのような山城も鉄砲や大筒の発達や包囲戦などの戦術の変化で意味をなさなくなってきた。

写真は竹田城跡と立雲峡から望んだ竹田城
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秀吉と毛利の攻防となった城(続)

2014年03月28日 18:36

NHKの大河ドラマで放映されてしまうと、新鮮さがなくなるのであわてて前のブログの捕捉、第2弾を書いた。
前のブログでは毛利攻略の前哨戦とも言える播州、播磨の城の攻略について書いた。目立ったのは信長の非情さであった。特に、比叡山焼き討ちや石山本願寺の徹底的破壊という宗教への弾圧は多くの庶民に受け入れられるものではなかった。そのため敵にしなくても良い武家、大名を敵に回す事になった。また部下への過酷な要求と失敗した場合の重い処分も多くの謀反者を産む原因ともなった。
播磨の諸大名達はできれば毛利につきたかった。しかし、情勢は信長に有利。迷いに迷った結果でも、毛利につくものが多かった。潮目が変わったのは、毛利との国境の備前を領地とし、大勢力を誇る食わせ者の名高い宇喜田直家が毛利を捨てて、織田に寝返り、秀吉と一緒に備中高松城を攻めた頃からである。

 上月城
 まず秀吉が攻めたのが上月城である。西播磨に位置する上月城は備前、美作、出雲への要衝の地(兵庫県佐用町)にある城で、赤松政範が城主を務めていた。前哨戦として秀吉は毛利方の最前線にある播州方面の軍事拠点、上月城を攻め落とし、毛利と長年死闘を繰り返した尼子勝久、山中鹿之介に守らせた。しかし直ぐに3万の毛利軍によって奪い返され、尼子一族はここに滅亡した。秀吉は救援に向かい高倉山に兵を進めたが、信長が三木城攻めを優先するよう命令を下したため、みすみす尼子一族を見捨てる事となった。
尼子一族は山陰地方の名門大名で、元は近江の京極氏の一族で、出雲守護代に任じられ、現在の安来市にある月山富田城に入った。経久の代になると山陽、山陰の11州を治め、勢力を拡大したが、毛利との抗争で消耗し、次第に力をうしない、滅亡する。上月城は尼子にとって最後の砦であったが、信長に見放され勝久自刃。山中鹿之介は捉えられて、護送中に暗殺される。享年34歳。信長の一存で見放され、滅亡した。

  山中鹿之介は少年の頃から並外れた武将としての才能を持ち、戦いに負けても何度も再起し尼子再興を目指し、毛利を苦しめた。「願わくば我に7難8苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと言われ、悲運の武将として人気が高い。後に勝海舟は「本当の逆境にあって慌てず落ち着いて事を処理したものはほとんど皆無だ。もしいるとすれば山中鹿之介と大石良雄くらいであろう」と言っている。
その後、上月城は廃城。現在は、土塁・石垣・空堀などの遺構が残る他、本丸に赤松氏の供養塔、麓には尼子氏の供養塔が残されている(写真)。全く人も訪れない荒れ果てた山となっている。
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三木城
播磨の国美嚢群三木にあった城。明石の北19Km,姫路の東31Kmの地にある。美嚢川の南岸の台地にあり、台地に立つと川と鉄道が見える(写真)。台地は小さな公園になっており、別所長治の辞世の句碑がある。秀吉は1978年から2年に渡り、別所長治立てこもる三木城を攻め、最後には兵糧攻めで落城させた。木津川河口での毛利に大敗、石山寺本願寺攻略の失敗などで過酷な処分を恐れた荒木村重が信長を寝返り、有岡城に立て篭ったため、開戦から3ヶ月後、黒田官兵衛は説得しに伊丹に赴くが、反対に捉えられて土蔵に1年間幽閉され、織田軍が有岡城を落とした後やっと解放された。
 信長は官兵衛が有岡城から帰ってこない事から、裏切ったと思い込み、秀吉に人質として預けてあった官兵衛の一人息子の松寿(後の黒田長政)を殺すように命じたが、官兵衛が裏切る事なんてあり得ないと確信していた竹中半兵衛は独断で菩提山城に隠す。無事官兵衛が救われた後、信長も人質を殺した事を後悔するが、竹中半兵衛が隠して生かしていた事を知ると、さすがの信長も半兵衛に感謝した。その竹中半兵衛は官兵衛救出の半年前に三木城を包囲する陣中で病死した。結核だったと言われる。墓は三木にある(写真)。半兵衛の温情と信念の深さにひかえ、信長の短気さ、非情さ、人への信頼感のなさばかりが目立つ。
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備中高松城
秀吉は播磨攻略ではまず小寺氏、赤松氏を調略した。しかし石山寺本願寺、毛利との戦いで状況が不利になると、荒木村重が反乱を起こしと困難がたえなかった。三木合戦においても別所氏を滅ぼしたものの、竹中半兵衛が病没し、上月城の戦いでは尼子勝久や山中鹿之介を失ってしまった。
 播磨を平定した後は、備中へと兵を進めた。備前にいる宇喜田直家は当初は毛利方として行動していたが、秀吉、信長勢の方が優勢であると見るや、毛利を身限り、秀吉の山門に下った。その子の宇喜田秀家が後を次ぎ、いよいよ備中に攻め入る用意ができた。宇喜田秀家が治める備前岡山より先は毛利の勢力範囲であったため、備前、備中の国境での攻防となった。秀吉は1582年3月に宇喜田勢1万を加えた総勢3万の軍勢で備中の中核となる備中高松城を攻めた。備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かった。城を守るのは清水長左衛門尉宗治で、3,000~5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではなかった。
そこで有名な水攻めの作がとられ、長い堤防が作られた。時は丁度梅雨時、降り続いた雨が足守川を増水させみるみる水かさが増して行き、高松城は水の中に孤立した。そこに明智光秀の謀反により、信長が打たれたとの報を持つ明智の毛利への使者を捉えた。毛利にその情報が漏れないようにしつつ、慌ただしく和議を結び、城主の清水宗治の切腹を見届けると大急ぎで兵を引きあげた(中国大返し)。官兵衛がそそのかしたとの噂があるが、これで秀吉は一気に天下取に向って動き出す。

高松城は元々湿地帯に立てられ,それが騎馬や大軍に攻められにくい、城としての特徴であった。水攻めはそれを逆手に取っての作であり、まさにうってつけの作戦であった。という訳で、城跡は睡蓮の咲く、池となっている。中央に宗治の辞世の句碑があり、堤跡も残っている。(写真)。
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秀吉による播磨攻略

2014年03月18日 17:51

上月城、三木城、有岡城の攻防
黒田官兵衛ゆかりの地、播州、播磨を巡って織田と毛利の攻防が今まさにTVで放映されている。TVでの官兵衛の主家にあたる播磨の守護代御着城主小寺政職の煮え切らない態度は当時の播磨における織田と毛利の勢力関係を映し出している。まさに情勢ではどちらに転んでも不思議ではないと思われていた。

 織田信長は1977年毛利輝元を討つため、羽柴秀吉を総大将に任じ播磨に進行させた。織田、毛利はお互い播州、播磨を治める有力武家の凋略を試みるが、情勢の変化により時には織田、時には毛利へと態度が定まらない。
 官兵衛の主家にあたる小寺政職も一旦は織田方についたが、足利義昭が、諸将に織田軍に叛き毛利氏に加勢するよう働きかけ、更に別所長治を中心に播磨の武将が織田方に反旗を翻すようになると、毛利へと寝返った。
  その背景には、浄土真宗本願寺の顕如が大阪城の所にあった石山本願寺に立てこもり、信長と戦闘態勢をとっていたことがあげられる。地上の戦いだけではなく、海上での戦闘でも織田の水軍と毛利の水軍が衝突。荒木村重は織田方の尼崎衆の軍船を率い戦ったが(第一次木津川口の戦い)、毛利の水軍に大敗北を喫してしまった。そのため毛利の方が優勢ではないかとの読みがあった。

 上月城
 信長から播磨平定を命じられた秀吉はまず上月城を攻める事から始めた。西播磨に位置する上月城は備前、美作、出雲への要衝の地にある城で、赤松政範が城主を務めていた。秀吉は赤松政範に対し、信長への恭順を礼を尽くして勧めたが、結局毛利との同盟関係を優先させるに至り、秀吉の上月城攻めが始まる。 毛利方の赤松氏が籠る上月城は秀吉軍によって落とされ、代わって尼子勝久・山中鹿之助らが羽柴軍の最前線を担い上月城に入った。しかしすぐに毛利軍は1578年山陰山陽の両道より三万の軍勢を以って、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、信長の指示により三木城攻略を優先し、尼子主従は見捨てられた。上月城は孤立し遂に勝久は毛利氏に降伏、開城自刃し尼子氏は滅亡した。ここに出雲尼子氏は完全に滅亡した。

三木城
上月城救援に向おうとした秀吉であったが、播磨の有力守護大名の別所長治を中心に播磨の武将が反旗を翻し、三木城に立てこもったため、その掃討に向った。三木城は神戸の北西20km, 明石の北19kmの地、京都と有馬を結ぶ湯山街道の要所にあり美嚢川の南岸の台地にあった。
1578年から2年弱に渡って、羽柴秀吉と別所長治との間で、激しい攻城戦が繰り広げられた。秀吉は、播磨の武将をまとめる別所氏との直接対決で、兵力が消耗することを避け、三木城を領内の播磨内陸部との連絡を絶ち孤立化させるため、三木城の北側に付城群を築き、別所氏に味方する播磨各地の城攻めを行い、得意の兵糧攻め(三木の干殺し)を行った。
  しかしその間、1578年に上杉謙信が死去、更に顕如率いる大阪にある石山本願寺の攻防戦で毛利水軍、村上水軍が第二次木津川口の戦いで鉄甲船を用いた織田軍の九鬼嘉隆に大敗北を喫し、次第に戦況は毛利側に不利となっていった。そんな折、謀将宇喜田直家は今度は毛利と手を切り、信長に臣従するようになり、備前(岡山)まで信長の息がかかるようになった。
 三木城攻めは消耗戦の様子を呈し、城内では食糧が尽きて餓死者が多く出る始末であった。そこで三木城主長治は領民の命を救うため、1580年 1月、一族とともに自刃し開城した。

 有岡城(伊丹城)
 そうこうしているうちに今度は信長にかわいがられていた荒木村重が突然離反し有岡城に立てこもった。信長は明智光秀、松井有閑、万見仙千代らを派遣して説得に当たらせる。秀吉も説得に赴いたが、村重が翻意することはなかった。とうとう秀吉の軍師、黒田官兵衛にまで説得に行かせるが、翻意を得る事かなわず、逆に土蔵に幽閉されてしまう。なかなか帰ってこない官兵衛を疑って、信長は人質にしている息子の松寿丸を殺すように命じる。しかし秀吉は竹中半兵衛と計って、信長に内緒で匿うという、事がばれれば首が飛びかねない策に出た。その後、竹中半兵衛は秀吉が攻めている三木城の陣地へ戻って亡くなった。
 荒木村重は有岡城に籠城し、城はなかなか落ちず、持久戦になるが、食料が乏しくなり、頼みの毛利の援軍もなかなかこない。そこでやむなく村重はこっそり城を抜け出し、従者を連れて尼崎城へと脱出した。城主を失った有岡城にはやがて落城。そして骨と皮に成り果て、足腰立たなくなった黒田官兵衛が土蔵に閉じ込められているのが発見された。
信長は尼崎城や花隈城を明け渡して降伏するなら城内の者は助けようと言ったが、尼崎城にいた村重はこれに応じず、激怒した信長は城内の人々の皆殺しを命じた。

荒木村重と小寺政職の行く末
その後の村重は花隈城が落ちてから毛利側に匿われ、尾道に隠れ住んでいたと言われる。1582年、本能寺に信長が倒れてから、村重は秀吉に招かれ、茶人道薫として仕えることになる。そして利休をはじめ多くの茶人達との交友が復活したが彼は堺で没する。ときに五十二歳。
一方、小寺政職も荒木村重が摂津有岡城で信長に謀反すると、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。しかしこれ又1580年、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて御着城は落城、政職は毛利氏のもとへ落ち延びた。小寺政職は中国地方を流浪しながら、織田信長に謝罪したが、織田信長は裏切り者の小寺政職を許さなかった。

その後、小寺政職は毛利輝元を頼り、備後の鞆(広島県福山市鞆)に住み、1582年に亡くなった。
小寺家の滅亡を哀れんだ黒田官兵衛は、羽柴秀吉に「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。息子の小寺氏職を引き取って養育したいので、小寺氏職の罪は恩赦してください」と頼んだ。

黒田官兵衛の希望を聞いた羽柴秀吉は、昔の恩を忘れない志に感心し、黒田官兵衛の願いを聞き入れた。

  こうして交通の要所である摂津の有岡城、播磨の三木城、上月城を手にした秀吉は、姫路城に陣取って毛利攻略の拠点とする。秀吉は次に毛利の最前線、清水宗治が城主の備中高松城を攻める。高松城の周囲は沼地で難攻不落を誇っていた。秀吉はここでは、軍師の黒田孝高の進言を入れ、世に言う「高松城水攻め」を行った。城は水没の危機に陥いり、食糧も尽きてまさに飢餓地獄状態になり、高松城は陥落した。
要所の有岡城、三木城、上月城が落ちて、更には毛利の最前線の最重要拠点の備中高松を落とすにあたり、織田が断然有利な情勢になり、これから本格的に毛利侵攻を始めようとした矢先、信長が本能寺で殺されてしまう。これからが秀吉の本領発揮、中国大返しをおこない、明智光秀を天王山(山崎の合戦)で打ち負かし、全国統一へとひた走る。

 こうしてみるといつの世でも、人の器の大きさが見えてくる。黒田官兵衛は織田につくと決めたら終始一貫、有岡城の土蔵に閉じ込められて後もその心を変える事はなかった。一方、荒木村重は小心者で信長を恐れて、失敗の度にどんなおとがめがあるかとびくびくし、そのストレスに耐えられなくなって謀反に走った。それも途中で自分だけ逃げ出し、一族郎党虐殺されたのに、自分は生延びた。小寺政職は将来展望無く、その時の情勢により立場を変え毛利が優勢だとみると毛利に寝返り、それが裏目に出た。宇喜田直家は分かり易い。常に優勢で勝ち戦をする方につく。秀吉はありのままの素を出し、信長に甘えるすべを持ち、厳しい信長にかわいがられた。これらの人物像は現在でも当てはまる。あなたはどのタイプ?



江戸時代の科学のレベル(3)

2014年02月24日 18:37

伊能忠敬

  伊能忠敬(1745-1818)は今日小学生でも知っている偉人として讃えられている、詳細かつ正確な日本地図を初めて完成した人物である。この日本地図はシーボルトが国外に持ち出したとして、大騒動になったが、その写しをペリーが日本に来た際に持っていた。ペリーはこの地図は概略図くらいに思っていたので安全な航海のために正確な地図を得る必要があったので海岸線を測量したが、極めて正確である事に驚きかつ再測量する必要もなかった。それ程正確な日本地図は数学や天文学、測量学を50歳になるまでやった事の無い一商人が50歳に隠居してからなし遂げた事だというから驚き。

忠敬は17歳の時、今の千葉の佐原村の酒、醤油の醸造、水運業を営む伊能家に婿入り(1762年)した。佐原は利根川を利用した水運の中継地として栄え、江戸との交流も盛んであった。また佐原は天領として武士は一人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった。江戸時代にあってもかなり自由な雰囲気のある、文化度の高い村であった。この要素が伊能忠敬を生み出す大きな要素になった。

忠敬は暦学や天文学に興味を持ち、江戸から本を取り寄せて勉強していたが、志やまず、再度隠居願いを出し(1794年)認められ家督を長男に譲り隠居した。その翌年、すでに50歳になっていたが、江戸の深川に居を構え、麻田剛立の弟子の高橋至時に弟子入りした。その時師匠の至時は31歳であった。
 至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。しかし忠敬は、すでに『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった。観測技術や観測のための器具については重富が精通していたため、忠敬は重富を通じて観測機器を購入した。忠敬が観測していたのは、太陽の南中以外には、緯度の測定、日蝕、月蝕、惑星蝕、星蝕などである。また、金星の南中(子午線経過)を日本で初めて観測した記録も残っている。忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した。
  至時はこうした北方の緊張を踏まえた上で、蝦夷地の正確な地図をつくる計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。忠敬一行は寛政12年(1800年)4月、自宅から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての測量となった。5月29日、箱館を出発し、本格的な蝦夷測量が始まった。
一行は海岸沿いを測量しながら進み、夜は天体観測をおこなった。11月上旬から測量データを元に地図の製作にかかり、約20日間を費やして地図を完成させた。蝦夷測量で作成した地図に対する高い評価は堀田摂津守の知るところとなり、摂津守と親しい桑原隆朝を中心に第二次測量の計画が立てられた。最終的に今回は、伊豆以東の本州東海岸を測量することに決められた。
地図は第一次測量のものと合わせて、大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・中図は幕府に上程し、中図は堀田摂津守に提出した。また、子午線一度の距離は28.2里と導き出した。更に忠敬らは第一次から第四次までの測量結果から東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年(1804年)、大図69枚、中図3枚、小図1枚から成る「日本東半部沿海地図」としてまとめあげた。この地図は同年9月6日、江戸城大広間でつなぎ合わされて、十一代将軍徳川家斉の上覧を受けた。

ついで文化3年(1806)年西日本の測量も忠敬が受け持つことになり、続いて四国、九州の測量も行なった。
文化8年(1811)、忠敬らは、前回の九州測量で測れなかった種子島、屋久島、九州北部などの地域を測量した。続いて伊豆七島などを測量する第九次測量と並行して、江戸府内を測る第十次測量をおこなった。
測量作業を終えた忠敬らは、八丁堀の屋敷で最終的な地図の作成作業にとりかかった。
地図の作成作業は、当初は文化14年の終わりには終わらせる予定だったが、この計画は大幅に遅れた。それでも文化14年いっぱいは、地図作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたりしていたが、文政元年(1818年)になると急に体が衰えるようになった。そして4月13日、弟子たちに見守られながら満73歳で生涯を終えた。地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死は隠され、高橋景保を中心に地図の作成作業は進められた。
文政4年(1821年)、『大日本沿海輿地全図』と名付けられた地図はようやく完成した。7月10日、景保と、忠敬の孫忠誨(ただのり)らは登城し、地図を広げて上程した。そして9月4日、忠敬の喪が発せられた。
忠敬は死の直前、私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだ後は先生のそばで眠りたいと語った。そのため墓地は高橋至時・景保父子と同じく上野源空寺にある。また佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓がある。

この頃、天文学に興味ある人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかった。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。そこで江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうかと。
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだったというからすごい。

こうして今まで漠然と日本地図を作った一商人と思っていた伊能忠敬が詳しく調べてみると、遙か手の届かない偉大な超一流の科学者である事が分かった。なにしろ正確無比。あの当時の器具で歩いての測量でこんなに正確なデータが採れるなんて驚き。更に日本の南の端から北の果てまで16年の長きに渡り,55歳から71歳まで測量を続けるこの根性。この偉大な業績は彼の几帳面な性格と長い年月の努力と忍耐の結晶。科学者の鏡。

古くて新しい生物学

2014年01月29日 18:07

温故知新の生物学
  電気製品や自動車などの工学製品のみならず、生物学、基礎医学分野でもめまぐるしい技術革新が起こり,昨日の最新の情報、技術は明日にはもう古くさいものとなっている。私が研究人生を送っている最中に、様々な革新的技術が開発され、研究方法が一新され、多くの重要な生物学、基礎医学のテーマが解明されて来た。その時は分からなかったが、振り返るに生物学、基礎医学の研究史上ここ40年は最も輝ける時代であったように思える。
大発見は技術とアイデアが同期した時におこる。いくらアイデアがよくてもそれを実証する技術がなければ絵に描いた餅であり、逆に技術が進歩していてもアイデアがなければこれまた何も産まれない。このタイミングをうまく握った物が成功者となってきた。

  私が研究を始めた1970半ばは生化学全盛期の頃で、大量の生体サンプルから特定のタンパク質や分子を単離して、その性質を一つ一つ明らかにして行くという手法が研究の主流であった。そのため大量の組織から抽出しカラム操作を行なって精製して行くということが主な仕事であった。

  ところが、1980年代に入るとウイルスやがん遺伝子研究から生まれ生物、医学研究に革命をもたら遺伝子組み替え技術が応用され、様々なタンパク質のcDNAが採られるようになった。特に、生理活性を持つタンパク質の遺伝子は多くの研究者や企業の狩り場となり、激烈な競争がなされた(遺伝子hunting)。cDNAが採られると、目的とするタンパク質は細胞に融合タンパク質として発現させ、アフィニテイークロマトグラフィーを用いてのワンステップで採るという手法で簡単に精製出来るようになった。生化学的知識やクロマトの原理、技術すら知らなくとも実験出来るようになった。あれ程の努力は革新的な技術の登場によって完全に過去のものとなってしまった。

 更に、分子生物学手法が発達して、タンパク質の単離や細胞への発現、更にはタンパク質のノックアウトやノックダウンが簡単に行なえるようになると、培養細胞を利用してタンパク質の機能や作用機序を明らかにするという細胞生物学が隆盛し、物質の精製や代謝研究が主体の生化学はもはや死滅したとさえ言われた。

 2000年代に入って、生物学の最大のテーマ「人ゲノム解析プロジェクト」が完成し、全配列が決定された。ゲノム解析そのものは退屈な作業であるが、全体が決まったとなると、生物、医学に与えるインパクトは計り知れない。ゲノムから全てのタンパク質の一次構造が推定できるので、ごく一部のペプチド配列が決まるとデータベースからたちどころにタンパク質が何であるのかが決定できるようになった。タンパク質の同定も精製せずに質量分析器にかけることで、いとも簡単に出来るようになり、精製してアミノ酸シークエンサーにかけるという事も無くなった。

 その技術を応用して、タンパク質のリン酸化など、タンパク質の修飾部位を決める技術も開発され、それらを使用したプロテオミクスが行なわれるようになった。更に、タンパク質の量の変化、修飾変化が計れるようになると、今度は代謝産物の増減を計るメタボローム解析が起った。代謝産物は様々な酵素の活性の変動の結果として現れ、生体、細胞の状態を反映している。代謝産物の変化を見る事で、病気の診断に役立たり、細胞の状態を見たりしようとするメタボロミクスが流行り始めた。ゲノム解析—プロテオーム解析—メタボローム解析と時代は移って、今や代謝産物を分析するメタボロミクスがトレンドとなっているが、その流行のきっかけを作ったのは古くて新しいがん細胞の代謝研究であった。

 今から100年も昔、1920年代、Otto Warburgは「がん細胞では好気的条件下でのGlucoseの乳酸への代謝が10倍以上も上昇する」現象を見つけた。当時この現象が何を意味するのかは不明であったが、その意味が100年を経て今日明らかとなった。このaerobic glycolysisはWarburg effectと呼ばれ、「がん細胞はglucoseをエネルギー産生に使うよりも、細胞の増殖を起こすため、細胞の構成成分合成への中間代謝産物作りにまわす」ことが分かった。このWarburg effectはがん細胞に必須の特性として、がん治療薬開発のため100年を経た今、再度脚光を浴びる事になった。一時期、生化学、代謝研究は古くさいと思われ、忘れ去られた感があった。しかし現在、代謝ネットワーク研究(メタボロミクス)は様々な疾患の原因追求のみならず、増殖、分化、サバイバルのスイッチとして盛んに研究されている。

 がんが起る原因として老化の過程で、様々な遺伝子の変異が生じ、それらが累積する事が原因であるとする、Knudsonの「multi-hit hypothesis」で説明されて来たが 、実はそうではなく老化に伴って、Warburg effectと同じ代謝変化が起こりそれが細胞をがん化に向わせるという「Geroncogenesis」説が出され注目を集めている。その説では、「老化に伴う酸化的代謝の減少はWarburg effect 様の代謝変化をもたらし、oncogenic な変異を増強する。反対に、アンチエージング効果のあるカロリー制限、エクスササイズやアンチエイジング薬物(赤ワインの成分、resveratrol)などはoncogenic mutationを遅らせる事が出来る」とされる。実際に動物実験ではカロリー制限はがんの発生を抑制する。詳しくは「Geroncogenesis: Metabolic changes during aging as a driver of tumorigenesis. Cancer Cell 25, 12-19, 2014」を参照。
  老化に伴っての代謝の変化、つまりグルコースがミトコンドリアのエネルギー産生の低下により細胞構成成分の脂質や核酸合成に向けられる「Warburg effect」が起こりこれががんを引き起こすという。また糖尿病や動脈硬化など様々な病気も代謝異常によって起るし、単純な糖代謝産物がエピジェネチックに細胞の分化を調節し、その異常でがんが生じる事も分かって来た。かくして今や古くさい学問 「生化学、代謝学」が蘇って流行の最先端となっっている。

  コンピューター、電化製品、工業製品などは技術革新により、より良い新しい機能を持った製品が開発されると、もはや古いものは見向きもされなくなる。しかし生物学研究では温故知新「古きを温めて新しきを知る」が十分通用する世界である。生物学の基本はすでに存在する生物、究極は人間から真実を再発見し、学ぶことである。科学技術は日新月歩であるが、生き物を構築する生命現象は、常にそこにあり、変わる事は無く、生命の法則の神秘が明らかにされることをじっと待っている。

江戸時代の科学のレベル(2)

2014年01月15日 18:11

浪速の天文学者
麻田剛立

江戸時代の日本の科学水準が世界でも一流だったということを前のブログで書いたが、これは国内から自然に湧き出るように科学を行なう人が増え、様々な領域で一流の研究者が輩出した結果だ。今回、それ程名前は知られていない?が、ケプラーの法則(第三法則)を独自に導き出した浪速の天文学者麻田剛立について調べた。

麻田は江戸時代の天文学者 (1734-1799)。豊後国杵築藩出身。幼い頃から天体に興味を持ち、傷寒論などを読み独学で医学、天文学を学んだ。初めての和暦を作った渋川春海は(1639-1715)であるので両者が出会う事はなかった。彼が活躍した時代は春海が亡くなり、元禄文化が終わった宝暦—天明文化の時期であった。

天文学への志やめ難く、38歳に突然杵築藩を脱藩し大坂に入った。その後は麻田剛立と名を変え、大阪本町4丁目で医を業としながら研究を続けた。
 剛立の学風は漢訳西洋天文書の『崇禎暦書』をベースとし、理論を実測で確認するという近代的なもので、西洋よりはるかに劣る機器や技術で、ケプラーの第三法則と同じ法則を独自に発見したといわれる(出典 麻田剛立『五星距地之奇法』)。
 ケプラーは1619年に惑星の運動に関する法則として第一法則(楕円軌道の法則)、第二法則(面積速度一定の法則)、第三法則(調和の法則)よりなるケプラーの法則を発表した。第三法則は惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例するというものである。公転周期の長さは楕円軌道の長半径のみに依存して決まることを意味する。楕円軌道の離心率に依存しないので、楕円軌道の長半径が同じであれば、円運動でも楕円運動でも周期は同じになる。この法則はニュートン力学で導くことができるのだそうだ。
しかし当時日本の天文学者がそうだったように麻田は惑星の軌道を円と認識し、「惑星軌道の半径の3乗と公転周期の2乗が比例する」と言う趣旨の記述をしており、正確に同じ法則を発見していたとは言えない。また一部には麻田の法則性発見に疑問をもつ科学史家もいるが、麻田が惑星軌道を楕円と認識せず、円と考えたうえで上記の法則を記述していたという“事実誤認”は、逆に麻田剛立の発見が彼独自のものであった可能性を強くしている。何れにしても麻田は全く閉鎖された社会で、観測事実に基づき独自に惑星の運動の法則を導き出した。
また麻田はオランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式反射望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記した。8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は後年見つかり鹿毛敏夫がそれを題材に『月のえくぼを見た男』を書いている。アサダと命名された月のクレータは麻田に由来する。

  麻田は自分で集めたデータを基に、独自に法則を見いだし、考察を加えるという現在と同じ手法で研究をおこなっている。世界の情報から隔離された状態で、天体観測し、それを趣味のレベルに終わらせる事なく本(論文)として世に出した。
当時のヨーロッパではコペルニクス、ガリレオなる錚々たる学者が地動説なるものを唱え、すでに地球が太陽の周りを回転しているという事が分かり始め、天文学者の間で盛んに議論されていた頃である。隔離された遠い日本の地で、金もない一学者が、お金も名誉も地位も関係なく、捏造や改竄もなく、純粋に天文学が好きで、このような偉大な業績を成し遂げた事は見習うべきものがあると思う。研究の原点を見るような気がする。

 彼の下には多くの弟子が集まり「麻田学派」と呼ばれる一派が形成された。麻田は1799年65歳で没した。墓は浄春寺(大阪市天王寺区夕陽丘町)にある。彼の死後多くの弟子達、高橋至時・山片蟠桃・間重富らが活躍した。高橋至時は剛立の下に弟子入りし天文学、暦学を学んだ。丁度その頃西洋の天文学をまとめた最新の著書『暦象考成後編』を目にする。そこにはケプラーの唱えた楕円軌道が説明されていた。その理論を習得し、貧しい中、なけなしの金をはたいて望遠鏡を買い、天文学に熱中した。後に幕府の天文方となって寛政暦を作った。彼の業績はそこに留まらず多くの優秀な弟子を育てた、改暦のため江戸にいた時、伊能忠敬が弟子入りし、伊能忠敬に暦学、天文学を教え、文化元年(1804年)に死去した。享年41。遺体は上野の源空寺に葬られている。
伊能忠敬は至時の死後も測量を続け、日本全国の測量事業を完了させた。忠敬はその後の文政元年(1818年)、測量後の地図作成作業の途中で亡くなった。遺言で忠敬は、師である至時のそばに葬ってほしいとの言葉を残したため、源空寺に、至時と隣り合って墓石が置かれている。

麻田によって産まれた麻田学派なるものが、時代を経て、身分を越えて、継承され、高橋至時や伊能忠敬など優秀な人材を輩出し、江戸時代の天文学、暦学、測量学の発展に大きく寄与した。

open access ジャーナル の光と影

2013年12月27日 18:28

Open access journal の問題点
今年も早いものでもう御用納め。今年は皆さんにとって良い年であっただろうか?研究で興奮するような結果が得られたであろうか?
来年こそ良い年で、研究も益々の発展しますように。

研究者にとって研究成果の発表をどのジャーナルに投稿するかは大関心事である。最近では投稿の手続きが簡単で、短期間で掲載されるネットのopen access journalの人気が高い。そのようなopen access journalについての警告がScience 342, 57-74 (2013)に載った。かいつまんで言えば下記のようになる。

旧来のジャーナルは投稿者の誠実さへの信用とpeer review制度の信用の下に成り立って来た。しかしそのような信用はopen accessのネットジャーナルが出現し、失墜してしまった。旧来のジャーナルは雑誌の購読料をとって成り立って来た。しかしopen access のジャーナルは掲載料を取る事で営利を得ている。そのような方式だと利益は出版量に比例して増大するので、当然膨大な数のこなせるネットでの取引となり、審査を楽にして出来るだけ多くの論文を掲載しようとする商業主義がまかり通る。ネット上に掲載するopen accessには多くの正当なジャーナルも含まれているが、ひどいものも横行している。

 ためしに、John Bohannon 氏は全くの捏造論文を304のopen accessジャーナルに投稿してみた。そうすると半数以上のジャーナルにacceptされたという。手軽なため余りにもopen accessのジャーナルが増え過ぎ、科学論文の信用性を確保できない。今や匿名のreview systemは機能できなくなって来た。
新しく作られたopen accessのジャーナルはインドや中国発信などのものが多く、これらの大半は新規性や正確さに関係なくpeer reviewとうたっていてもほとんどがフリーパスで、金儲けのためのジャーナルである事が多い。出来るだけ多く投稿させて掲載し、その掲載料で儲けるという仕組みになっている。

  全く存在しない人物名で、全く存在しない研究所名でJournal of Natural Pharmaceuticalsにでたらめの(架空の)論文を投稿してみた。すると2ヶ月後にはacceptされてしまった。その論文は即座にrejectされるべきひどい論文であったし、高校生クラスの化学の知識があれば論文の欠点に気づきうる程度の論文であった。そこで論文を上で述べたように、304のopen accessのジャーナルに投稿してみた所、半分以上のジャーナルでその致命的な捏造に気づかれず、採択されたという訳だ。
 それらのジャーナルの編集部の存在場所と掲載料を徴収する銀行の場所を特定してみた。するとほとんどが発展途上国に存在しており、掲載料はnet bankingで決済されていた。Journal of Natural Pharmaceuticalsはインドのムンバイに拠点を置くMedknowという会社が発行している270以上のジャーナルの一つであるが、それらのジャーナルには毎月200万回以上のdownloadがある。

open access のジャーナルとして成功した代表的なものにPLOSがある。PLOSは2000年に立ち上げられ、2006年からPLOS ONEが発刊され、現在一巻あたり最大の発行部数をほこる。PLOS ONEは倫理上の問題をclearし、内容が正確であれば重要性を問わないという方針で、多くの投稿論文を集め、年に7000以上の論文が掲載料(1350ドル)払って掲載されている。という事はPLOS ONEだけで年10億以上の稼ぎがあるということだ。

当然の事ながら資本主義社会, このような美味しい話を見逃す訳も無く、続々とopen accessのジャーナルが発刊された。PLOSのようにreviewが編集方針に基づいて行なわれて、質のいい論文を集めているジャーナルはそれでいいが、一応review systemを取るという形にして、多くの論文を集め、お金さえ払えばほとんどfreeで通してしまうという、悪どいジャーナルも横行している。

投稿に際して、そのようなジャーナルに気をつけ、安易に投稿しないという姿勢が大切であろう。ちゃんと実験し、きれいなデータをまとめた結果をこのようなジャーナルに掲載したら、逆にその論文の価値を下げかねない。
しかしドクターを取る資格としてpeer reviewのある英文誌への掲載をうたった大学が多い。ただ博士を取りたいだけの人にはこれらは好都合なジャーナルであるかもしれない。でもこれでは益々博士の質が下がるというものだ。

open accessのon-lineジャーナルへの投稿は確かに早くて簡便であるが、そこにある落とし穴には注意が必要だ。特に高い掲載料をとる商業ベースのジャーナルには引っかからないように、ジャーナルの善し悪しを見分けることが必要だ。

ナンバー2はこうして消される

2013年12月16日 17:37

張成沢氏の粛正

最近の驚きの事件の最たるのは北朝鮮のナンバー2の張成沢氏の粛正。失脚させてどこかに蟄居させるのかと思っていたら、軍事裁判にかけて即刻銃殺刑にしたというから驚き。それも機関銃乱射で身体はバラバラ、その上火炎放射器で跡形無く始末したという。まさに恐怖政治の再たるもの。昨日までは金正恩第一書記の叔父としてナンバー2として権勢をふるっていた。処刑の理由がまたふるっている。「卑劣な手段で国家転覆を計った」「見下げ果てた犬にも劣る人間のくず張はーーー」とまで張を貶めている。なんともいやはや昨日まで持て囃し、天国から一気に地獄へと引き摺り下ろす。このギャップがすごい。一週間で逮捕から、有無を言わさず処刑へと。

ナンバー2の悲哀は歴史的にもよく書かれている。
それは 「飛鳥尽きて良弓蔵われ、狡兎死して走狗烹らる」という故事に尽きる。
「飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は蔵に仕舞われてしまう。狡賢い兎が死んでしまえば、猟犬は煮て食べられてしまう」という中国の古い諺である。言い方を変えれば、「用があれば大事にされるが、用がなくなれば仕舞われたり、食べられたりしてしまう」ということである。弓や犬であれば良いかも知れないが、人間もそうであるとする。


司馬遷は史記の中の「越王句踐世家」で呉越(紀元前585-473)についてのくだりで述べている。越王勾践には范蠡という謀臣がいた。越は呉王夫差により攻め滅ばされ、勾践は命だけは助けてもらっていた。それから20年間じっと我慢の(臥薪)嘗胆を味わいようやく、悲願の呉を攻め滅ぼす事が出来た。呉王夫差は勾践に対して以前にはおまえの命を助けてやったではないかと命乞いをしたが許されず自殺した。
こうして呉を討ち滅ぼすという長年の夢がかない有頂天になっている勾践を見て范蠡は密かに越を脱出した。亡命後范蠡は勾践の家臣の文種への手紙の中で「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る』」と聞いていますが、越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べたが文種はその忠告に従わず、結局自殺に追い込まれる。その范蠡は後陶朱公と名乗って商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。
漢楚(紀元前206-202)の戦い(項羽と劉邦の戦い)中での功労者である韓信は、漢と楚が戦っている内は漢の初代の皇帝劉邦に重用されたが、漢楚の戦いが終わり天下を取ると、あれ程劉邦のために尽くし、漢設立に貢献していても結局殺された。 このような例は枚挙にいとまない。

 ナンバー2の地位はつねに風前の灯なのである。
金正恩にとって北朝鮮王朝を世襲してしばらくは叔父の張成沢は後見人として、独り立ち出来るまでは、頼りになった。しかし、いまや独り立ちし、ワンマン体制も整ってくると、張成沢が邪魔になってくる。また色々な諫言で、疑心暗鬼にもなり、叔父であっても、今はもうお役目ごめんで目障り、将来歯向かうようにならないとも限らない張成沢を今のうちに除こうという気が出てくる。まさにもはや用無し、もはや狩るべき兎がいなくなり、ご主人様に楯突く犬は煮て喰えという事になる。

ここまで生死を伴わない事態でも、このようなたぐいの話はいっぱいある。人間の心理状態は太古の昔でも現在でも変わらない。
会社でのプロジェクト成功の功労をめぐっての上司と部下の争い、会社でずっと一緒に上り詰めやっと社長になったら、一緒に苦労して来た専務が疎ましくなる、研究の貢献をめぐって教授と部下との争い、大きなもの程この争いは熾烈となる。ナンバー2はあくまでナンバー2、ボスあってのナンバー2であることを忘れてはいけない、この喧嘩に勝ち目はない。時々ボスとうまくいかず、けんか別れして、一人で研究室の片隅で、周囲と浮き上がって研究をしている人を見かける。このような状態が一番まずい。意地を張らずにささっと出て行って、新しい所で勝負する方が長い人生幸せである。


人の本質は誰にも邪魔されない地位に上り詰めた後にのみ露呈する。最高の地位に上がるまでは周りに遠慮し、言いたい事も我慢する。しかし誰にも遠慮する必要がない地位に上りつめると、意見されたり、出しゃばられたりするとかちんと来る。もうお前なんか必要ないとなる。
こうして張成沢は粛正されるべくしてされた。彼が粛正されないためには、辞めて隠居し、年老いて弱ったとかぼけたとかを装おうかしかない。

江戸時代の科学のレベル

2013年12月03日 18:39

江戸時代の科学

「堀江もん」が塀の内に入っていた時、インターネットを禁止されていたので、本を良くよく読んだそうだ。彼がTVで言っていたのは、一番感動を受けた本が「天地明察 (作 冲方丁)」で、江戸時代の文化度の、特に自然科学の質の高さを知って感激したんだとか。「天地明察」は一昔前にTVでもドラマで放映された。将軍の面前で碁をうち、碁を指南する家系(それには4家、安井、本因坊、林、井上があった)の安井家の碁師(渋川春海/安井算哲)は本業とは全く関係のない天体学、数学、測量学を極め、不正確であった暦を改め、新しい暦「大和暦」を作ったという話。すでに800年間中国で開発された宣明暦を使っていたため、日時が2日間もずれ、また日蝕、月蝕の予測日時も当然ずれていた。

 最初は暦を中国で使われている授時暦なるものに変えようとするが、この暦でも、日蝕の予報が外れてしまう。これは中国の経度と日本の経度がずれているための誤差が主な原因であった。もう一つ。太陽と惑星は互いに規則的に動いている。しかしその動きは一定でない。太陽は地球に最も近づく時、早く動く。これは秋分から春分までが179日であるのに、春分から秋分までは186日である事から当時でも明らかになっていた。これはケプラーの法則と呼ばれるが、その運行は楕円である。当時は誰もが円を予想していた。
 暦を作るためには「北極出地」を行いまず正確な緯度を測らねばならない。南北の経度と東西の緯度をもって地理を定める時、各々の土地の緯度はその土地にて見える北極星の高さに等しい。春海は地方へ行ってその高さを図り、距離算出、方角確定を行なった。そしてこれらを計算して全く新しい和暦、「大和暦」を完成させた。
 算哲は陰陽師統括たる土御門家を介して朝廷に改暦の儀を働きかけた。それを受け帝は誤謬明らかな現行の暦法を廃し、新たな暦法を採用する由の改暦の儀を発した。新暦の候補は大統暦、授時暦と大和歴であった。帝の勅令はどれを採用するのか,日本中がその裁定にかたずを飲んで見守った。幕府のお役人から庶民に至るまでが勝負に熱狂し、各々の暦を応援した。帝の裁定は下った。大和暦の採用であった。


 その頃、江戸幕府も3代目家光から4代目家綱へと変わり、太平の時代になっていた。2代目将軍秀忠のご落胤会津藩主の保科正之は武士社会の体制を大幅に、武断政治から文治政治へと変えた。以前の武家社会は武芸を磨き、戦闘に備えるのがいい武士だとされて来た。豊臣秀吉が天下を統一するまではそれで良かった。戦闘に勝ち、褒美に部下に勝ち取った領地を与えるという事で、忠勤を励ませていた。ところが、天下を統一してしまうと分け与える土地もなく、論功行賞もできず不平不満が募った。そのため秀吉は朝鮮にまで攻め入って、領土を拡大しようとし、大失策を犯した。江戸幕府はそのような事態が起る事を憂慮し、武闘派たる大名、加藤清正、福島政則などの名家をことごとく改易し取り潰した。更に、飢饉に備えてお米の備蓄や江戸の町に玉川上水を引き、上水道を完備させ、庶民が住みやすい、民の生活向上へと目標を定めた。そのため、庶民の生活も落ち着き、飢える事がなくなると、「衣食足りて礼節を知る」のことわざ通り、江戸文化が開花することとなる。

 余裕の出て来た人々は自分の職業とは関係ない趣味に興じることとなり、生活とはほど遠い、数学や天文学なども武士、町人問わずブームになって、まさにクイズを解くかのように、絵馬として神社へ数学の問題が掲げられ,それを解き合うということが行なわれた。その頂点に関孝和という天才の数学者が現れ、独自に和算なるものを作り出した。同時の日本が鎖国し世界から孤立し、情報が全くなく、独自に考えたのにも関わらず、その内容たるや当時、世界のトップであったというから驚き。「傍書の法」という新たな算法で、現在の代数に近いものを考案し、「解伏題之法」という今で言う行列式なるものも考案していた。

 世の中が落ち着き、生活も安定してくると、心に余裕ができて、文芸から科学に至るまで、直接生活に関わらない文化が花開く。この時代に活躍した人物には松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門や新井白石などもいる。また絵画では緒方光琳や俵屋宗達とそうそうたる人物が活躍し、この後に来るより成熟した文化「元禄文化」で大きく発展する事になる。
 本来芸術や科学は生活に余裕がある所から産まれて来た。しかし現代の科学は現実社会での実用を求める資本主義的競争の中で発展している。精神的余裕よりも札束が科学の進歩を後押ししている。

太平洋戦争における起死回生の秘密兵器?

2013年11月19日 18:15

伊400型潜水艦

太平洋戦争は制空権の戦いでもあった。それに気づいている日本人は極わずか。山本五十六はそれに早くから気づいていた一人であった。そのため無理を承知で真珠湾奇襲を行なった。攻撃そのものは成功したものの、最大の誤算は空母が出払っていなかった事。更には南雲司令官が一波の攻撃で満足し、徹底的な施設の破壊をしなかった事。そのため、肝心な制空権は奪えず、施設の破壊が中途半端だった性もあり、復旧には1年近くかかると予想していたが、直ぐに復旧してしまった。
そのため制空権を是が非でも確保するため、ミッドウェイでの空母おびき寄せ作戦を行なったが、これ又作戦をよく理解していなかった南雲司令官らにより、反対に虎の子の空母を失い、ここに日本の制空権は完全に奪われてしまった。このままだと、日本本土の空爆が目に見え、敗戦への道を転げ落ちる事が目に見えて来た。実際、その後アメリカはB29などの大型爆撃機で東京を初めとする大都市を、邪魔される事もなく悠々と破壊し尽くした。先日も未爆発の大型1トン爆弾が赤羽で見つかり大騒ぎしている様がTVで放映されていた。

山本はこのような事態を打開するため、起死回生の秘密兵器を密かに開発していた。それが潜水空母とも呼ばれている、飛行機を搭載できる潜水艦であった。しかしこの秘密兵器は完成までに時間を要し、深刻な事態を好転するには至らず終戦を迎えた。

その潜水艦は、攻撃機3機を搭載する「潜水空母」とも言うべき空前の大型潜水艦で、最高機密のものであった。 この潜水空母「伊400型潜水艦」は、全長は122mで、ドイツのUボートの約2倍。アメリカの当時の潜水艦のガトー級(全長は95m。全幅8m)と比較しても圧倒的に大きい。排水量は6560トンで、Uボートの約8倍。メインのディーゼルエンジンは4基で7700馬力、Uボートの2.8倍もあった。何と言ってもその特徴は全幅が12mと非常に長いため全水中排水量6500トン、アメリカの潜水艦は総排水量2000トン弱で、その3倍以上という巨大さで、駆逐艦に匹敵する大きさであった。構造は潜水艦を横に2つ繋げたようなタンデム構造を取り、艦の断面図が眼鏡のような形になっている。伊400型の安全潜航深度は100メートルで、約50秒で潜航が出来るという大型艦ではかなりの急速である。燃料も重油1667トンを積め、16ノットで7万キロの後続力があったために、一度も燃料を補給せずに地球を一周することも可能という驚異の潜水艦であった。世界中どこへでも無給油での往復出撃が可能で当時では考えられない画期的な潜水艦であった。
遠い攻撃目標へ到達するために長大な航続距離を持ち、浮上時の交戦も考慮して砲・対空装備も搭載 されていた。特別な飛行機、水上攻撃機「晴嵐」がこの潜水艦に搭載されるために開発され、艦橋と一体化した特殊な水密格納筒に一部 分解して格納された。最初は18隻建造の予定であったが、5隻に縮小され、3隻が完成した。当初はアメリカの大都市への攻撃も考えられたが実際には、戦局も終わりに近づいた1945年4月25日、「パナマ運河夜間攻撃計画」が公表された。晴嵐は全機800kg爆弾を装備した上での特別攻撃隊となった。 しかし戦局の悪化によりパナマ運河攻撃は中止となり、南洋群島ウルシー環礁に在泊中の米機動部隊空母群に目的変更となった。 7月20日伊400と伊401の2船は舞鶴港を出航、8月17日を攻撃予定日として航海を続けていたが、8月16日の終戦を向え、作戦中止命令を受け帰港中、米軍に捕獲された。 「伊400」を日本で出迎えた米・海軍関係者はその大きさ、性能に驚愕し、アメリカ本土に回航されて徹底的に技術調査された後に、日本の潜水艦技術がソ連に渡ることを恐れた米軍は、ハワイ近海で実艦標的として撃沈処分した。その技術調査の成果は後の米海軍の戦略に大きく貢献し、水密格納筒の構造は後のミサイル搭載潜水艦の建造に生かされている。尚、僚艦の「伊401」は長崎県五島列島北方の東シナ海でアメリカ軍の実艦標的として撃沈処分された。

この大型空母潜水艦が事態を好転させるだけの威力があったかどうかは疑がわしいが、戦後のアメリカ軍の見方では3年早く完成していたら、かなりアメリカにとっても脅威であっただろうと述べている。隠密裏に基地や施設の奇襲攻撃が可能となり、例えばニューヨーク空爆の可能性すらある。ニューヨーク空爆は飛行機の数から言って、余大きなダメージは与えられなかったかもしれないが、かなり心理的なプレッシャーにはなったであろう。
そう言う日本も1942年4月に始めて空母からのドーリットル空襲を受け、国民は戦争に負けているのではないかとの心理状態に陥った。更にサイパン陥落後はB29による空襲が日常茶飯事になって行くと、口には出せないけど誰の目にも負け戦である事は明らかになって行った。

蚊の進化と蚊を真似た注射針

2013年11月05日 18:59

蚊の話2題

最近蚊に関連して2つの話題が新聞に載っていた。一つは血を吸った太古の蚊の化石が見つかったという話と、前から話題になっていたが蚊の吸い口を真似た、痛く無い注射針が完成し海外に輸出されるという話。

 アメリカのモンタナ州の川床で腹部が乾燥した血でいっぱいになっている4600万年前の蚊の化石が見つかり、「Hemoglobin-derived porphyrins preserved in a Middle Eocene blood-engorged mosquito」というタイトルの論文が10月14日発行のon line のProc. Natl. Acad. Sci. USAに掲載された
元生化学者で、引退後は米スミソニアン協会国立自然史博物館(Smithsonian Institution National Museum of Natural History)でボランティアをしているDale Greenwalt博士の研究チームがX 線や質量分析装置などを使って蚊の化石の腹部を調べたところ、膨らんだ腹部から、血中で酸素を運ぶヘモグロビンの成分である鉄やヘモグロビンに由来するポルフィリンの痕跡が検出された。

 吸血昆虫には、蚤、シラミ、南京虫、などがいるが、最もよく知られているのはアブなどの仲間で9000種にも及ぶ。蚊はマラリやや黄熱病など広範な病気を媒介するため今まで最も研究されている吸血昆虫である。今回見つかった化石は4600万年前のもので年月が経ちすぎているため遺伝子を抽出することは不可能なため、この血液が何の動物のものかは謎だ。Greenwalt氏は、この古代蚊が、鳥の血液を吸う蚊科に属する現代種に似ていることから、腹部に入っているのが鳥の血液である可能性を指摘している。
1993年にヒットした米映画「ジュラシックパーク」では、琥珀に閉じこめられた蚊から恐竜の血液のDNAを取り出し、欠けている部分をカエルの遺伝子で補完し、これを現生爬虫類(ワニ)の未受精卵に注入することで恐竜を再生したことになっていた。更にDNAの欠損してしまっている部位の代替に使われたカエルが周囲の個体の雌雄比率にしたがって性転換をする種であったため、これが発生時にメスのみを生み出すことで恐竜の個体数をコントロールしようとした意図に反して恐竜が自ら繁殖を始めてしまうという問題を引き起こした。なぜ両生類のカエルを用いるように書かれたのか不明であるが、現在では鳥類が恐竜の直系の子孫であるとされているので、鳥類をベースとして用いるのがより適切だろう。
しかしながら同博物館によると、DNAは約500年で半分が壊れるため、今回の化石より古い恐竜時代の蚊の化石に完全なDNAが残っている可能性はほとんどないという。これまでに発見された最も古い蚊の化石としては、ミャンマーで琥珀に入った9500万年前の蚊が発見されている。真に恐竜時代の蚊であるが、現在と同じような姿をしていて、すでにその時代には蚊は進化のピークを極めていた事が分かる。
 通常蚊は草や果物の汁を食事としている。吸血行動を起こすのは雌の蚊だけで産卵を行なうときだけ、栄養価の高い血を吸う。しかし刺されて,痛く無く、かゆくなければ、気づかれずに血を吸って逃げれるのになぜ「蚊に刺されるとかゆい」ようになっているのだろうか。

かゆみの元は蚊の唾液のせいであることはよく知られている。また
蚊の唾液には血液の凝固を阻止する物質が含まれている。 血を吸っているときに血液が空気に触れて固まっては困るからだ。 人の高度に進化をとげた「血液の凝固因子」を効かなくする物質を作れるなら、 アレルギー反応が起きにくく血を吸えるように、 もうひと進化しても良いのでないかとも考えられる。 そうすれば蚊は安心して血を吸えるし、血を吸われる人からみても、 アレルギー反応が起きないということは、かゆくならないのだから、お互い良い話にも見える。それなのになぜリスクを犯してまで蚊はかゆくする必要があるのか?

  ヒルなどは相手をかゆがらせないで血を吸う。 となると、蚊がかゆいのは、絶対に必然的なことでもない、と言わなければならない。なかなか納得のいく説明は難しいが、人間の方でかゆくなるように進化したという説がある。
つまり、人類と蚊類の進化のなかでは、蚊に刺されてもかゆくならない人間も存在したが、 そういう吸血生物などに無頓着な人間は伝染病などにかかる確率が高いので、 滅んでしまった。つまりウィルス等に感染しないように人間のほうで進化したのではないかというのである。面白い説であるが未だ正解は明らかでない。

2つ目の話題 「蚊の口針を模擬したマイクロニードルの作製」

 生物がもつ特殊な機能や不思議な能力を利用する「バイオミメティクス(生物模倣)」については過去にブログで取り上げた。今回は蚊の吸血針を模倣した痛く無い針を作ったという話が新聞に載った。なぜ、蚊に刺されても痛くないのだろうか。蚊の針は一本ではなく7本で出来ている。上唇(じょうしん)、下唇(かしん)、咽頭(いんとう)、そして大顎(おおあご)と小顎(こあご)が2本ずつ、で計7本だ。それらを駆使して血を吸っている。なかでも重要なのが上唇と小顎の3本。真ん中にあるのが上唇で血を吸う部分。そして、上唇の両側に小顎がある。小顎はノコギリのようにギザギザになっている。 このギザギザが痛みの軽減に役立っている。ギザギザの先しか皮膚に触れないので、その分、抵抗が小さくなりすっと刺さりやすい。さらに、この3本が連動し動くことで、痛みをやわらげている。
 まず、①小顎の1本を突き刺しながら上唇を引く。次に、②上唇を突き刺しながら、2本の小顎をともに引く。③今度は、①とは逆の小顎を突き刺しながら、上唇を引く、そして④最後に、両方の小顎を引いて、上唇をぐっと突き刺す。この一連の動作を1秒間に2~3回繰り返しながら前進していく。加えて、咽頭と呼ばれる針から唾液を出して血液が固まらないようにし、時間をかけて上唇から血を吸っている。この蚊の吸血の機序をじっくりと観察し、関西大学システム理工学部教授の青柳誠司先生は痛く無い針を開発し実用化したのだそうだ。

 痛く無い針と言えば数年前東京の下町の工場で、非常に細い針が開発されたという報道を思いだす。これは非常に針が細いので、皮膚の痛点に触れないで針を入れる事ができるので痛みが無いという理論によっていて、糖尿病患者がインスリンを毎日打つのに、非常に重宝されている。
 今回は更に一歩進化した針で、蚊の吸血から学んで作られた無痛の針だ。蚊は如何にしてこのような複雑な吸血針を進化させたのであろうか?恐竜の時代にはすでに蚊はこの強力な武器を進化して持っていた。そのため、あまりにも生存に強力な武器なので、それ以上の進化せず、太古のままの姿で現在も繁栄し,人を困らせている。更にこの吸血行動を利用するちゃっかり物として、ウエスストナイルウイルスや日本脳炎ウイルス、更にはマラリア原虫などが自分の子孫を伝搬するために利用している。上には上がいるものだ。

過酷な自然環境を生き残った哺乳動物

2013年10月17日 17:57

大量絶滅と哺乳類

  現世において我々霊長類を頂点とする哺乳動物がこの世の春を謳歌できるのは、地球上で何度かの大量絶滅が起こり恐竜などの強力な競争相手が全て滅んでしまったからに他ならない。

  約10億年前に多細胞生物が出現し、その後、8億~6億年前 に起ったスノーボールアース(地球が全て氷に覆われた状態)の間も生物は存在し続けた。多細胞生物は原口を獲得し、強力な捕食能を有するに至り、海底には熱水鉱床などの熱水を発する箇所があり、スノーボールアースの間、その近辺で生物は隔離されて生存できた。このような地理的な隔離は、ガラパゴスとかオーストラリア大陸のように生物の多様性を形成した。スノーボールアースの地理的な隔離の間、どのように捕食するか、どのように捕食から逃れるかの観点から多細胞生物は多様性を形成し、これがエディアカラ生物群やバージェス動物群のような多様性を形成した。カンブリア紀には海洋が地球上のほぼ全てを覆い尽くす。海中では様々な種類に至る海洋生物が現れ、中でも三葉虫等の節足動物が繁栄し、藻類が発達した。およそ5億4200万年前から5億3000万年前の間に突如として今日見られる動物の「門(ボディプラン、生物の体制)」が出そろういわゆるカンブリア爆発が起こった。

大型捕食動物の出現とともに、カンブリア爆発の際には堅い外骨格をまとった動物が多く見られ,更には目を持った動物まで現れ、優位に生存競争を生き抜く進化が起こった。しかしながらカンブリア期で,多種多様な多くの生物が出現し繁栄を極めたが、殆どの生物はペルム紀末に死滅してしまった。そのような大量絶滅は地球の歴史上5回起こったとされる。これらをビッグファイブとよぶ。つまりカンブリア紀以降、5度の大量絶滅(1.オルドビス紀末、2.デボン紀末、3.ペルム紀末(P-T境界,Permian(ペルム紀)-Triassic(三畳紀))、4.三畳紀末、5.白亜期末(K-T境界,Kreide(白亜紀)-Tertiary(第3紀))と、それよりは若干規模の小さい絶滅が数度あった。

中でも3度目の地球史上最大の大量絶滅(ペルム期末の大量絶滅、2億5100万年前)が古生代後期のペルム紀末、P-T境界(約2億5100万年前)に起こり、海生生物のうち最大96%、全ての生物種で見ても90%から95%が絶滅した。古生代にもっとも繁栄を極めた生物のひとつ三葉虫もここで完全に絶滅してしまった。ペルム紀の大量絶滅は、生き残った生物があまりに少ないため生物界での境界線とされP-T境界と呼ばれる。ちなみにもっとも有名な恐竜の絶滅もK-T境界と呼ばれているが、このP-T境界に比べれば規模の小さいものである。
  史上最大規模のペルム紀大量絶滅はなぜ起きてしまったのか?原因は超大陸パンゲアの出現。パンゲアとは、当時の大陸が衝突しひとつにまとまった超大型大陸のこと。このパンゲア完成にともなって火山活動が活発化したことがペルム紀の大量絶滅の原因と考えられている。火山活動によって発生する大量の二酸化炭素は、温室効果を生み気温を上昇させ急激な環境変化(プルームテクトニクスを生み出した。また、メタンと酸素が化学反応を起こし、酸素濃度も極端に低下してしまった。酸素濃度の極端な低下による大量絶滅の直後には、空席になったニッチ(生態的地位)を埋めるべく、生き延びた生物による急激な適応放散がおきた。このとき気嚢を持つことで低酸素環境に適応した恐竜は生き残りその後繁栄を極めることになる。また、横隔膜を持ち腹式呼吸を身に着けた生物種はその後われわれ哺乳類の祖先となった。

  次の大量絶滅(ビッグファイブ第4度目三畳紀の大量絶滅,1億9960万年前)は中生代にあたる三畳紀に起きた。三畳紀ではすでに恐竜が繁栄し、最初の哺乳類も誕生していたといわれている。しかし、この三畳紀でも激しい火山活動などにより地球は低酸素状態になり大量絶滅が起きてしまった。三畳紀の大量絶滅では地球上の生物のおよそ76%が姿を消してしまう。海ではアンモナイトや魚竜、陸では単弓類の多くが死に絶えた。恐竜の中で乾燥に強いタイプの種は生き残るが、多くの大型爬虫類は絶滅してしまった。この大量絶滅を生き残った恐竜たちは空席になった生物的地位を求めてその後急激に進化することになる。三畳紀の大量絶滅がなければジュラ紀の恐竜大繁栄はなかったのかもしれない。原因は再びの火山活動。ペルム紀の大量絶滅によって幕を開けた三畳紀だが、終わりを迎えることになった原因もまた、ペルム紀と同じ火山活動と低酸素化だった。活性化した火山は次々と溶岩を噴出し、大地を焼き尽くしながら生き物たちの住処を奪った。二酸化炭素の増加による温室効果で気温が上昇し環境に激しい変化をもたらした。さらに信じられないことに低酸素化が原因で大量絶滅が起こったペルム紀の酸素濃度が大気の30%なのに対し、三畳紀では最大で5%まで低下してしまった。

  ペルム紀の大量絶滅や、中生代の三畳期の絶滅を生き残り、ジュラ紀,白亜紀には恐竜が全盛期を迎え頂点に君臨した。そのような時に起こった大量絶滅(ビッグファイブ第5度目の白亜紀絶滅,6500万年前)はもっとも有名な大量絶滅だろう。K-T境界と呼ばれるこの絶滅で三畳紀、ジュラ紀、白亜紀と大繁栄を極めた恐竜たちは完全に地球上から姿を消した。この大量絶滅では全ての生物種のおよそ70%が死に絶えた。地上では哺乳類、爬虫類、鳥類の多くが絶滅し、海洋でもほぼ全ての水棲爬虫類が姿を消した。シルル紀から長くにわたって生き残ってきたアンモナイトもこのとき全て絶滅してしまった。そして、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀と大繁栄を誇った恐竜たちも完全に地球上から姿を消すことになった。 K-T境界と呼ばれるこの大絶滅を生き抜いた哺乳類はやがて進化し、恐竜に代わり地球を支配することになるが、 この白亜紀の大量絶滅がなければ高度な文明を築いたのは我々人類ではなく、恐竜たちだったに違いない。

  大量絶滅の原因として最も有力な説は巨大隕石の衝突だ。 白亜紀末に形成されたと思われるクレーターがメキシコ・ユカタン半島で確認されており、 その大きさは直径180 kmにも達する。この衝突で発生したエネルギーは広島原爆の30億倍にあたり一瞬にして見渡す限りを火の海に変えた。発生した地震は人類が経験した大地震の7億倍のエネルギーで揺れだけで地盤は数十メール捲り上がり、数千メートルの高さの津波が発生した。まさに東北大災害時の津波の比ではない。巻き上げられた粉塵は地球全体を多い太陽光を遮断し、光合成を破壊し、数年にわたって酸性の雨が降り、植物は枯れ食物連鎖は完全に崩壊してしまった。

この6500万年前に起こった大量絶滅を最後に大規模な絶滅は起こっていない。しかし地球温暖化、酸素濃度低下や隕石衝突などによる環境の大変化が近い将来に起こり、人類を含む多くの生物種が死に絶えるような事態がこないとは言えない。
 こうして見ると大量絶滅が起こり、その隙間を埋めるように絶滅期の厳しい環境を生き抜いた生物種が、天敵が死滅したおかげで繁栄するようになり、地球上の支配者となり、またそれらの支配者も次に起こった大量絶滅で死に絶え。敵から隠れてひっそりと暮らしていた生物種が大量絶滅を生き残り、次の時代を謳歌し、進化して行く。このような自然環境による生物種の選択が何度も起こり、偶然に恐竜などに隠れてひっそりと生活していた小型の哺乳動物がそれらの試練をくぐる抜け、進化し現在の繁栄のチャンスを得た。しかし次の大量絶滅が起こったなら人類は死に絶え、次に地球上で繁栄するのは何? 別のほ乳類又は爬虫類 又は昆虫?

このような大量絶滅のきっかけを人類が作らなければいいけど。いまや最大の環境破壊者は人で、人類が排出した炭酸ガスによる地球の温暖化は気候の極端な変動を生じつつある。今起こっている現象が更に進み、気温が上がり、巨大な暴風雨が頻繁に起り、北極の氷が解け、海面の異常な上昇が起るなど、取り返しのつかない地球環境の変化につながり、大量絶滅に至らないと誰が言えるであろうか?
恐れを知らない欲深い人類ほど恐い物はない。

なぜ日米開戦を回避できなかったのか(2)?

2013年10月01日 19:02

日本が開戦へ至ったターニングポイント

 日本がアメリカに対し開戦した大きな理由の一つは何と言っても、ドイツ軍機動部隊の破竹の勢いの進撃でヒットラーの勝ち戦に乗り遅れまいと言う心理的要因が働いたことが大きい。その中で、ターニングポイントとなるのが3国同盟の締結と、ドイツの勝ち戦でアメリカはイギリスの援助で精一杯で、太平洋にまで手が回らないだろうと読み、南方へ侵出したことであろう。

a. 三国同盟

当初のドイツ軍の破竹の勢いで、次々とヨーロッパ各国、ベルギーやフランスが打ち破られてしまうと,日本では一度立ち消えになった日独伊三国同盟の締結が再燃して来た。つまりドイツの勝ちに乗じてそのバスに乗り遅れるなの大合唱となった。特にフランスやオランダの敗北により空白となったアジアの資源地帯への侵出,陸軍によって言われ続けて来た南侵政策が現実のものとなって来た。しかし海軍の良識派はあくまでドイツと同盟関係に入る事は、イギリスを援助しているアメリカと敵対関係に入る事であり、日米戦争はなんとしても回避しなければならないと、ドイツと組む事には反対であった。

 しかし当時の大多数の首脳陣はドイツの優勢な戦況に影響され、更に松岡洋介外相の案(ソ連と中立条約を結んで北方の危機を除く)に飛びついた。前年陸軍は独走してソ連の国境を越え、戦端を開いたものの、こっぴどく叩かれ敗北した、いわゆるノモンハン事件を起こして、ソ連との関係が完全に冷えきっていた。松岡洋介はドイツが独ソ不可侵条約を結びソ連との関係も良好であったことから、仲介の労をとっても良いとの提案に乗る案を出した。ドイツに仲介してもらい、日ソ中立条約が結ばれ、日独伊ソの4国協商が可能となりアメリカを敵に回してもやって行けるとの妙な自信が出て来た。後にヒットラーがあっさりと不可侵条約を敗ってソ連国内に攻め込んで、そのもくろみはもろくも外れるのであるが。という状況下、山本五十六の強い反対にも関わらず、ドイツの勝利を確信し、ヒットラーのバスに乗り遅れまいと、昭和15年9月19日(1940年)に御前会議が開かれ、事実上天皇もこれを認め、昭和15年(1940年)9月27日三国同盟締結が公表された。皮肉なことに丁度その頃、ドイツ空軍はBattle of Britainのロンドン空襲で英国空軍に大敗北を (9月15日)を起し,完全にドイツ軍の潮目が変わり始めていた。

b. 東南アジア侵出

  日本が南侵政策を取り、蘭印攻略に手をつけたら、アメリカやイギリスが黙っていないだろうとの考えから強く、ドイツと組んで、東南アジアへ進出する事に山本五十六は反対し、南侵がいかに無謀なことかを示すため、図上演習を昭和15年11月26日から28日にかけて目黒の海軍大学校で行なった。
その結果は巡洋艦以下小艦艇はかなりの被害を受け、飛行機は3分の2を失うとでた。山本は実戦になればもっとひどい、飛行機と潜水艦が相当不足しているとのべ、これでは戦争にならないと結論した。また海軍中央も独自に研究を重ねた結果、いかに希望的観測を持ってしても15年秋から冬にかけて、蘭印に武力進出する事はできないと結論せざるを得なかった。そして装備を増強しアメリカの7割5分に近づける政策がなされた(日本海軍は艦隊がアメリカの75%もあれば日本海軍の質の良さで、その劣勢を充分補え、かつ勝負できるという自信を持っていた)。しかし、何れにしてもアメリカによる通商条約の破棄、様々な経済制裁、がなされ、つぎに石油の全面禁輸がくる事は目に見えていた。このままだとのたれ死にになりかねない。全面的にアメリカと戦争になった場合、日本の抗戦国力は1年半ながくて2年しか保たず,開戦後1年しての海軍力はアメリカの半分程度になると予想され、長期戦はできない事が考えられた。
そのような状況下、南方の資源を確保して長期戦に備えるしか無いという考えが主流となってきた。
 丁度その頃、ドイツ軍の英国爆撃が最高潮に達し、三国同盟が結ばれ (1940年,昭和15年9月27日)意気軒昂、アメリカの圧力を跳ね返す、戦略が練られた(15年の夏から秋にかけて)。しかし運命とは皮肉な事に、その頃をピークにドイツの勢いが失われ、イギリスがドイツ軍の攻撃をしのぐ見通しが得られ、逆に太平洋で反抗をするためアメリカとイギリスの共同戦線計画が練られはじめた。
  昭和15年10月15日の人事で海軍上層部が一新され、反対派は全て、艦隊勤務など、中央から遠ざけられはじめ、戦争体制が徐々に整い始めた。11月15日、及川海相は出師準備の上奏(全軍発動の指令)を行なった。12月中旬海軍国防委員会が発足し第一委員会が積極的に泰仏印を取る政策を押し進めていった。そして昭和16年(1941年)4月17日には対南方施策要項を策定した。しかも精鋭を保ってすればアメリカの7割5分の軍備で対等に戦闘を行なえるとの長年の考えで、鋭意、建造に励み第一航空艦隊と第3艦隊の新設をもって、待望の対米比率7割5分が完成していた(4月10日)。一方で昭和16年4月(1941年)から始まった対米交渉に関しては対米戦争宿命論者の石川信吾大佐らは、アメリカは戦争準備が出来るまでとヨーロッパ戦線の山が見えるまで時間稼ぎをし、交渉を遅らせるだろうと思っていた。その間、日本側も着々と戦争準備を整えていた。

  昭和16年7月28日、陸軍の第一陣が南部仏印のナトランに上陸した。恐れた通り、アメリカは8月1日石油の全面禁輸を通告した。そして1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃まで紆余曲折があったが、石油ショックのためか一時海軍首脳には戦争忌避のムードもあったが、陸軍が対米戦争を強硬に唱え、戦争回避には至らなかった。
 ドイツ軍のモスクワ攻防戦が完全に頓挫したのをアメリカが確認したのが昭和16年11月7日である。
イギリスへの侵攻を諦め、制空権をイギリスに取られたまま、ソ連へと転進し、それもうまくいかずどうやらドイツ軍の旗色の悪さがはっきりと見え始めたのが昭和16年の秋。ヒットラーのバスが勢いを失い、崖に突っ込み始めた。丁度真珠湾攻撃の一ヶ月前のことで、引き返すには少し遅すぎた。

 こうしてみると間の悪い節目に運命を決める出来事を行なっている。ドイツ軍の英国空爆最高潮の情報をもっての3国同盟締結。また破竹の勢いで、今にもソ連が崩壊するとの情報での日米開戦決定。しかしいずれも誤った情報に基づいて判断している。ドイツ軍不利の情報をもう少し早く手に入れていたら状況は変わっていただろうか?
 Battle of Britainでの敗北の後、ヒットラーはダンケルクからドイツ軍を撤退させ、ソ連侵略へ向けたことなどの情報は正しく日本に伝わっていなかったのか?こんな大掛かりな軍の移動などの情報は明らかになっていたと思うが、余りにもヒットラーに心酔していた余り、懸念など入る余地はなかった?ソ連を攻めるやたちまちソ連軍を蹂躙したので安心し切っていたのかもしれない。そのドイツのソ連での情勢が危うくなった時にはすでに時期が遅すぎた。アメリカへ開戦する一ヶ月前のこと。ドイツが負けると分かっていたら参戦しなかったであろう。ドイツの勢いがどうも削がれ始めたと感じた時に、考え直してみたら事態は変わっていたであろうか?

なぜ日米開戦を回避できなかったのか?

2013年09月24日 18:22

緒戦のドイツの大勝利に惑わされた日本

  明らかに国力では劣り、まともに戦っては勝てるはずが無い事が分かっていて、何故開戦に踏み切ったのか。最終的には、米国はハルノートで満州事変以前の状態に戻す事を求め、これではアメリカが日本に戦線布告をしてきたのと変わらないと受け取った。しかしこれはあくまで交渉が終盤にまで行ってしまったための結果で、もし日本が中国に侵攻せず、たとえ中国には侵攻していても、仏印に侵攻せず早くアメリカと妥協できなかったのか。刻々変わる世界情勢、特にヨーロッパにおけるドイツの圧倒的な戦況状態の時、有利な条件で妥協は出来なかっただろうか? 冷静さを欠きドイツにぞっこんの首脳にそんなことできる訳も無いが。又は、ドイツ劣勢になるのを早く察知し多大の犠牲を払ってでも妥協できたら、戦争には至らなかったであろうが,そんな事は可能であったか?

  なにしろ日本を戦争に駆り立てた大きな要素は「ドイツ軍の電撃作戦による、圧倒的な勝利により、ヒットラーのバスに乗って勝ち戦に乗じよう」という雰囲気が強く、更にオランダやフランスが屈服した今、主人のいなくなった蘭印やドイツの攻撃に手一杯のイギリスのいないインド、シンガポールなどを侵攻しようとの考えがあった。ドイツ軍はこの勢いに乗ってイギリスをいずれ打ち負かすだろうと楽観していた。ヒットラーは転進して、ソ連を攻めたが、これも当初は破竹の勢いで、ソ連陥落も時間の問題だと見ていた。
 そうなればアメリカは戦意を失うであろうと希望的観測をしていた。しかし思惑通りには進まず、イギリスは屈服せず、ソ連侵攻は逆にヒットラーの致命傷ともなった。

頼みのドイツ軍が敗戦するなんてことは予想だに出来なかった。日米開戦に至るまでにすでに、ドイツ軍凋落の影はすでに見えていたのに見ようともしなかった。ドイツ敗退の大きなサインは主に2つの戦いで見えていた。一つはヨーロッパの制空権を賭けての戦い、Battle of Britain(昭和15年7月−10月) と2つ目はソ連侵攻でのモスクワを巡っての攻防(昭和16年10月—11 )である。

どのような状況下で日本を戦争に駆り立てる大きな要素の日独伊3国同盟が結ばれたのかと、対米参戦に踏み切った経緯と時間経過について調べてみた。

1. ヨーロッパ戦線

a. ドイツと英国の戦いのターニングポイント, Battle of Britain

1940 年(昭和15年)の7月10日から10月30日までにイギリス上空とドーバー海峡でドイツ空軍(Luftwaffe)イギリス空軍(RAF)の間で戦われた航空戦。 ドイツ軍がフランス占領の後、英国は枢軸国が海峡を渡って攻めて来る事を予想した。予想通り、7月の10日に120機のドイツ爆撃機と戦闘機が英国の海峡にいる船を攻撃し、70機がSouth Walesの施設を攻撃した。英国は機数において600-1300機の戦闘機のドイツ軍にかなわなかったけれど、レーダー網を構築しドイツ軍の攻撃を察知できた。そしてSpitfireという優れた戦闘機を開発した。この戦闘機はいくつかの点でドイツ軍のメッサーシュミットBf109EとBf110Cより性能が優れていた。そしてアメリカ製のBrowning machine gunを装備し1500機のLuftwaffeを撃墜した。ドイツ戦闘機の最大の弱点は単機のエンジンで航続距離が短く、長い時間英国領空で戦えないことであった。
 9月7日にはヒットラーはロンドン空襲に踏み切った。最大の決戦は15日に行なわれた。ドイツ空軍の爆撃機の大編隊が海岸線を越えると同時に待ち構えていた英国空軍のスピットファイヤー戦闘機隊が迎え撃った。さらにハリケーン戦闘隊が続いた。ドイツのメッサーシュミット戦闘機も優秀であったが航続距離の関係で英国本土上空での滞空は20分に限られていた。いきおいドルニエ爆撃機は味方戦闘機の援護無しで戦わねばならなかった。こうして、Battle of Britainの最大の戦闘も夕方にはイギリス空軍の圧勝で終わった。かくしてヒットラーの英国侵攻の夢は微塵に砕け散った。昭和15年9月15日のこの情報や英国侵攻を目指してダンケルクに集合していたドイツ軍がそこを引き払ったことも情報として昭和15年の秋には入手できたはずだ。
この英国の圧倒的勝利で、ドイツ軍は制空権を奪う事が出来ず、結局英国本土への進行作戦Operation sea lionを諦めた。破竹の進撃を続けて来たドイツ軍が初めて挫折した戦いで、ヒットラーは英国への侵攻をあきらめ、兵をロシア攻撃へと向ける事を考え始めた。

b. ソ連侵攻の失敗

1939年8月23日に締結したモロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立があったにも関わらず、1941年6月22日3時15分(昭和16年)、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃した。開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は開戦1ヶ月でミンスクを占領する快進撃を続けた。8月にはスモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援することによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊は壊滅し、キエフ、ハリコフなどが陥落した。この支援により中央軍集団の首都モスクワへの進撃は約1ヵ月遅延した後、1941年9月にモスクワ攻撃に乗り出す。ドイツ軍はクレムリンまであと十数キロのところまで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、赤軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫した。短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。電撃戦を続けてきたドイツ軍にとっては初めてのケースであった。補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。
 ソ連側は日本と日ソ中立条約を結び(1941年4月13日)、更にリヒャルト・ゾルゲなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、日本軍が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入した。
1941年11月7日はモスクワ市が陥落の危機を脱したとアメリカが確認した時である。日本の対米参戦の1ヶ月前。ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の35%、100万人におよび、この年だけで戦死者は20万人に達していた。このような状況の情報を何故日本は知らなかったのか?知らないはずはない。ソ連とはまだ中立条約締結中で、モスクワには駐在員もいたはずである。もし日本がドイツがソ連を攻めた時に同時にソ連を攻めていたら、または攻めるふりをしたらどうなっていたであろうか?

そしてドイツ軍の破滅への序章が始まり、坂道を転げ落ちるかの様に転げ落ちて行った。
1942年にはドイツ軍の一時的な反抗もあったが、冬季が訪れた11月には、ソ連軍の反撃により枢軸軍33万人がスターリングラードに包囲されてしまった(スターリングラード攻防戦)。ヒトラーはあくまで空輸を通じて徹底抗戦を命じるが、空軍の威信をかけて行われた補給事業は失敗し、包囲軍の衰弱と、空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングの権威失墜を招いた。
1943年1月後半、スターリングラードで包囲されていた約10万人の枢軸軍は、第6軍司令官パウルス元帥の決断により投降し捕虜となった.
1944年(昭和19年)圧倒的な物量・戦力差とヒトラーの厳命により撤退すら出来ない部隊はもはや機動戦すら出来ず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ドイツ中央軍集団は事実上壊滅した。
1945年4月30日。ヒットラー自殺。5月7日にフランスのランスで降伏文書の調印が行われた。

ドイツはいずれも緒戦においては破竹の勢いであったが長期戦になるにつれ、敗北が見えて来た。欧州本土を席巻した緒戦の大勝利の時に日本は三国同盟を結び、対ソ連へ電撃的に攻め込んだ時期に対米戦を決めた。もう少し情勢をみて決断できなかったのか? 
長くなるので、日本側の経緯は次回に廻したい。次回は日本サイドからドイツ情勢をにらみつつ三国同盟や日米開戦を決断した経緯について書く。

氷河期

2013年09月05日 18:42

現在、我々は氷河期に生きている事をご存知であろうか?しかし、氷河期とは裏腹にこの夏の暑さはどういう事だ。

現在、この地球上では人を頂点とする哺乳動物が栄耀栄華を誇っている。しかし、これもいくつもの偶然が重なり、地球の環境変化によって、敵対する生物が死滅し、哺乳動物が偶然生き残ったためだと言える。
地球上で起こった生物進化に大きな影響を与えた地球環境の変化としていくつか挙げられているが代表的な物として、1)火山活動が活発化し酸素濃度が極端に低下。2)巨大隕石の落下による粉塵が太陽光を遮断。3)氷河期による地球の寒冷化 などが挙げられる。

氷河期とは南北両極の氷床、山地の氷河が発達している時期を言う。つまり我々が住んで居る地球は現在氷河期にあり、その中の比較的温暖な間氷期にある。 氷河期の中でも気候は変動する。このため、氷河期であっても長く寒い氷期と比較的温暖な短い間氷期が交互に繰り返される。

現在の氷河期は、4000万年前の南極の氷床の成長により始まり、300万年前から起きた北半球での氷床の発達とともに規模が拡大した。更新世に向かうにつれて更に激しくなり、その頃から氷床の拡大と後退の繰り返しによる4万年と10万年の周期が世界中で見られるようになった。最後の氷期(最終氷期)は約1万年前に終った。

人類が進化してきたここ100万年間は、氷期と間氷期が交互に約10万年の周期で交代し、氷床量の変動は、海水準変動(海面の高低変化)に換算して130mにも及ぶものであった。しかし、このような気候と氷床の大変動の周期と振幅をもたらすメカニズムは謎であった。
阿部彩子東京大大気海洋研究所准教授はこの謎を解き、8月8日付けのNatureに発表した。 過去100万年の間、氷河期が約10万年の周期で繰り返しているのは、陸地を覆う氷(氷床)の重さで下の地盤がゆっくり上下するために起こる。 氷床が大きくなると、下の地盤は重みによって数千年遅れて沈み始める。融解した後には隆起する性質があり、上下動は約千メートルにも達する。地盤が沈めば、氷床表面の高度が気温の温かい位置に下がって解けやすくなるなど、上下動は氷床の形成に影響を及ぼす。彼女のグループは、こうした効果や日照量の変化、二酸化炭素(CO2)による温室効果を盛り込んだ計算モデルを作り、北半球の氷床の分布を過去40万年にわたって再現。氷床の重さに応じた地盤の上下が、10万年周期の大きな原因となっていることが分かった。
このような比較的穏やかな氷河期に比べ、地球上で起こった主な非常に過酷な氷河期には原生代初期(24−21億年前)のヒュウロニアン氷期、原生代末期(7.5億年前)のスターテイアン氷期、6.4億年前のマリノア氷期や更に古生代の4.6-4.3億年前のアンデスーサハラ氷期や3.6-2.6億年前のカルー氷期がある。

現在の氷河期とは比べ物にならない苛烈な原生代に起こった氷河期は、過去10億年のなかでおそらくもっとも厳しいものであり、氷が赤道まで覆いつくしスノーボールアース(全地球凍結)を作り出した。スノーボールアースとは、地球全体が赤道付近も含め完全に氷床や海氷に覆われた状態である。通常の氷河期とはスケールも発生メカニズムも違う。 スノーボールアースの状態は数千万年間続き、この間 地球は約 3000m の氷床で覆われた。地球全体の平均気温は-50°C、赤道部でも平均気温は-20°Cになった。海流は気温の変化を緩和するが、この間は海流がないので昼夜の寒暖差も激しい。全水分が凍結して、気候はカラカラに乾燥していた。雨雪も降らない。 しかし、微量の水分が氷から昇華して空気中に戻る。この水分が他所で再度凍結する循環であった。
スノーボールアースの考えは1992年にカリフォルニア工科大学のジョー・カーシュヴィンク教授がアイデアとして専門誌に発表したのが発端である。その後1998年にハーバード大学のポール・ホフマン教授が南アフリカのナミビアでのキャップカーボネイト調査結果などをまとめて科学雑誌サイエンスに投稿し大きな反響を得た。「全球凍結」という壮絶な環境変動が実際に起こったらしいこと、それが原因となって原生生物の大量絶滅(大絶滅)とそれに続く跳躍的な生物進化をもたらしたとされる。たとえば酸素呼吸をする生物の誕生や、エディアカラ生物群と呼ばれる多細胞生物の出現などがスノーボールアース・イベントと密接に関わっていると考えられている。凍結から脱する要素として火山活動に由来する二酸化炭素などの温室効果ガスの蓄積が挙げられる。また、生命についても凍結しなかった深海底や火山周辺の地熱地帯では一定の温度が保たれる場所で生きながらえてきたと考えられている。この氷河期の終結が引続き起きたカンブリア爆発の原因になったと言われているが、この説はまだ新しく現在も論争の的である。古生代に起こったカルー氷期ではスノウボールアース程にはならなかったが、歴史上最大の絶滅、生物種の96%の死滅が起こった。

なぜ「氷河期」が起こるのか。般的な総意としては、大気組成(特に二酸化炭素の減少)と、「ミランコビッチ・サイクル」として知られる、太陽を回る地球の軌道要素(おそらく銀河系を回る太陽系の軌道も関係する)、大陸の配置の組み合わせ、の3つの要素が組み合わされたものがその原因とされている
「大気組成の変化」は特に最初の氷河期について重要な原因とされている。スノーボールアース仮説では原生代後期の大規模な氷河時代の始まりと終りは、大気中の二酸化炭素濃度の急激な減少と、急激な上昇が原因であるとされている
北極圏と南極圏に大陸がどれだけ配置されているかも、氷河期が起こる際に重要であることがわかってきた。特に、新生代氷河期が始まった原因は大陸の配置の変化によるところが大きいとされる。

地球軌道要素は長期にわたる氷河期では大きな原因とはならないが、現在の氷河期の中で交互に起こっている凍結と溶解の繰り返しのパターンを支配しているように見える。

長い地球の歴史において、何億年何十億年という単位での環境の変化,特に炭酸ガス濃度の増減による、気温変化が生物の生死を分け、大量の生物種の絶滅を引き起こし、生物の進化に大きな影響を与えて来た。しかし、現在では自然が起こしてきた環境の変化を人間が引き起こしている。自然では考えられない短期間で炭酸ガス輩出を増加させ、地球を温暖化に向わせ、環境破壊によって多くの生物種の絶滅を引き起こす。人の欲望が長い進化を遂げて来た生物種を滅ぼしている。

夾竹桃

2013年08月26日 18:15

夾竹桃の花を見ると思い出す

地獄の釜の様な熱気の日々で、誰しもがこの暑さに辟易としている。そんな猛暑のカンカン照りのなか、炎天をもろともせず夾竹桃は多くの清楚な淡紅色や真白の花をつける。あの暑い一日もそんな夾竹桃の花が満々たる淡紅色の花をつけ灼熱の太陽にあがらうかの様に咲いていた。それ以来、真夏の暑い時期、夾竹桃の花が炎天下に咲いているのを見ると、青春時代の哀しい記憶が蘇る。
留学直前の忙しい最中のこと、突然学生時代の友の訃報が舞い込んで来た。どういう事情で亡くなったのか、何があったのかも分からず、取る物も取り敢えず駆けつけ、現実とは信じる事が出来ず、茫然としたまま葬儀に出席した。読経の声など耳に届く訳も無く、友との文学談義、古寺巡りなどの思い出が走馬灯の様に浮かんでは消えていった。
最後のお別れ、暑い夏の昼下がりの炎天下、刺すような日差しを浴びながら、悄然と立ち尽くし、焼却炉から出てくる煙が風もなくまっすぐに蒼天へと登って行く様を、うつろな心で見やっていた。
ふと視線を移すと、焼却炉の裏手に2−3本の夾竹桃の樹が植わっていて、紅色の花をたわわにつけているのが見えた。 その花は夏の太陽の日差しにも負けず、霊を天国に導くために咲いているかのように思え、悲しみに打ち拉がれている心に、その紅さだけが残った。一週間後には心の整理もつかないまま、慌ただしくアメリカへと発った。
毎年夾竹桃の紅い花を見ると、この出来事が哀しい青春の思い出として蘇る。

夾竹桃の生命力の強靭さには驚かせられる。夾竹桃がインド原産と知ってやっとその理由が理解できた。原爆投下後の焦土にいち早く蘇り咲き誇ったのも夾竹桃である。
日本へは1724年に渡来。常緑の大型の低木で高さが5m近くになる。枝が多く分枝し夏の暑い盛りに淡紅色の花をつける。白い花もある。竹の葉のように細く、花が桃の花に似ているところから夾竹桃と名付けられた。夾竹桃は葉、茎、根、花、種子などすべてが有毒で、オレアンドリン、アディネリン、ギトキシゲン、ジギトキシゲンなど複数の有毒成分を含んでいる。食べると嘔吐、激しい痙攣や呼吸麻痺を引き起こす。オレアンドリン(oleandrin、C32H48O9)は、夾竹桃に含まれる強心配糖体で、分子量576.73。ジギタリスに類似の作用を持つ。 ヒトの場合、オレアンドリンの致死量は0.30mg/kgで、青酸カリをも上回る
子供大人を問わずあらゆる年齢層で事故が発生している。統計によるとアメリカでは2002年だけでも計847人の中毒事例がある。子供なら葉一枚で死に至る可能性もある。2000年のロサンゼルスで起こった中毒事故では、2歳と3歳の男児が隣家に植栽されていたキョウチクトウの葉を齧って死亡している。親(養父母)がその数日前と死亡当日の夜に彼らが葉を齧っているのを見ていたのにもかかわらず、である。子供が小枝を笛にして遊んでいただけで中毒した事例も存在する。

大気汚染にも強く強靭で育て易い事から、街路樹としてまた公園の樹として利用される。広島に原爆が投下され、焼け野原になった大地、10年は草木も生えないだろうと言われた焦土に夾竹桃はいち早く蘇って、広島市民に復興への勇気と希望を与えたとされる。絶望に打ち拉がれ明日の命さえ分からぬ身に、その清楚な白や淡紅の花が咲き乱れる様は、地獄から一瞬天国をかいま見たように覚えたに相違ない。
それ故、広島市の花として平和公園や広島大通りで、毎年8月6日の原爆の日には一斉に咲き誇る(写真)。毒性の強さとは裏腹に平和の象徴として、反原爆の象徴の花とされる。
今年も真夏の暑い盛りに夾竹桃の樹が紅色の花を咲かせた。

写真 広島平和公園の夾竹桃(今芽旬)より
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研究者のモラル

2013年08月08日 18:28

研究者のデータ捏造、不正経理

昨年はデータの捏造やデータの使い回しなどの不正が明らかになり注目を集めた。その最たるものは東大分生研の加藤教授らによる改ざんや捏造事件で、東京大の調査委員会が、分子細胞生物学研究所の加藤茂明元教授のグループが発表した論文を、過去16年さかのぼって調べた結果を発表した。
英科学誌ネイチャーなどに掲載された論文の実験結果を示す画像に改ざんや捏造が認められ、43本については「撤回が妥当」、10本については「訂正が可能」と指摘されたという。改ざんが認められた画像について、加藤元教授は作成に直接関わっていないが、「重大な責任を負うべき」と結論づけた。

今年になって、社会への影響力が大きく、日本の医薬行政の信頼を完全に失墜しかねない薬の有効性を判定する臨床研究で捏造が発覚した。薬が効いたかの様にデータを改ざん捏造が行なわれたが、それも異なった大学2カ所での同じ薬剤、ノバルティスファーマの開発した高血圧治療薬「バルサルタン」の効果の捏造で、明らかに人為的だと思われる。
まず最初に明るみにでたのは京都府立医大の松原弘明元教授(56)らが行った臨床研究についてで、府立医大はデータに問題がなかったかを検証し、論文に使われた解析データが人為的に操作され、バルサルタンに有利な結果が出ていたとの調査結果を発表した。調査では、臨床研究で対象にした約3千件の症例のうち223件のカルテを確認。論文のもとになったデータと比較したところ、カルテに記載がなかった病気が論文データでは存在するなどの不一致が34件あった。バルサルタンを使った場合、他の降圧剤に比べ脳疾患や心臓病のリスクが減ると結論付けられていたが、正しいデータを使った検証ではこうした結果は得られなかったという。

もう一方の不正が行なわれた慈恵医大では望月正武教授を責任者として研究がなされ、高血圧患者約3000人を、バルサルタン服用の約1500人と別の降圧剤服用の約1500人とに分けて、経過を比較。「バルサルタンには他の降圧剤と比べ脳卒中を40%、狭心症を65%減らす効果があった」などと結論付け、07年に一流英医学誌ランセットで発表した。調査では発症数をごまかした形跡はなかったが、ディオバンの有効性を導くための基礎的なデータとなる患者の血圧値について、大学の保有データと論文に使われた671人分のデータに86件(12・8%)の不一致がみられた。研究に参加した医師が大学保有データ以外を書き換えることは不可能だったことから、元社員が解析用データを意図的に操作した疑いが強いと結論づけた。

降圧剤バルサルタンに血圧を下げる以外の効果もあるとした臨床試験疑惑で、東京慈恵会医大の調査委員会は7月30日記者会見し、「データが人為的に操作されており、論文の撤回」を決めた」とする中間報告を発表した。販売元の製薬会社ノバルティスファーマの社員(5月に退職)が統計解析していたと認定し、「本人は否定するが、元社員がデータ操作をしたと強く疑われる」と指摘した。また京都府立医大の臨床研究にも同じ社員が関与しており、開発販売元の会社に勤めている社員が所属を伏せて関与していた点は極めて人為的である。また京都府立医大があたかも自分たちは被害者の様に、ノバルティスファーマ社の社員が一方的に捏造したと、病院へのノバルティスファーマ社の出入りを禁じたのもおかしな話である。論文は松原弘明元教授の責任のもと出され、重大な責任は学校側にも存在する。同じ事が慈恵医大のケースにも当てはまる。共同研究者や研究責任者は全く研究を把握し、議論すらしていなかったということか。こんな大掛かりで根本的なデータの捏造を見過ごしていた責任者の責任は大きい。多額の寄付金を製薬会社からもらった見返りに薬の効果をでっち上げるなどと言う事は決して行なってはいけない事など誰でも分かる。

薬の効果判定がいい加減に行なわれていた事は、薬事行政への信頼の失墜と、何を信じて良いか分からない患者の不安など社会に与えた影響は計り知れない。ノバルティスファーマ社は、慈恵医大と既にデータ操作が判明した京都府立医大の論文(既に撤回)を使って大々的に薬を宣伝し、売り上げが1000億を越えている。しかし、その科学的な根拠は事実上消滅した。日本の医薬研究史上、類を見ない不祥事となった。製薬会社と医師の癒着が起こる誘惑は両者側に充分存在する。でも決してその線を越えては行けないことなど研究者なら最低自覚してなければならない。

研究結果の捏造や改ざんのみでなく、研究費の不正使用も目立つ。まずは京大薬学の辻本教授による収賄事件。
東京地検特捜部は昨年7月、収賄容疑で、京都大学大学院薬学研究科元教授、辻本豪三被告(60)=公判中=を逮捕。辻本被告は、物品納入に便宜を図った謝礼と知りながら、平成19~23年、飲食代金や海外旅行の費用計約643万円を業者側に負担させたとされる。

 辻本被告はゲノム(全遺伝情報)創薬科学の第一人者。贈賄側の業者は、辻本被告の京大への転籍に合わせて、京都事務所を立ち上げるなど、長年近い関係にあった。「接待攻勢は日常茶飯事。自社のクレジットカードを渡して『自由に使ってくれ』と言われていた。

更に、最近TVや新聞紙上をにぎわしているのは東大政策ビジョン研究セ ンター教授、秋山昌範による詐欺事件で、この件については余りにもお粗末としかいいようがない。本人が積極的に研究費をだまし取ろうとしたとしか考えられない。こんなことまで研究者がするようになったのか?全くモラルの欠片も無い。

東京地検特捜部は7月25日、国の研究費約2 100万円をだまし 取ったとして、東京大 学政策ビジョン研究セ ンター教授、秋山昌範 容疑者(55)を詐欺 容疑で逮捕した。逮捕容疑は、201 0年3月~11年9月の間、システム販売会社 など6社の役員ら6人と共謀。自身が関わる国 の研究事業を巡り、データベースの作成業務などを6社が受注したように装い、国から東大に 支給された研究費を6社に振り込ませ、計約1 890万円をだまし取ったとしている。10年 2月には、共同研究をしていた別の教授が在籍 する岡山大に支給された研究費についても、同 様の手口で約290万円をだまし取ったとされ る。関係者によると、各社はデータベースの作成や調査業務などを受注したが、これらの業務を秋山容疑者の親族が取締役を務める東京都内のコンサルティング会社にさらに外注。受け取った研究費約2180万円の多くを委託費として同社に支払っていたという。特捜部は各社が受けた業務は架空だったとしている。

基礎論文の捏造改竄に始まり、更には製薬企業との癒着により、高額の寄付金を得る代わりに、臨床データの改ざんで薬が効いたかの様に見せかけるという悪質なものとなった。一方、相変わらず研究助成金の不正流用が行なわれ、それを私的な事へと使うという不正が一挙に積極的に助成金をだまし取ろうという詐欺へとこれまた悪質さがましている。
こうして見ると研究者に求められるモラルの低下が起こっているのであろうか?特に薬の効果判定が信用なら無いとなると生命にも関係し、日本のデータは信用ならないと欧米で日本の開発した薬が使ってもらえない状態にもなりかねない。そうなれば医薬産業を発展させて行こうという日本の意図をもくだしかねない。モラルの低下は社会の風潮ではあるが、今までは何も言われなくとも個人のモラルの意識で何をやってはいけないのかが分かっていた。それが日本の、親切で、信頼をうらぎらない、安心のできる心地よい社会であった。それが次第に薄れ、欧米と同じ、ぎすぎすした、行き過ぎた個人主義的な社会となって、モラルなどいっておれない社会になってしまったとしたら哀しい。

研究者にとって、大切な事は事実をありのままに書き、それに基づいて議論し、けして捏造や改ざんはしないこと、また助成金の使用にあたっては使い勝手が悪くても、決められたルールは守るというのが最低のモラルである。


ある科学者の死

2013年07月22日 18:32

猛暑の夏に思う
異常に暑い日が続き、それに追い打ちをかけるように局所的な豪雨が起こり、日本の気候が亜熱帯化してしまった感があります。そんな暑い一日、あがらえない運命の中で人は生きている事を思い起こさせるショックなニュースが飛び込んで来ました。
すでにTVでご存知の様に東京電力福島第一原発事故当時の所長、吉田昌郎さん(58)が7月9日、亡くなりました。メルトダウン事故で建屋が爆発し、極限状態の中で復旧の陣頭指揮を執り、官僚的な組織で凝り固まり、日本の将来、東北の将来、子供達の将来より自分達や東京電力の組織の保身のことしか考えない人が多い中で、原子炉を爆発させたら、東北が、日本が無くなるとの強い危機感を抱き、高い放射線、混乱の続く現場で不眠不休の活躍をし、東京の東電本店や首相官邸からの無理難題にも原子力の専門家として信念を持って対応し、原子炉の爆発をくい止めた。更に,その後は事態を収拾するため,現場の人たちと協力して最前線で、獅子奮迅の働きをした。しかし、病に倒れ、現場を離れなくてはいけなくなり、病院に入院し、治療の途中でついに帰らぬ人となってしまった。本人にとって道半ばにして逝かれた事は誠に無念であっただろうと推察される。運命の過酷さを思い知らされる暑い夜となった。
経緯を振り返って見ると、震災翌日の2011年3月12日、事故の拡大を食い止めるため、吉田さんは官邸にいた東電上層部の意向に反する行動をとる。地震や津波により原子炉の爆発が憂慮されるというのに首脳陣はまだその事態の深刻さに気づいていなかった。午後7時過ぎ、1号機の原子炉を冷却する淡水がなくなり、現場では海水の注入を始めた。直後、官邸に詰めていた武黒一郎フェローから吉田さんに電話が入った。「今官邸で検討中だから、海水注入を待ってほしい」。海水を注入すれば原子炉が2度と使えなくなる。この時点でも原子炉をどうにかしてまた使いたいという東電の思惑があった。本店とテレビ会議で対応を相談。本店側は中断もやむを得ないと判断したが、吉田さんは海水注入を止めれば事故が悪化すると考えた。担当者を呼んだ。「これから海水注入の中断を指示するが、絶対に注水をやめるな」とマイクに拾われないように小声で指示し、海水注入を続けた。この独断とも言える迅速な処置が原子炉の爆発を阻止した。
東電の上層部からはその不遜な態度に評判は必ずしも良くなかったが、親分肌の性格は部下や作業員や下請け業者からは慕われ、信頼は厚かった。
常に部下達の先頭に立って危険な作業の陣頭指揮をし、死を覚悟して原発事故の収拾に最善を尽くした。しかし運命とは皮肉な物で、惨事から8ヶ月あまり経った頃、食道癌が見つかり、療養で退任する事になった。更に悪い事にリハビリ療養中に脳出血を起こしてしまう。
58歳で永眠。彼の死は「人とは、人の生き様とは」をあらためて考えさせてくれたショックな出来事でした。人の命の儚さ、命を賭してでも自分の信念を貫き通さなければならないという思い。一人の科学者として懸命に生き、その生き様の壮烈さを教えられた。ご冥福を祈る。

インパクトファクター(2012)は凪状態

2013年07月01日 18:44

変わり映えのないインパクトファクター

否応無しに研究者に取って意識させられるのはインパクトファクターである。通常はインパクトファクターの高い雑誌に掲載されることは嬉しいが、それ程のこだわりはない。しかし新たなポストを探す時などにはインパクトファクターが重要な意味を持ってくる。学校によってはインパクトファクターの高いジャーナルを要求される事もあるし、全ての論文の総引用が4000とか5000以上で足切りされるという事もしばしば聞く。研究は少し分野が変わるとその重要性を理解する事が難しい。インパクトファクターで比較すれば簡単に優劣がつけられる。そのため評価の時インパクトファクターが重宝される。

2012年のインパクトファクターが発表された。こんなことも珍しいが今年は波乱も無くほぼ昨年と同じ傾向であった。新たな研究動向、iPSやmiRNAなどの研究が一段落したためか?
New England J Med.の51.658を筆頭に、Lancet(39.06)と臨床のジャーナルが1、2位を占めたのも昨年同様。それに続いて基礎系のトップがNatureでIF:38.597,更に Nat Gent(35.208),Cell(31.957),Science(31.027)と続き、30以上で順位も昨年と全く同じ。相変わらず御三家は強い。そしてNat Immunol(26.199), Cell Stem Cell(25.315),Cancer Cell(24.755),Nat Methods(23.565), Nat Med(22.864), Nat Chem(21.757), Nat Cell Biol(20.761)と続き、軒並みCell及びNatureの姉妹紙が独占状態の20以上の超一流誌。

20以下はImmunity(19.795)が他に水をあけ、Brit Med J(15.766),Neuron(15.766), Mol Cell(15.28), Plos Med(15.253), Nat Neurosci(15.251), Circulation(15.202), Cell Metabo1(4.619),Genome Res(14.397), Natl Cancer Inst(14.336),J Exp Med(13.214), Nat Chem Biol(12.948), Dev Cell(12.861), J Clin Inv(12.812), PLos Biol(12.69), Gene Dev(12.444),Hepatology(12.003), Nat Struct Mol Biol(11.902), Cir Res(11.861), AM J Human Genet(11.201)と続く。昨年10以上に入ったJ Cell Biolは今年もその地位を保って10.822と検討。Cell Res(10.526), Genome Biol(10.288), Nat Commun(10.015)までが10以上で一流誌。これを見ても分かるようにCell 関係の姉妹紙が5誌、Nature関係の姉妹紙が4誌この中に入っている。そのためか学会誌の多くは10以下にキックアウトされている。

10 以下5まで多くのJournal がひしめいている。Brain(9.822), EMBO J(9.822), Proc Natl Acad Sci(9.737), Curr Biol(9.494)と続くが、EMBO J, PNASやCurr Biol は悲願の10以上にはならず。Blood(9.06), Cytokine growth FR(8.831)に続く、 Cancer Resは昨年(7.856)より伸びて8.65と躍進。更にPLos Get(8.517), Cell Death Diff(8.371), Nucleic Acid Res(8.278), PLos Pathlog(8.137)と続く。Nat Protocは昨年の9.924から7.96へとNatureの姉妹紙では唯一大幅に落ちた。Diabetes(7.895), EMBO Mol Med(7.795), Stem Cell(7.692), Human Mol Genet(7.648),Sci Signal(7.648), J Pathol(7.585), Oncogene(7.257), J Mol Cell Biol(7.308), Mol Cell Proteomics (7.241), EMBO Rep (7.189), J Neurosci (6.908), Physiol (6.762), Mol Onc (6.701), Development (6.208), J Cell Sci (5.877), Aging Cell (5.705), FASEB J (5.704), J Immunol (5.52)、Mol Cell Biolが5.372と多くのジャーナルがこの範囲(IF:8-5)にひしめき、 ここまでが5以上でいわゆる中堅誌。

5以下はBBA Mol Basis Disease (4.91), BBA Mol Cell Res (4.808), Biochem J (4.654), Traffic (4.652), old brandのJ Biol Chem は昨年の4.773から4.651へとさらに低落傾向が続いている。Mol Biol Cell も昨年の4.942から4.604へと低落。 Metabolomics (4.433), J Lipid Res (4.386), BBA Mol Cell Biol Lipid (4.134), Proteomics (4.132)で new faceで人気のPLos One(3.73)もどうした事か昨年(4.092)よりIFを落した。

国内の生命科学関係の英文誌は全て低空飛行であるが昨年に比べて上昇傾向にある。 Cancer Sci(3.479、昨年は3.325), Gene Cells (2.731,昨年は2.68), J Biochem (2.719, 昨年は2.371)。 しかし最下位のCell Strut Functは1.647と昨年より更に落ち込んでしまった。

今年は殆ど昨年と同じ傾向で、目新しさはあまりないが強いて言えば、Nat Communの躍進で昨年初めて出たIFが7.396それが今年は10.015と大幅に伸び、Natureの名前の欲しい人の穴場だったのもつかぬ間、上位グループへと駆け上がってしまった。一方、同じようなjournalのSci Signalは昨年の7,499から7.648と殆ど変わらず、Science誌に比べ相変わらずNature誌の戦略はうまい。また最近は流行に乗ってプロテオームやメタボローム関係のjournalが増えてMol Cell Proteomicsが7.251,Metabolomicsが4.433でProteomicsが4.132とまだIFは低いがじわじわと上昇している。またJBCの凋落がいつになったら止まるのだろう。昔はJBCに出す事がステータスであり、お世話になった身としては早く復活して7点代くらいまで上昇して欲しいと願うばかり。

蜘蛛の糸を人工的に作り出すことに成功

2013年06月17日 16:57

蜘蛛の糸の工業化

蜘蛛の糸は軽い上に強度は鋼鉄よりも強く、それでいて収縮性にすぐれた夢の繊維と言われ、その実用化ができれば応用性は計り知れない。

先日TVを見ていたら山形県鶴岡市の慶応のバイオベンチャーのスパイバーで蜘蛛の糸の量産化に成功し、蜘蛛の糸で編んだドレスを作ったというニュースをやっていた。蜘蛛の糸は以前にBlogでも取り上げた生物の持つ機能を模倣して役に立つ物を作ろうという生物模倣製品の中の最大の目標の一つであった。鋼鉄よりも強い強度を持ち、ナイロンよりも伸縮性のある蜘蛛の糸の量産化ができれば、自動車の車体や飛行機の胴体から破れない服などその応用性は計り知れない。天然素材であるので人工血管などの幅広い医療応用も考えられ、石油製品と異なり、環境に易しい。世界中の研究者がその量産化を狙っていたが、プロリンを多く含むタンパク質の微生物での発現は非常に難しく、宇宙開発のNASAでもgive upしたくらいであった。そのように非常に発現させることの難しい蜘蛛の糸を発現し易いように遺伝子を改変しついに蜘蛛の糸の大量発現にこぎ着けたそうである。市場に製品として出回るのは4−5年先だそうであるが、それが楽しみである。いよいよスパイダーマンの実現も夢ではなくなった。

スパイバーの関山和秀社長(30)は成功すれば何兆円もの経済効果がある。蜘蛛の糸で新しい産業を生み出したいと大きな抱負を述べている。日本の将来を切り拓くのはこのような人物であろう。

歴史はゆがめられて伝えられるー大悪人田沼意次?—

2013年05月28日 17:46

アベノミクスと田沼意次
歴史は時の権力者によってゆがめられ、権力者に都合に良い歴史書となって後世に伝えられるので事実と異なる事が多い。江戸時代に財政改革を行なった田沼意次もその一人で、悪徳役人の典型として伝えられている。

その田沼意次が今話題となって再評価されている。現在のプチバブルの世相が田沼意次の時代と似ているともいう。しかし田沼意次が財政改革のために行なった政策は江戸時代改革だとみなされていなく、大失敗だとされているし,人物も賄賂政治を行なった悪徳役人として評判も悪い。

江戸時代の3大改革と言えば8代将軍徳川吉宗が中心となって進めた「享保の改革」。2つ目は老中の松平定信の「寛政の改革」。3つ目が老中水野忠邦の行なった「天保の改革」だ。これに対比されるのが享保の改革と寛政の改革の間に位置する田沼意次時代。実は3大改革が目指したのも田沼意次が目指したのも幕府財政の安定。江戸時代は武士の給与も農民の税金もお米で。お米がお金と同じ役割をはたしていた。3大改革で新田開発をし、働き手を都市から農村に移した結果,米の生産量は飛躍的に増えた。お米の生産量が増えたと聞くと国は豊かになる様な気がする「が、実はそうではない。生産量が増えれば増える程、財政は逼迫していったのです。幕府は武士の給料をお米で払っていましたが、市場での物の売り買いに使われるのはお金。だから生活をするにはお金がいります。武士はお米でもらった給料をお金に変えて生活していました。お米の生産量が飛躍的に増え、市場に出回るお米が増えると,お米の価格の下落を生じてしまったのです。その結果は武士の給料が減る事とおなじなのです。この事は石高制を取っている幕府の財政でも同じ結果を招きました。つまり3大改革は皮肉にもお米の価値を暴落し幕府の財政を逼迫させて行ったのです。

反対に田沼意次は商工業を重視しそこから税金でお金を取るという事をしました。つまり今と同じお金を中心とした経済活動です。幕府の財政を救うため大商人たちの経済力を利用して積極的な政策をとり、幕府直営の座を設けて銅や鉄などを専売にしたり、一般商工業者の株仲間を積極的に公認して運上冥加金を徴収したり、海産物の増産に務め中国に輸出するなど幕府の収入の増大をはかったのです。現在ではこのような改革、商工業を重視して米ではなくお金としての税収を増やすことで財政の立て直しを測る事は健全な財政改革だと認められます。しかし田沼意次の改革は全く認められませんでした。田沼が失脚すると松平定信は田沼の行なった政策を全てやめ、もとのお米中心の政策に戻ったのです。そして田沼意次を賄賂政治をおこなう悪徳老中だと決めつけたのです。

3大改革や田沼の改革も共に幕府の財政立て直しのために行なわれたものなのですが幕府は農業重視政策(重農主義)だけを改革として商工業重視政策(重商主義)は完全に邪道だと決めつけたのです。さらに幕府は幕末に至まで重農主義にこだわり、財政は常に困窮したままでした。
幕府の石高700万石に対し薩長合わせて114万石でした。こんな小藩が何故幕府を倒す事が出来たのかの大きな理由の一つは幕府が重農主義にこだわって財政難に喘いでいたのに対し、薩長は重商主義に舵を切り、商工業を盛にして、貿易も行ない財政が豊だった。そのため大量の銃器などを買い入れる事が出来たわけです。

今行なわれているアベノミックスによる商工業を発展させ財政再建をなしとげようとする、どちらかというと歳出を押さえるというより、景気を浮揚させて歳入を増やそうという政策はまさに江戸時代に田沼意次がやろうとしていた改革と同じなのです。
現在では田沼意次によって行なわれた改革が見直され、3大改革だとしてきた江戸時代の改革が反対に失敗なのではとする意見が優勢になりつつあり、教科書なんかで習った田沼意次批判はお門違いだと考えられ、歴史が書き換えられようとしている。

何が正しくて何が間違いなのか時の為政者が都合良く書いた歴史に惑わされないようにしよう。またある局面では正しい事が別の局面では正しくないということが往々にしてある。ものごとをあまり決めつけないようにして、柔軟に多角的に考える能力を養いたいものである。
参考 「学校では教えてくれない日本史の授業」井沢元彦著

競争嫌いの皆な仲良くやろうやの日本人

2013年05月16日 18:38

和を持って尊しと成す

今やグローバル化によって、欧米の様に個々の人間がお互いに競争し、勝者と敗者が選別される、格差社会になってきた。しかし日本人は本質的には争いを好まない、和を尊ぶ民族である。人と争わず話し合い(談合)で決めたがる日本人の精神構造は歴史的にどこから出て来たのか?

これは聖徳太子の憲法17条の「和を持って尊しと成す」より出て来たと言われている。その条文の最後に話し合えば「ことがらは自ずから道理にかない、何事も成し遂げられないことはない」といっている。しかし皆と話し合って決めたからといってその結論が常に正しいなんてあり得ない事は小学生にでも分かるし、ネゴシエーションに時間のかかる効率の悪さを抱えている。

日本では独断専行型のリーダーは嫌われ、かならず前もって根回しをするという習慣がある。そのため前もってこうするという話をされてしまうと、公の席での反対は難しい。初めから結論は決まっているのだからやるだけ無駄という会議が重要な会議程多い。それでも会議をして公に公平に決めたという形を取りたがる。そしてもう一つの日本の特長は責任者をはっきりとさせないこと。特に官僚機構は集団体制で物事にあたり、みんなが承認するので失敗してもだれも責任をとらない。これもみんなが話し合って決めた事だから間違っていたらそれで仕方ないとなる。更にみんなが話し合って決める事は全ての関係者が良かろうと思う事だから、規制する側もきつい事を言わず、業者となあなあの関係になり、原発の立地条件や、規制に関しても緩い条件になる。

地震、津波によって原発が破壊されてやっと、東京電力のいい加減さや規制官庁の緩さが分かってきたし、他の電力会社も適当に表面を取り繕って来ていた事が露呈した。

ではこのような話し合い(談合)で決める事を完全にやめ、自由競争制度にし一切の前もってのネゴシエーションなしにして、日本社会はうまく回って行くのであろうか?
なにしろついちょっと前まではゆとり教育とか言ってまさに競争しない仲良く和を持って尊しと成すという聖徳太子の精神そのものの教育をおこなってきたのが、世界がグロバル化して経済的競争が激しくなり、その精神では競争社会を勝ち残れないとなると、今度は一変してグローバルな競争に勝てる人物を育てようとなる。そのような競争社会は日本人になじまないと分かっていても、中国、韓国、アメリカと渡り合って行くにはそれを受け入れるしか無い。
「和をもって尊しと成す」精神の崩壊はストレス社会を作り、落ちこぼれを生み出し、鬱病にかかる人の多い社会になる。しかしこれは日本が世界に一流国として生き残るためには避けてて通れない宿命。
今までの誰にでもカンファタブルな落ちこぼれを作らない「和をもって尊しと成す」古き良き時代の終焉であろうか。

若い諸君は強い気を持ってこの弱肉強食の社会に、勝ち残れないまでも、生き残って優しい和の精神を忘れずに弱者をいたわる心を忘れないで欲しい。

長期戦の戒め

2013年04月30日 18:15


兵は拙速を聞くも未だ巧みの久しきをみざるなり
            孫子 作戦編
戦争においては、たとえ戦果が不十分な勝利であっても、速やかに終結に導くことによって戦争目的を達成したということは聞くが、これに反し、完全勝利を求めて戦争を長期化させ、結果がよかった例を、いまだ見たことがない。

孫子の兵法では作戦を立案するにあたって、完璧な勝利にこだわることによる、戦の長期化を戒めている。その理由は長期戦で良い結果が得られたことがないからという単純な経験則だ。

この作戦を忠実に守りいい結果につながった例。
日露戦争当時の両国の軍事力の差は歴然とし、まともに戦って勝てる相手ではなかった。そこで兵力の差を認識していた日本軍は、満州の全兵力を結集し、ロシア軍の主力との一大決戦に活路を見いだす作戦を立てた。最初から背水の陣である。
しかし、ロシアがバルチック艦隊を極東に送る方針を立てたため,このバルチック艦隊にあたる兵力を用意する必要が生じた。軍の再編成にとりかかり、満州軍総司令部を発足させた。大山巌が総司令官となり補佐役の総参謀長に児玉源太郎が配された。大山と児玉が受けた任命は複雑な面を持っていた。戦いが長期化すればする程、絶対的な兵力の差が日本にとって重荷になる。緒戦でロシアを叩き、頃合いを見計らって講和に持ち込むことが要求された。

日本軍は9月に遼陽を占領したのを始め,翌年の1月に乃木希典を司令官とする軍が苦しみながらも旅順を占領する。ロシア軍は奉天に兵を集め一大会戦に持ち込むが、日本軍の前に敗退した。さらに日本軍はロシア軍を追い込み消滅させようとの機運が高かったが、冷静な児玉はロシア軍は3ヶ月もあれば3倍の兵を持って戦いに挑める能力をもつが、日本軍の消耗は激しくこれ以上の戦闘は不可能であろうと判断していた。そこで児玉は戦場を離れ東京に取って帰り、講和を政府の首脳に解いて回り、8月に満州権益を確保する講和条約を結ぶ事に成功する。ただ講和にあたって、戦利品が少なく、ロシアへの譲歩が目立ったため国民からの突き上げをくらい、暴動騒ぎになった。児玉にしてみれば、どんなに不人気でも不利な条件でも大衆を敵に回しても講和を結ばなければならない、全く日本には余裕が無いという事が分かっていた。状況が読めない、目がくらんだ欲の皮の突っ張った大衆に迎合していたら、国家百年の計を誤るところであった。
日露戦争における一番の功労者であるはずの児玉源太郎はあまり人気がない。一方203高地攻略に多くの部下を死なせて、やっと旅順を落とした乃木希典はスタンドプレイがうまく、天皇のお気に入りでもあり、人気絶大で、乃木神社として死後も神として祀られた。

逆は第二次世界大戦のアメリカとの戦いであった。山本五十六は緒戦で真珠湾を叩き、出来るだけ早く講和を結ぶことを考えていたが、時の首脳陣、軍令部は逆に長期戦を好み、南方の石油利権を確保した後、徐徐に攻める作戦をとった。そのため、国力の無い日本は、石油、鐡をはじめ戦争遂行に必要な物資の不足に苦しみ、自滅してしまった。

研究は長期戦である。一つのことを明らかにしたら,更に次の問題点を明らかにするという、目的に至まで果てしない。誰でもかっこ良く最終目的を明らかにしたいと考える。しかしそのためには越えなければならない山が多くあり、時間がかかり過ぎる。研究も拙速を尊び、特に競争が激しい分野などでは、長期戦を行なう事が出来ない。その場合、実際の対応では最終目的に至までの長い道筋にある出城を落としたら、その攻防戦での論文を作成し、次の出城に至る。またそこで論文を作成し、一つ一つ敵の城を落としながら、最終目的の大きな城に至り、全体像を明らかにする、というようなやり方をしないと、道のりの遠い、大きな仕事を成し遂げるのは難しい。若い優秀な人ほど、大きなテーマを掲げ、目的を明らかにする計画の中で、あれもこれも明らかにしたいと、色んなデータの取得をしようとするあまり、時間がかかり過ぎ、テーマの旬も過ぎ、同じような論文も出され、その苦労の割には得るものがないということになる事が多い。研究も時には拙速を尊ぶである。

日本は研究の不正行為に対しての処分が甘い?

2013年04月11日 17:56

Natureが「日本は研究の不正行為に対して追求が甘い」ことを糾弾

4月の4日のNature のThis Weekという項の編集欄に名指しで日本の科学研究の不正や誤った指導ついて原因をきちんと調査し正すようにとの論説が載った。A record made to be broken. Nature 496, 5 (2013)

科学的不正行為に関して、東京大学分子生物研究所の加藤茂明教授らのグループによるデータ捏造事件が昨年大きな関心事になった。この際,問題になったのはデータの使い回し、でいくつもの論文に同じデータが使われた。一方このNatureが取り上げているのは東北大学総長だったBig scienceのリーダー井上明久教授グループの研究指導とその実験結果だ。

日本での大型研究費の主な研究費配分機関(JST)は不正のない正直な研究者を選んで研究費を支給してきたが、それとも不正に対する証拠を見つけられなかったかだ。JSTによれば1957年に始まり、昨年は87.8億円配分した、研究費支給において不正がおこなわれたケースは調査上では皆無であると報告している。

一方、米国のNIHでは年間12例かその程度の不正が報告されている。また、日本でも近年目立った不正が立て続けに起こっている。麻酔学者のFujii Yoshitaka氏は個人として最も多く論文を撤回していて、JSTの報告するクリーンなレコードとは合わない。

長期間続いている不正な研究の場合はより深刻だ。前東北大学学長のInoue Akihisa氏は数年に渡って不正な研究を指揮したとして責め立てられている。しかし井上氏がmisconductに関与したという証拠は無い。本人もデータを操作した事はないと言っている。彼はよりしなやかでより壊れにくい材料である金属ガラスの分野の世界のリーダーの一人で、2500以上の論文を出版している。以前、彼はNatureの問いに対し他の研究者は単純にスキルが無いか彼の研究室での結果を再現できるだけの経験が無いのだろうと言っていた。 

JSTはその事態を調査する必要がある。井上氏に関する疑問は6年前くらいから不特定の警鐘を鳴らす人々から挙げられ、20年程前にさかのぼった研究から言われている。多くの複雑な人間のからみがある。Zhang Tao氏は数本の論文において井上氏と共同著者だが、作り上げた金属ガラスとドキュメントは中国に帰る際、入れていたコンテナが海に落ちて失った、と言っている。
2007年に東北大学により設置されたmisconductがあったかどうかを決める委員会は、以前井上氏により昇格された人々で主に構成されていた。そしてその委員会の結論は科学的不正に関しては調査の必要なしであった。しかし論文には一連の訂正がなされた。

昨年、JSTにより別の委員会が設立され再度調査された。井上氏は1997年から始まった5年のプロジェクトで1.5億円の補助を得て、その間に問題のある論文が数報出ているが、misconductの証拠は見つけられなかったが、より精密な検査が相当だと報告した。そこで昨年の春、JSTは公式に大学に再度調査を依頼した。12ヶ月経っても、大学もJSTも調査がおこなわれたことを確認できなかった。調査に期限は切られていないが、もし東北大学が対応しないのなら、JSTは再び依頼する以外動きようが無い。大学はもしそれがmisconductだと分かればお金を返さなくてはならないので、調査の困難さに加えて、利益相反にも相当するようになる。何もしなければなんの結果も産まれない。未だ何も結果がでていない。JSTはきちんと対処する姿勢を取らなければ、組織の信用性を揺るがすことになる。

ここに出てくる藤井善隆氏は2012年2月に告発された当時東邦大学医学部麻酔科の准教授である。
日本麻酔科学会は、澄川耕二・長崎大学教授を委員長とする「藤井善隆氏論文調査特別委員会」を設け、藤井の業績とされる249本の論文のうち、1990年から2011年に発表された212本を検証した。委員会は、藤井の論文の共著者たちや藤井に研究に関わってきた様々な人々にも聞き取りを行なった。委員たちは実験ノート、患者の記録、その他、藤井の研究の生データの入手と点検も試みた。2012年6月29日、委員会は合わせて172本の論文にデータの捏造があったと報告した。このうち、126本については、「まったくの捏造」であったと結論づけられた。報告書は「即ちあたかも小説を書くごとく、研究アイデアを机上で論文として作成したものである」と述べている.

一方、井上明久氏は2006年から2012年間東北大学総長とかくかくたる経歴の持ち主で、金属ガラスをはじめとする高機能な非平衡物質の精製方法を開拓しその産業化に指導的役割を果たした業績や、論文の総被引用数が1981年以降で1万4000回を超え、材料科学分野で世界最高水準にあることなどが評価され、2006年12月の日本学士院の第2部(自然科学部門)第5分科(工学)の会員に選定された。
しかし井上氏は一部の論文に関して二重投稿やその他の不正行為の疑いを受けた。2007年5月、井上氏の実験結果の一部に再現性がないと主張する匿名の告発文が文部科学省に送付され、同省は東北大学に調査を求めた。東北大学は理事の庄子哲雄を長とする委員会を設置して調査を行い、再現性があることを確認した。2009年に日野秀逸、大村泉らが実験結果の捏造の可能性を指摘したが、検討にあたった東北大学の外部委員らは不正を疑うべき根拠がないと回答し、井上は2010年7月までに名誉毀損で大村らを提訴し大村らは反訴した。2011年6月、井上氏がApplied Physics Letters誌に投稿した論文が二重投稿にあたるとして同誌から取り下げられた。それを含む井上氏を著者・共著者とする計7報が、二重投稿だったとして2012年までに取り下げられた。これらの二重投稿について調査するため東北大学は2010年12月に有馬朗人を長とする調査委員会を設置した。同委員会は2012年1月の報告書で二重投稿の事実を認めて井上氏に反省を求め、井上氏はこれに従った。御園生誠を長とする科学技術振興機構の調査委員会は不適切な二重投稿の存在を認めた一方で、同機構が助成した「井上過冷金属プロジェクト」の成果の主要な部分には影響しないと2012年3月に報告した。井上氏はデータの捏造については2011年までに否定し、二重投稿については事故や共著者との行き違いが原因だったと2012年に説明した。井上氏の複数の論文に渡る同一資料写真の不自然な使い回しなどに関して科学技術振興機構が2012年までに調査を求めていたのに応じて、東北大学が調査委員会の設置を決めたことが2013年3月に報じられた。まだ最終的な結論が出ていないが不正が行なわれたことは否めない。

Natureが主張するには疑惑が持ち上がった以上徹底的に調査し、その結果を公表して、黒であれば断固たる処分を下す事を求めている。日本社会は臭い物には蓋をの精神で、曖昧な結論にしてしまい,責任を取らない事が多い。研究においては責任者や実験遂行者がはっきりしている。その場合でも曖昧な結論を出す傾向にあるのだから、責任者が曖昧な管理体制での原発事故の様な大惨事でもだれも責任を取らないのは当然であろう。

悪い予想を口にしてはいけない

2013年04月02日 18:35


「明日は雨になる」などと悪い予想は言ってはいけないという言霊(ことだま)信仰が危機管理を排除する。と「学校では教えてくれない日本史の授業」の中で井沢元彦は述べている。

たとえば先輩が海外に留学する際、空港に見送りに行き、「最近飛行機がよく落ちるから気をつけてくださいよ」と言ったとする。こんな縁起でもない事を言われると全く根拠がなくても不愉快になる。一旦口にするとそれが現実になるという言霊信仰が未だに生きている。試験前には「落ちる」とか「滑る」とかいう言葉を使わないようにし、結婚式を前にして「別れる、切れる、終わる」などの言葉は縁起が悪く口にしてはいけないという風習が今も残っている。特に江戸文化では「するめ」とか「すりこぎ」などは縁起が悪いので,「あたりめ、あたりばち」という。これも言葉にして発するとそのようになってしまう気がするという言霊信仰なのだろう。つまり日本では負けるとか試験に落ちるとかネガテイブなことを言っても予想をしもいけない。

太平洋戦争はクールになって考えればアメリカに勝てるはずが無いという結論に達するのは明白なのに戦争に負けると言ったら非国民扱い。神国日本が負けるはずはない。負けるということは頭になく、よって負けないのだからその対策は必要ないとなってしまう。
戦争に負けるという奴は戦争に負ける事を好んでいる奴だという事になってしまうともう正論は通らない。当時海軍の次官を務めていた、山本五十六は「アメリカと戦争しても勝てる訳ないのだから戦争してはいけない」と繰り返し言っていた。しかしその考えは圧倒的な多数で反対されてしまう。なぜ日本ではこんなに影響力のあった人が正論をいってもだれも聞く耳をもたなかったのだろうか?天皇陛下へも「是非やれと言われれば初め半年や一年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかし2年3年となれば、全く確信は持てない。3国条約ができたのは致し方ないが、かくなる上は日米戦争を回避するように極力ご努力願いたい」と言い最後まで開戦に反対したが、全く取り入れられず右翼に付け狙われる始末。しかし戦争が始まると連合艦隊指令長官として真珠湾攻撃を初めとして重要な作戦を遂行する羽目になる。

何故戦争に負けると言った人を連合艦隊司令長官にしたのか?海軍の作戦を立てる中枢の軍令部にいれば、国民に人気のある山本五十六が作戦に口出しをして、戦争をやりたい時の首脳陣にとって都合が悪かった。そのため現場のトップである連合艦隊指令長官を押しつけ、厄介者を排除した。現場監督となった彼は戦争をするかしないかとかやるか止めるかに関して口を差し挟む権限が全くない、上からの命令に従うのみ。それで負けると分かっていても命令されれば,軍人として作戦を実行しなければ行けない立場に追いやられてしまった。ましてや一般国民はアメリカと戦争したら負けるという予測できても、負けるとは言えない、言えば非国民。何の根拠がなくとも絶対に勝つといっていれば自分をはじめ家族の人間関係がうまくいく。つまり日本人は論理的予測よりも希望的観測を信じたがる民族で、今でもオリンピックの選手の実態を分析せず、過去に一度でも勝った例があると、すぐにメダル獲得確実と過度の期待をかけて予測する。決して無理だろうとは書かない。

同じ事が原発の事故対策にも言える。そんな大地震や大つなみなんか起こるはずが無いのだから対策は考える必要がないと、全く根拠が無いのに自分たちでいいように理屈つけて、この原発プラントは絶対安全だとの神話を作り、議論を封印してしまう。

最近の若者の中に妙に楽観的で希望的な予測ばかりする者がいる。つまり自分は運がいいから試験に通るとか、出世できるなど常に神風が吹く事を信じている。全く客観性に欠け、自己中心的に考えるという性格の人物が増えているのは恐い現象。
クールに分析しての適正な危機管理は個人にも企業にも国家にも大切。
ソニーやシャープ、パラソニックは希望的観測での積極的経営でこうあるだろうとの予測が全部外れ、全く危機管理が欠けていたとしか言えない。



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